第172話

 夏休みに入って一週間。

 二人でどこかに行くという約束はしたけれど、行き先を決めかねている。候補がないわけではないが、これだという場所がない。


「宮城」


 ベッドの上から、床に座って漫画を読んでいる宮城の髪を引っ張る。だらしなく横になった体の先が宮城とほんの少しだけ繋がって、心拍数が上がったような気がする。


「仙台さん、さっきからなんなの」


 ベッドを背もたれにしていた宮城が背中を向けたまま、私の手をぺしんと叩く。

 彼女の気持ちはわかる。

 十分くらいの間に三回も髪を引っ張られたら、宮城ではなくても同じようなことを言うだろう。


「暇だなーと思って」


 さすがに漫画ではなく私を見てほしいとは言えないし、漫画と面白さを競って私が勝てるとも思えない。


 宮城の中の一番がほしくないわけではない。でも、用もないのに彼女が私の部屋に来てくれる現状を今は維持した方がいいはずだ。


 この部屋で普通のルームメイトならしないであろうことを初めてしたときは、宮城が姿を消してしまったけれど、今回はそんなことはなかった。今まで通り私の部屋に来てくれて、なんでもない時間を過ごしてくれているのだから、そういう時間を大切にすべきだと思う。


「これ読めば」


 宮城が床に積んでいた漫画を一冊手に取って、ベッドの上に置く。


「この前、読んだ」

「もう一度読んだらいいじゃん」

「漫画読むの飽きたし、出かけようよ」

「どこ行くか決めたの?」


 ずっと背中を向けていた宮城が読んでいた漫画を閉じて、私を見た。


「温泉旅行」

「……今から?」

「今から」

「温泉旅行に出かけるような時間じゃないと思うけど」

「泊まればいいんじゃない?」


 夕方にはまだ早いけれど、お昼ご飯を食べてからそれなりに時間が経っているから、今から温泉旅行に行くなら日帰りと言うわけにはいかない。移動する時間を考えると、行った先で泊まることになる。


「……二人でどこか行くって日帰りじゃないの?」

「日帰りじゃないって言ったら?」

「泊まるところ、予約してないよね?」

「予約してなくても、泊まれるところあるんじゃない」

「仙台さん、ほんと適当だよね。大体、泊まれるところがあったとしても行くわけないじゃん。そういうどこかへ行くって話だって知ってたら、最初から行くって言わなかった」

「言うと思った」


 聞く前から答えはわかっていたが、聞いてみても罰は当たらない。もしかしたらいいというかもしれない、なんて淡い期待が現実のものになるかどうか試すくらいはしていいはずだ。


 ――今日は期待が裏切られてしまったけれど。


「仙台さん、ちゃんと行く場所考えてよ」


 宮城が不満そうな声を出す。


「考えてはいるんだけどさ」


 目的地が温泉である必要はないし、旅行にこだわっているわけでもない。


「どんなところ?」

「んー。まだ迷ってるし、決めてから言う」


 二人で行きたい場所はいくつもあるけれど、ここでなければ駄目だという場所はないから、宮城が楽しめる場所に行きたいと思っている。でも、宮城が楽しめる場所、という条件が難しすぎて目的地を絞り切れていない。


 映画は過去に二人で行ったことがあるから、新鮮味がない。

 大学の友だちとならショッピングでもいいけれど、宮城とは趣味が合わない。彼女の趣味に合わせるという方法もあるが、そういう場所に行こうと言ったら断られそうだ。美術館や博物館も考えてはみたものの、共通の趣味でもないのに行こうと誘ったら、それは、なにか、デートのようなもの過ぎて誘いにくい。


 普段、遊びに行く先を考えて迷うことなんてあまりないけれど、宮城が関わると迷うことしかできない。


「もうどこにも行かなくていいじゃん」


 宮城が投げやりに言って、漫画を開く。

 私は宮城の視線が手元の本に落ちる前に髪を軽く引っ張って、彼女の視線を取り戻す。


 去年の夏休みと同じように宮城が側にいる。

 しかも、去年よりも進んだ関係で。


 それだけで満足しろと言われればするけれど、せっかく二人で出かける約束をしたのだから「どこにも行かなくていいじゃん」という彼女の言葉をすんなりと受け入れてしまうのは勿体ない。


「夏休み始まったばかりだし、慌てて決めなくてもいいでしょ。少し待ちなよ」


 高校生の頃とは違って九月に入っても夏休みが続くのだから、急ぐ必要はない。私たちの夏は去年より長くて、去年よりもずっと一緒にいられる。


「仙台さんバイトもあるし、無理に出かけなくてもいいじゃん。バイトしてれば」


 宮城が面倒くさそうに言って、ベッドに寝転がっている私のお腹をぐいっと押してくる。


「バイトいつもと同じ曜日しかないし、暇」


 確かに夏休みも家庭教師のバイトはあるが、休みだからと言って増えたりはしない。そして、増やすつもりもない。いや、他のバイトを増やそうと思っていたけれど、この夏休みではなくてもいいという結論に至った。なにかを増やすなら、それはバイトではなく宮城と過ごす時間だ。


「暇ならバイト増やせば。私は暑いし、家にいる」


 私の想いが伝わることはなく、宮城が人を大きなぬいぐるみだとでも思っているような手つきでまたお腹を押してくる。


 彼女の言葉通り、レースのカーテンの向こう側はエアコンが効いているこの部屋とは比べものにならないくらい暑くて、今が真夏だということを主張している。外に出かけるよりも家にいたいという気持ちはわからなくもないが、その気持ちを受け入れたくはない。


「今のところバイト増やすつもりないし。そんなことより、宮城は行きたいところないの?」


 答えてはくれないだろうけれど、一応尋ねてみる。


「仙台さんが行き先決める約束じゃん」


 少し低い声で宮城が言って、今度は私のお腹を撫でる。

 手つきは、お腹を押しているときとあまり変わらない。服の上からぬいぐるみを撫でるように触られていると、宮城の近くにいるカモノハシと扱いがあまり変わらないように思える。


 噛みつかれたり、蹴られたりするよりはいいし、私の体の一部を気に入ってくれているなら嬉しいけれど、私がぬいぐるみではなく生きている人間だと伝えたくなる手つきには文句がある。


「宮城」


 呼びかけると、動いていた手が止まる。私はベッドから下り、宮城の隣に座って手を伸ばす。彼女の髪に触れ、ピアスにキスをしてすぐに唇を離す。


「今、キスする必要あった?」


 不満そうな声が聞こえてくる。


「あった。行き先決めるのって約束だし、破らないように誓っておいた」

「誓うような約束じゃない」

「誓っておいた方が安心でしょ」


 にこりと笑いかけると宮城が口を開いてなにか言いかけたけれど、どうせ私に対する文句だから指先を唇に這わせて言葉を奪う。宮城が薄く唇を開いたまま、私を見る。顔を近づけると、一瞬眉間に皺を寄せてから静かに目を閉じた。それはキスをしてもいいということで、私は彼女の唇を塞ぐ。


 強く唇を合わせて舌を差し入れると、宮城は抵抗することなく私を受け入れてくれる。舌先がすんなりと宮城の舌と混じり合う。


 夏休みの宮城は寛容だ。


 去年もそうだったけれど、私が触れることを許してくれる。

 夏という季節がそうさせているのだったら、ずっと夏が続けばいいと思う。


 私は唇を離して、さっきよりも深く宮城と交わるようにもう一度キスをする。唇も舌も温かくて柔らかくて気持ちが良くて、もっと宮城に触れたくなって腕を掴むと、彼女にはこの部屋の温度が低すぎるのか触れた部分がひんやりしていた。私は温かくて冷たい宮城を堪能してから、唇を離す。


「キスしすぎ」


 ぼそりと言って、宮城が私から少し離れる。


「もっとキスさせてくれたら、出かけなくてもいい」


 せっかく取り付けた約束をなくしてしまいたくはないけれど、条件によっては出かけなくてもいい。去年の夏休みだってほとんど家の中で過ごしたし、インドアも悪くない。


「もっとって?」


 私は宮城の頬に触れて、首筋まで指を滑らせる。


「今日だけじゃなくて、夏休み中ずっと、いろんなところに」


 Tシャツの首元を辿って、鎖骨を撫でる。そして、首筋に顔を寄せると、宮城が私の肩を押した。


「行き先決めるって誓ったんだから守ってよ」


 キスよりも出かけることを選んだらしい宮城が私を睨む。


「宮城のケチ」

「ケチじゃない」

「ケチじゃん」

「……もっとじゃなかったらいい」


 油断していたら聞き逃してしまいそうな小さな声で宮城が言う。


「え? 今なんて」


 耳に言葉は入ってきたし、意味も理解したが、聞き返さずにはいられない。


「宮城」


 名前を呼んでも、黙ったままでなにも言わない。だから、私は聞こえてきた言葉が間違っていないか確かめるために、唇を宮城のそれに重ねる。


 キスは拒まれない。

 でも、唇を離して首筋に触れようとすると、押し離された。


「今日はもうおしまい」


 やっぱり、夏休みの宮城は寛容だ。

 そして、こういう宮城はずるい。

 こんな風に許されると、宮城の気持ちが私に向いているとしか思えなくなる。


 私は頭の中で、もっとではなければキスをしてもいいと自ら口にする寛容な宮城がいる現状と、気持ちを確かめた先にある未来を天秤にかける。


 深く考えるまでもなく、キスをしてもいいと自分から言ってくる寛容な宮城がいる現状の方が魅力的で、気持ちを確かめてそれを失うようなことにはなりたくないと思う。


 黙っていると、宮城が漫画を開いて読み始める。

 紙をめくる小さな音だけが聞こえてくる。

 私は冷たかった彼女の腕を思い出して、エアコンの設定温度を一度上げた。

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