第175話

 電車に乗って、降りて。

 今はただ仙台さんの隣を歩いている。

 何故なら当日の朝になってもお出かけの目的地は“お楽しみ”のままで、家を出たあとも“お楽しみ”が継続しているからだ。


 どこへ行くのかは仙台さんしか知らない。


 もちろん、文句は言った。

 朝から機嫌がいい仙台さんにどこへ行くのか聞いたし、行き先がわからなければ着る服を選べないとも言ったけれど、彼女は目的地を教えてはくれず、スカートを渡してきた。


「着替えたら部屋にきて」


 当然のように言った彼女によって服装を決められた私は、薄くメイクまでされて、朝から目的地がどこか明かされないまま一緒に出かけるという約束を果たしている。


「まだ着かないの?」


 隣を歩く仙台さんに問いかけると「もうすぐ」と返ってくる。


「もうすぐってどれくらい?」

「もうすぐはもうすぐだって」


 本当にもうすぐなのか私にはわからないけれど、仙台さんは迷いなく歩く。


 彼女はキャミソールにブラウスを合わせ、涼しげな色のスカートをはいている。仙台さんはどんな格好も似合うけれど、今日はいつもよりも綺麗に見える。それはただの気のせいかもしれないし、いつもとは違う場所を歩いているからかもしれない。

 どちらにしても普段とはちょっと違って見えて、なんだか少し緊張する。


「宮城、これに乗ったら着く」


 仙台さんがエレベーターの前で言う。


「目的地って水族館?」

「正解。よくわかったね」


 仙台さんの軽やかな声とともにエレベーターがやってきて、私たちは小さな箱に乗り込む。


「さすがにここまで来たらわかる。案内板に水族館って書いてあったもん。なんで秘密にしてたの?」


 青く塗られたエレベーターの中、仙台さんが「んー」と小さく唸って黙り込む。彼女が喋らない代わりに、子どもの声が響く。夏休みのせいか水族館へ向かう箱の中は限界まで人が乗っていてそれなりに騒がしいけれど、仙台さんは黙ったままだ。しばらくするとエレベーターが止まって、私たちは外へ出る。


「行かないって言われたら嫌だから」


 人の波に流されながら水族館のエントランスを歩いていると、仙台さんが思い出したように言う。


 外見も頭も良くて、何でもそつなくこなす。

 怖いものなんてなさそうな仙台さんが、私の返事を気にして目的地を言えないなんて嘘としか思えない。でも、嘘を言っているような声には聞こえなかった。


 水族館くらい普通に誘えばいいのに。


 出かけるという約束を破るつもりはなかったから、水族館に行くと言われても断ったりはしなかった。


「なんで水族館なの?」


 チケットを買うために並びながら尋ねる。

 仙台さんから水族館が好きだという話を聞いたことがないし、魚が好きだという話も聞いたことがない。そもそも友だちとどこかに遊びに行こうという話になったときに、水族館が挙がることは少ないと思う。だから、水族館を目的地にした理由が気になる。


 イメージ的には家族で行くだとか、旅行のついでに行くだとか、そういう場所で、もう一つ挙げるならデートで行くような場所だ。

 いや、デートなんて明らかに私の考えすぎで、舞香に変なことを言われたから意識しすぎているのだと思う。


「宮城、動物好きだから」


 頭の中が舞香の言葉でいっぱいになりかけたところで仙台さんが支離滅裂なことを言いだして、私は彼女をじっと見ることになる。


「……水族館って魚見るところだけど」


 私が動物好きかどうかはともかく、目的地の選び方がおかしい。


「良かった、意見が一緒で。キリン見るところだって言われたらどうしようかと思った」

「そういう話じゃなくて。普通、動物好きな人を連れて行くなら動物園じゃん」

「大まかに言えば魚も動物だからキリンと似たようなものだし、水族館でも問題ないでしょ。大体、動物園は外歩き回るから暑いじゃん。水族館の方が涼しくていいと思わない?」


 仙台さんは明るい声で言うと、同意を求めるように私を見た。


「そうだけど」


 私も暑い場所に行くよりも涼しい場所の方がいいけれど、魚もキリンも同じものとして水族館を選ぶような仙台さんのカテゴリー分けは大雑把過ぎると思う。


「宮城は動物園の方が良かった?」

「水族館でいい」

「なら、今回は水族館で。涼しくなったら動物園に行こう」


 随分と先の予定が勝手に埋められかけて、私は即答する。


「別に行かなくていい」

「いいじゃん、行こうよ。動物好きでしょ」

「そこまで好きじゃない」

「好きになりなよ」


 チケットを買うために並んでいる人は掃いて捨てるほどいて、混雑している。こんな場所で嫌だと騒いだり、人を蹴ったりするほど常識がないわけではないから、大人しく仙台さんの言葉を受け入れるしかない。


「……そこまで言うなら行ってもいいけど」


 動物は特別好きだというわけではないが、嫌いなわけじゃないから動物を見に行く日があったっていい。


「じゃあ、そういうことで」


 私たちはなんとなく夏が終わったあとの約束をして、私が渡した五千円を貯めたお金で仙台さんがチケットを買う。そのお金を使うことには不満があったけれど、仙台さんが使うと言って朝から譲らなかったから仕方がない。


 それでも喉から出かかった文句を飲み込んで館内へ入ると、深い海の底にいるような青い空間が広がっていた。魚と同じくらい人が多くてざわついているのに、静かな青に包まれているせいかそれほど人の声が気にならない。


「順路通りでいい?」


 仙台さんの声に「いいよ」と答えて歩く。

 鮮やかな魚たちが泳ぐ水槽の前を通り、イワシの群や変な形のサメを見る。館内はたくさん人がいて母親や父親と楽しそうに歩いている子どもが目につくけれど、自分の過去と照らし合わせようとは思わない。仙台さんと魚を探している方が楽しい。


 ただ、気になるものもある。


 それは手を繋いだり、腕を組んだりして歩いている人たちで、やっぱり水族館はデートで行くような場所でもあるのだと思う。そして、そういう人たちを見ていると、舞香が遊びに来た日のことを思い出す。


 あのとき、舞香がした「仙台さんは好きな人いないの?」という質問の答えをまだ聞いていない。


 私は、大きなエイやサメが泳いでいる水槽の前で足を止める。


「……仙台さんって、彼氏作らないの?」


 少し遠回しな言い方ではあるけれど、彼氏や彼女と来る場所でもあるここなら口にしても不自然ではない話題のような気がして、空を飛ぶように泳ぐエイを見ながら尋ねる。


「作らないし、わざわざ作るようなものでもないでしょ」


 仙台さんが迷うことなく言う。


「なんで?」

「恋人って作るものじゃなくて、そういうときが来れば自然にできるものなんじゃない」

「自然にできるって、モテる人の考え方だと思う」

「モテないよ」


 私の言葉をあっさりと否定すると、仙台さんが「あの黄色い魚、可愛くない?」と聞いてくるから、「別に可愛くない」と否定して言葉を続ける。


「高校で告られてたじゃん」

「まあ、そういうことがないわけじゃないけどさ。好きな人からモテなかったら意味ないでしょ」


 海の一部を切り取ったような水槽をじっと見ていた仙台さんがやけに真面目な声で言ってから、私を見る。


「宮城はどうなの? 彼氏ほしいの?」

「いらない」

「そっか」


 仙台さんの目が私から水槽の中にいる魚に向く。

 ピアスに誓われなくても、彼氏を作ったりしないという仙台さんの言葉に嘘がないことはわかる。でも、好きな人がいるかどうかはわからない。


 これは言葉にしなければ答えを知ることができないもので、聞くなら今くらいしかチャンスがないと思う。


 私は小さく息を吸って、ゆっくりと吐き出してから、頭の中にあった聞きたかったことを声にして出す。


「……好きな人は? 仙台さん、舞香に聞かれたとき答えなかったよね」

「珍しくない? 宮城がこういう話するの」

「珍しくてもいいじゃん。答えてよ」

「好きな人、ねえ。そうだなあ」


 静かな声が聞こえて、すぐに途切れる。

 深い青の中、仙台さんが不自然なくらい明るい笑顔を作って私を見た。


「――いるよ」

「え?」


 思わず声がでて、耳を塞ぎたくなる。

 知っている名前も知らない名前も聞きたくなくて、相手を聞くべきか迷う。このまま黙っていたら不自然だということはわかるが、声がでない。

 どうしようか考えているうちに、仙台さんが喋りだす。


「ミケちゃん。可愛かったでしょ」

「……それ、人じゃなくて猫じゃん」


 本気なのか冗談なのかわからないけれど、聞こえてきた名前に知らぬ間に入っていた肩の力が抜けて、私はくすくすと笑っている仙台さんの腕を叩いた。


 みけちゃんは仙台さんが大学の帰りによく会う三毛猫で、可愛がっている猫だ。私は好きな猫の話をしたかったわけではない。


「今、そういうのって猫くらいしかいないからさ」


 そう言うと、仙台さんは「先に進もうか」と付け加えて歩き出した。

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