仙台さんに言いたいこと
第281話
映画を観に行く約束はしていない。
本屋へ行く約束もしていない。
よくわからない生徒だとかいう人間に会う約束も――。
していなかった。
私の腕を掴んだまま離してくれない仙台さんが隣でずっとなにか喋っている。
待って、とか、宮城、とか。
そういうよく聞く言葉が私に投げかけられて、雑踏に消えていく。
「宮城、ちょっと」
また仙台さんが私を呼ぶけれど、足を止めることができない。
彼女は雑貨屋を出てから、何度も私の名前を呼んでいる。
一応、返事はしている。でも、周りがうるさすぎてその返事が正しいものなのかは判断できない。
人が邪魔だ。
向かい側からどんどん歩いてくるし、後ろからも歩いてくる。離れた場所から聞こえてくる会話にならない声はざわざわという雑音に変わり、頭の奥に入り込んでくる。なにを考えていいのかわからないまま聞こえてくる音に引っ張られ、頭のてっぺんがギリギリと音を立てる。
「宮城」
とがった声が聞こえてくる。
優しく呼ばれない理由はわかっている。
私の足が止まらないからだ。
歩いていれば気分が晴れるわけではないけれど、自分ではどうにもできない。
「宮城ってば」
生徒を呼んだ声と同じ声なんて消えてしまえばいい。
歩くスピードを上げる。でも、仙台さんも同じようにスピードを上げるから、腕にくっついた手は離れない。声も風に吹かれて私にべたりと張り付いてくる。
不快だ。
なにもかもが不快だ。
真っ直ぐ前を見る。
上は向かない。
むかつくくらい気持ちのいい空は、私を助けてはくれない。
「宮城、ちょっと止まりなよ」
私に入り込もうとしてくる声を遠ざけたくて、意識をもっと外へ向ける。
誰かの足音。
スマホが鳴る音。
漏れ聞こえてくる音楽。
街に溢れていて、いつもは耳に入らない雑音に意識を向けていると、歩道に溢れる楽しそうな声も、つまらなそうな声も、走る車の音も、頬を撫でる風の音も、一つの塊になって、仙台さんの声を飲み込んでいく。
それでも、何故か、どういうわけか、彼女の声はするりと私の耳に入り込み、関係のない声と音と切り分けられ、頭に響く。
「桔梗ちゃんのことは悪かったと思ってる。あんなところで会うと思わなかったし、宮城を質問攻めにするとは思わなかった。ごめんね。でも、悪い子じゃないから」
そうじゃない。
仙台さんは誤解している。
あの子が良い子か悪い子かは重要な問題じゃない。私の前に突然現れて親しげに仙台さんに話しかけてきたことが――。
私は足を止める。
仙台さんが驚いたように「うわっ」と言って、言葉を続けた。
「ちょっと宮城。止まるなら止まるっていいなよ」
「仙台さん」
「なに?」
「本屋行く」
「え?」
「本屋行くって言った」
「行かないんじゃなかったの?」
「仙台さん、本屋に行きたいんでしょ」
「行きたいことは行きたいけど。……でも、なんで急に気が変わったの?」
あの子は、別に気にするような存在じゃない。
初めて会ったとは思えないほど親しそうに話しかけてくるから戸惑っただけだ。きっともう会うことはないだろうから、今日のことは忘れてしまえばいい。
仙台さんが私に勉強を教えてくれていたときのように、彼女に勉強を教えているということに引っかかるものがあるけれど、私としていたようなことをすることはない。
教科書を広げて、勉強をするだけ。
ただそれだけの存在だ。
気にする方がおかしい。
「気が変わったわけじゃない。買わなきゃいけない漫画があるの思い出しただけ」
映画を観に行かないし、本屋にも行かない。
それは仙台さんの生徒に会っていてもいなくても変わらない事実だけれど、このままどこへも行かずに家へ帰ると、あの子に会ったから真っ直ぐ家へ帰るみたいだ。仙台さんは、私があの子に嫉妬をしたから、と考えるかもしれない。
そんなことになったら面倒だし、それは間違っている。
誤った認識を補強するような行動はしたくない。
「本当に買わなきゃいけない漫画があるの?」
仙台さんが疑うような目を私に向けてくるから、腕に張り付いている彼女の手を剥がして体の向きを変える。目的地は本屋で、仙台さんが行くと言ったからそこへ行く。
でも、わからない。
「……ここ、どこ?」
私は辺りを見回す。
「さあ、どこだろうね。……と言いたいところだけど、ひたすら真っ直ぐ歩いてきただけだから。ただ、本屋の場所はわからないかな」
仙台さんが冷たくも温かくもない声で言って、「調べようか?」と付け加える。
「本屋の場所?」
「そう。宮城が本当に行きたいなら調べてあげる」
「仙台さんに調べてもらわなくても自分で調べられる」
スマホがあるし、本屋くらいすぐにわかる。
「調べてまで行きたい?」
そう言うと、仙台さんが自分から問いかけてきたにもかかわらず、勝手に答えをだした。
「もう帰ろっか」
「なんで?」
「家でゆっくりしたいから」
仙台さんの口角が上がる。
「宮城、大丈夫だから」
柔らかく笑って、優しい声を出す。
「なにが?」
「わからないけど、なんとなく」
「わかんないなら適当なこと言わないでよ」
「適当でもいいじゃん」
仙台さんの手が私の手に触れる。
ぎゅっと握られて、引っ張られる。
仙台さんが歩きだして、彼女のポニーテールが揺れる。
青いピアスが見えて、私のものだとよくわかるその髪型は嫌いじゃない。でも、私以外の人間が見ることは好ましいことではないと思う。私だけが知っていればいいことが、他の人にも知られてしまいそうな気がする。
「なんで今日はポニーテールなの?」
「そういう気分だから」
答えにならない答えが返って来る。
今日、こんな髪型ができないように印をつけておけば良かったと思う。
「仙台さん、ほんとに帰るの?」
握られた手を思いっきり握って問いかける。
痛いではなく「帰る」とはっきりと返ってきて、手の力を抜く。でも、彼女の手は離れない。繋がれたままで、体温が流れ込んでくる。
仙台さんは、些細なことを些細なことにしておいてくれない。
私に必要のなかった感情を引き延ばして、ことさら大きなものにする。見なくてもいいものを見えるようにして、私に突きつけてくる。
ドロドロしていて、汚くて、捨ててしまいたいもの。
そういうものが私にあると教えてくる。
「手、はなして」
「駄目」
即答されて、視線を上げる。
空はまだ夕焼け色に染まらない。
春には相応しくない生ぬるい風が仙台さんのポニーテールを揺らす。
自分から誘っておいて言うことではないけれど、外へ出かけるのは本当に良くない。大人しく家にいればそれなりに良い日になるはずのものが台無しになる。
だから、私は後悔と一緒に大きく息を吐き出した。
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