第174話

 暑い。

 いくら私が寒がりだと言っても、夏は暑い。


 夕方に近い時間帯だからといって涼しいわけではないし、暑い中わざわざアイスを買いに行くくらいなら家にいたいと思う。

 でも、仙台さんはそうじゃないらしい。


「宮城、もう少し早く歩きなよ」


 三歩ほど前を歩いていた仙台さんが足を止めて私を見る。彼女は暑がりなくせにコンビニまでアイスを買いに行くというイベントを楽しんでいるようで、声が明るい。


「急いだら暑い」

「だらだら歩いてると歩く時間が長くなって、余計に暑くなりそうだけど」


 仙台さんが私の腕を引っ張って歩き出す。私は引きずられるようにして仙台さんの後をついていくけれど、足を動かすスピードは上がらない。やっぱりだらだらとしか歩けなくて、のんびりと歩くつもりのない仙台さんが私の手を握った。


 私たちは必然的に手を繋いで歩くことになる。


 こういう風に二人で歩いていると、舞香が言っていた『一緒に住んでいる二人で行けばなんでもデートになる』という言葉を思い出す。正確に舞香の言葉を再現するなら、一緒に住んでいる二人は『同棲している二人』であって『ルームメイト』のことではないけれど、こうして手を繋いで歩いているとデートのようなものをしているような気がしてくる。


「仙台さん、ちゃんと歩くから手離して」


 舞香の言葉を気にしているわけじゃない。

 私たちがデートをしているわけじゃないってこともわかっている。

 でも、なんとなく手を繋いでいたくなくて、繋がった手をぶんっと振った。


「いいじゃん。離さなくても」


 コンビニへ向かう道。

 夏らしく蝉がどこかで鳴いていて、ときどき吹く風は生温い。街路樹が作る影は控え目で太陽の光から逃れるには頼りなく、空が赤く染まるにはまだ時間がある。


 暑い。

 繋いだ手も、体も。


 私は手を離したくて、もう一度繋がったままの手をぶんっと振る。それでもやっぱり手は離れない。それどころかぎゅっと強く握られて、文句を言おうとしたら仙台さんが唐突に「あ、ミケちゃん」と呟いて止まった。


「みけ?」

「前に話した三毛猫。ほら、こっち来る」


 仙台さんの視線を辿っていくと、彼女と探しに行って見つからなかった猫で、舞香と一緒に見た三毛猫が目に映る。


「あの猫、みけって名前なの?」

「三毛猫だからミケ。勝手にそう呼んでる」


 そう言うと、仙台さんがどうやっても離してくれなかった手をあっさりと離して歩道の端にしゃがんだ。


「ミケちゃん、おいで」


 三毛猫がぴたりと止まって私たちを見る。そして、とことこと仙台さんの前までやってくると「にゃ」と短く鳴いた。


 猫の目には私が映っていない。

 仙台さんの目にも私が映っていない。


 しゃがんだ仙台さんが「久しぶりだね」と言いながら猫を撫でる。夏休みに入ってから家にいることが多かったから、大学から家へ帰ってくる途中によく会うという三毛猫には会えていなかったのだと思う。


「今日も可愛いねえ」


 ぐるぐる。

 ごろごろ。

 仙台さんの声に答えるように猫が喉を鳴らす。


 三毛猫は、私と舞香が見つけたときとは違って随分と人懐っこい。いや、仙台さんに懐いているだけかもしれないけれど、あっという間に歩道に寝転んでお腹を撫でさせている。


 仙台さんの手が三毛猫の体の上を行ったり来たりする。彼女は、私のことなんてどうでもいいみたいに猫を撫で続けている。


 三毛猫は幸せそうで、ずっと仙台さんに撫でていてもらいたいように見える。でも、仙台さんは夏休み中ずっと私といるから、休みの間、三毛猫はあまり仙台さんと会えないはずだ。


「ねえ、いつまで猫撫でてるの」


 猫に恨みはないけれど、ずっと放っておかれるのはいい気がしない。こういう風に彼女の興味が他に移っているところを見ると、胸がざわつく。


 あの日、仙台さんに触れて、溶けたはずの不安がまた固まって浮かび上がってくる。体のどこかから集まってきた不安は、今まで以上に私の意識を仙台さんへと向けさせる。だから、余計に彼女のすることが気になって、不安が大きくなったり小さくなったりする。


「宮城も撫でればいいじゃん」


 撫でたいのは猫じゃない。


 でも、そんなことは言えず、屈んで手を伸ばすと三毛猫が耳をぴくりと動かした。私は猫が逃げないようにちょっと手を止めてから、そっと撫でようとする。でも、三毛猫は私の手が触れる前に逃げてしまう。


「仙台さん」


 彼女が悪いわけではないが、責めるような口調で仙台さんを呼ぶことになる。


「同族嫌悪かな」

「私、猫じゃないから」

「前にも言ったけど、似てると思うよ。猫に」

「似てないと思う」


 私は立ち上がって、しゃがんだままの仙台さんの腕を引っ張る。


「もう行こうよ。暑い」

「はいはい」


 仙台さんが立ち上がって、私は彼女から手を離す。

 猫はもう姿が見えない。

 仙台さんの目を奪うものがなくなって、波立った気持ちが凪ぐ。


 仙台さんに触れて、仙台さんから触れられて。


 そういうことを何度も何度も繰り返していれば、不安は消えたままでいてくれるのだろうか。


「宮城、ぼーっとしてると危ない」


 肩をぽんっと叩かれて、意識が歩くことに向かう。


 今度は手が繋がれたりはしない。


 私たちは停滞する生温い空気をかき混ぜるように早足で歩く。あっという間にコンビニについて、アイスを三日分買って家へ戻る。行きよりも速く歩いたのに冷蔵庫の前に着いたときには、ジリジリジワジワと太陽に焼かれたアイスは汗をびっしょりかいていて溶けかけているように見えた。


「仙台さん、冷凍庫にアイス全部入れるよ」


 私は答えが返ってくる前に、袋の中のアイスを冷凍庫に入れてしまう。でも、仙台さんがすぐに閉めたばかりの冷凍庫を開けた。


「なんで? 食べようよ」


 そう言うと、仙台さんが勝手にソーダ味といちご味のアイスキャンディーを取り出す。


「溶けてそうだし、一回冷凍庫に入れた方が良くない?」

「そんなに溶けてないって」


 仙台さんはアイスキャンディーを諦めるつもりがないらしく、そのまま部屋へ戻ろうとする。仕方がないから、私も一緒に彼女の部屋へ行く。二人でベッドを背もたれにして座ると、仙台さんからソーダ味のアイスキャンディーを渡された。


 私はバリッと袋を破いて、空色のアイスキャンディーに齧りつく。


「やっぱり一回冷やした方が良かったじゃん」


 二口目を囓ってから、仙台さんに文句を言う。

 美味しいけれど、アイスキャンディーは少し柔らかくて頼りない。


「まあ、いいじゃん。少しくらい溶けてたって」

「良くない。なんか棒から取れそうだもん」

「じゃあ、急いで食べなよ」


 仙台さんはそう言うと、大きな口でアイスキャンディーに齧りついた。言いたいことはたくさんあるけれど、私も黙ってアイスキャンディーを囓る。


 外は暑かったけれど、こうしてアイスを食べていると買いに行って良かったような気がしてくる。隣に視線を向けると満足げな仙台さんが目に映って、私はじっと彼女を見た。


「一口食べる?」


 催促したつもりはなかったが、いちごの香りが漂うアイスキャンディーが私の前に差し出される。私は三分の一ほどが消えた赤いアイスを見てから、仙台さんに視線を戻した。


「宮城?」


 名前を呼ばれて、仙台さんの腕を掴む。でも、私はアイスキャンディーを囓らずに仙台さんの唇を舐めた。


 甘い。


 でも、それだけでなに味かよくわからない。私は本当にアイスキャンディーがいちご味なのか確かめるために、もう一度唇を舐めた。


「仙台さん、冷たい」


 結局、いちご味だったのかどうかよくわからない。


「……まあ、アイス食べてるしね。でも、一口食べるって私じゃなくてアイスの方なんだけど」

「味見なら、どっち食べてもかわらないじゃん」

「かわるし、キスはもうおしまいって言ったの宮城だよ。忘れたの?」

「今のはキスじゃなくて、味見だから」


 そう、キスじゃないから仙台さんの唇に触れてもいい。

 たとえキスだったとしても、キスはもうおしまいというのは仙台さんだけで、私には適用されない。


「だったら、私も味見したい」

「駄目」


 私は食べかけのアイスキャンディーを仙台さんの首筋にくっつける。


「ちょ、つめたっ」


 仙台さんが思ったよりも大きな声を出して私から逃げる。

 アイスキャンディーは行き場を失い、私は彼女がこれ以上遠くに行ってしまわないように首筋に噛みついた。


 何度も噛みついたことのある首は、簡単に歯が皮膚に埋まる。でも、仙台さんが痛みで私を押し離すことがないように加減して噛んで、舌を押しつける。


 エアコンで冷たくなった首にぺたりとくっついた舌先からは、人の肌とは思えない甘さを感じる。でも、アイスキャンディーをつけてソーダ味にしたはずの首筋は、仙台さんの匂いと汗が混じって別のなにかの味になっていた。


「宮城」


 ぽん、と肩を叩かれて唇を離す。でも、すぐに噛みついて首筋にゆっくりと舌を這わせる。仙台さんはもう甘くない。それでも、柔らかく噛んで、鎖骨に向かって何度も唇を押しつけていく。仙台さんは、あの日のようには声を出してくれない。


 私から仙台さんに触れた日のことは、脳裏に焼き付いている。忘れたくても忘れられないくらい鮮明な記憶で、あのときの彼女の声、体温、私の指を濡らしていたもの、すべてをはっきりと思い出すことができる。


 また私だけを見て、私だけを求めてくれた仙台さんを見たいと思う。そして、同じくらい仙台さんに触れてほしい。でも、それはあまりにも彼女と交わりすぎる行為で、何度も繰り返すべきではないとも思う。


「ちょっと、宮城」


 仙台さんが強く私の肩を叩く。

 だから、同じくらい強く彼女の肩を噛む。

 アイスキャンディーが溶けて手の上に落ちる。


「宮城、アイス。床に落ちるってば」


 聞こえているけれど、聞こえないふりをして肩に歯を立て続けていると、仙台さんが私のアイスキャンディーを取り上げてまた「宮城」と呼んだ。私は渋々顔を上げて、仙台さんを見る。


「口開けて」


 低い声が聞こえて、大人しく口を開けるとアイスキャンディーを押し込まれる。仕方なく溶けかけたアイスキャンディーを胃の中に片付けてから、ティッシュで手を拭う。


「べたべたしてる」


 ウェットティッシュではないから、手についたアイスキャンディーを綺麗に拭い取ることができない。


「そりゃそうでしょ。ていうか、宮城が変なことしてくるから私までべたべたしてるんだけど」


 アイスキャンディーを食べ終えた仙台さんが呆れたように言う。


「私、猫だし、舐めてもいいんでしょ」

「猫って?」

「コンビニ行くとき、同族嫌悪って言ったじゃん」

「言ったけど、なんで食べてるときにこういうことするわけ」

「こういうのって、理由いらないんでしょ。それにほっといたら仙台さんの方からしてきそうだったから、先にしておいた」

「ほんと、宮城って馬鹿でしょ。するなら、アイス食べてないときにしなよ」


 そう言うと、仙台さんが私の首筋に唇をつけてくる。

 湿った息が吹きかかって、くすぐったくて気持ちがいい。


 でも、仙台さんからしていいキスはもう終わっているし、このままキスを許してしまうとキスだけでは終わらない気がして、私は仙台さんの体を押した。


「宮城。明後日、暇?」


 文句を言うわけでもなく、私の予定を聞いてくる。


「暇だけど」

「じゃあ、この前の出かけるって約束、明後日でいい?」

「いいけど、どこ行くの?」

「それは当日のお楽しみ」


 そう言うと、仙台さんが楽しそうに笑った。

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