第282話

 繋いだ手の先で、仙台さんがうるさい。


 口にすべきことがわからなくてなにを言えばいいのか考えているのに、ぺらぺら喋りかけてくるから考えがまとまらない。


 仙台さんがよく会うあの三毛猫の話とか。

 お昼に食べた甘くないフレンチトーストの話とか。


 いくつもある話題の中から選ばれた無難な話で空白が埋められ、私の頭も埋められ、喋ることがなくなる。相づちを打つだけになってしまう。


 電車に乗って、電車から降りて。

 太陽が力を失って、空の色が変わって。

 猫のいない歩道を歩いて、家が近づく。


 仙台さんは相変わらず無難な話をし続けている。


 私から話さなければならないというものではないけれど、相づちを打つくらいしかすることがないと、知らなくても良かった顔を見てしまったことや、まだ見たことのないもう一人の生徒とかいう人間のことが気になってしまう。


 仙台さんの声が、頭に残らない。

 残っているのは、目を背けたい感情だけだ。


 玄関の前でも、鍵を開けているときも、靴を脱いでいるときも、仙台さんはくだらないことを喋り続けている。


「宮城、話聞いてる?」


 共用スペースへ入るとすぐに、仙台さんの優しい声が聞こえてくる。


 自分の部屋へ行こうかどうしようかと迷いながら「うん」と返すと、仙台さんが当然のように荷物をテーブルの上へ置いた。そして、電気ケトルでお湯を沸かし始める。マグカップが二つテーブルに並べられ、私はため息を一つついてから紅茶のティーバッグを用意した。


「宮城、あのさ」


 椅子に座ることなく、仙台さんが隣にやってきて私を見る。

 軽くはない声に耳を塞ぎたくなる。返事をすると面白くないことになりそうだと思うけれど、自分の部屋へ行くタイミングは失ってしまっている。


「……なに?」


 仕方なく声を出して、マグカップをじっと見る。


「今日はごめんね」


 なにに対しての謝罪なのかは伏せられている。

 でも、なにに対しての謝罪なのかはなんとなくわかった。


「仙台さんが謝ることじゃないじゃん。二回も謝らなくていい」


 たぶん、雑貨屋で会った“仙台さんの生徒”という肩書きを持つあの子のことについて「ごめんね」と言われている。


「謝った方がいいでしょ」

「なんでそう思うの」

「宮城が怒ってるから」

「怒ってない」

「宮城のこと、いろいろ話しちゃってたことも?」

「そんなの気にしてない」


 “いろいろ”の詳細が気にはなるけれど、それについて聞けば仙台さんの口からあの子の話が出てくることになる。仙台さんの声で、聞きたくないことを喋られるのは苦痛でしかない。


「宮城って、桔梗ちゃんのこと嫌い?」

「そういうわけじゃない」


 好きとか嫌いとか、そういうものに分類する存在じゃない。あの子のことはどちらにもわけたくないし、考えたくもない。


「……じゃあ、もしかして」


 聞こえてくる声が少し小さくなる。

 なんだか嫌な予感がして、視線をマグカップから仙台さんに移す。


「機嫌が悪いのって、嫉妬――」

「してないから、もう自分の部屋に行って」


 彼女が言いかけた言葉を奪って否定する。

 家庭教師のバイトは私には関係がない。

 だから、生徒も関係がない。


 仙台さんのバイトは、私が干渉すべきものではないのだから、ごちゃごちゃとうるさいことは言わなくていいし、謝らなくていいと思う。


 忘れようとしていることを掘り起こすようなことを言われると、またなにを言っていいのかわからなくなる。頭の中で今日の楽しかったことと楽しくなかったことが泡立て器で混ぜられたみたいになって、感情が迷子になる。分離したい気持ちが混ぜられ続けるのは気持ちが悪い。


「紅茶は?」


 仙台さんが静かに言う。


「私がいれる」

「私の分もいれてくれるの?」

「いれて仙台さんの部屋の前に置いておく」

「一緒にここで飲めばいいじゃん」

「飲まない」


 柔らかく微笑んだ仙台さんに冷たい声で答える。それでも彼女は表情を変えない。柔らかな声で私に話しかけてくる。


「私は宮城と一緒に飲みたいんだけど」

「仙台さんがここにいるなら、私が部屋へ行く」

「そんなこと言わないで座りなよ」


 彼女に背を向ける前に腕を掴まれ、引っ張られる。それほど強い力ではないけれど、部屋へ行くことは許さないという意思を感じる。でも、だからといって仙台さんの言葉に従う必要もない。


「やだ」


 短く答えて腕にくっついている手を剥がすが、仙台さんは諦めない。椅子を引いて、その背もたれをぽんっと叩くと、またにこりと笑った。


「座ったら、宮城が好きなことしてあげる」

「なにそれ」

「足、舐められるの好きでしょ」


 決めつけるように仙台さんが言って、私を見た。


「好きじゃない。そんなことよりお湯沸いた。紅茶いれるならいれたら?」

「せっかくスカートはいてるんだし、遠慮しなくていいよ」


 私と一緒に紅茶を飲みたいと言った仙台さんがやるべきことを放棄して、戻さなくていい場所へと会話を戻す。


「スカート、関係ないじゃん」

「あるよ。スカートの方が足舐めやすいでしょ」


 そう言うと、仙台さんが私の肩を押して無理矢理椅子に座らせてくる。


 むかつく。

 本当にむかつく。


 私は座りたくなかった椅子から立ち上がろうとするが、仙台さんがそれよりも早く床へ膝をついた。


 これは、過去に何度もあったことだ。

 私は仙台さんを床へ座らせて、足を舐めさせた。


 それは頭の中がかき混ぜられたようになっても、簡単に引き出せる記憶で、忘れることがない記憶だ。


「余計なことはしなくていいから立って」


 命令ではないけれど、仙台さんに命じて彼女の足を蹴る。


「立たなくてもいいでしょ」

「よくない」


 仙台さんをもう一度蹴ると、足を痛いくらいに掴まれる。こういうことはほとんどなかったことで「はなして」と強く言うと、手が離れるどころかスカートが膝の上まで捲り上げられた。


「なにするつもり」


 返事の代わりに、唇が膝にくっつく。柔らかくて、生温かいそれは、驚くほど私の足に馴染む。それでも彼女の唇を受け入れるわけにはいかない。


「やめて」


 今日みたいな気分のときに、仙台さんに触れられたくないと思う。でも、彼女はやめてくれない。膝に唇が押しつけられ、舌先が触れる。舐め上げられて、唇が離れて、また触れる。


「仙台さんっ」


 強く彼女を呼んで前髪を引っ張ると、唇が離れる。仙台さんが顔を上げてにこりと笑う。


「声、大きすぎ。そんなに大きな声で呼ばなくても聞こえる」

「聞こえたならやめてよ」

「やめてほしかったら、やめてくださいってお願いすれば?」

「絶対にやだ」

「言うと思った」

「やめてよ」

「私も絶対に嫌」

「仙台さんっ」


 また強く呼ぶと、彼女の指先が膝に触れた。唇が触れたところをなぞるように指が這い、そこを舐められる。


「気持ち悪い」

「気持ちいいの間違いでしょ」


 顔を上げずに仙台さんが言って、膝にキスをする。指先は靴下を勝手に脱がせてくるぶしを撫でていた。


「なんでこういうことするの」


 仙台さんの頭を押すと、彼女の体が離れる。でも、すぐに足を掴まれる。ふくらはぎに指が這い、唇が足の甲に触れ、舌先も触れる。


 何度もキスが繰り返されて、舌が這う。

 気持ちが悪くて、気持ちがいい。

 彼女の体温は、命令していた過去と一緒に思い出したくないことを思い出させる。


 ベッドの上の仙台さん。

 私と混じり合う体温。


 ――駄目だ。


 これは今、思い出すことじゃない。


「仙台さん、返事してよ」


 こういうことをする理由をまだ聞いていない。


「……宮城の機嫌が悪いから」


 ぼそりと言って、仙台さんが顔を上げる。


「悪くない。良くないだけ」

「同じでしょ」

「同じじゃないし、私の機嫌なんて良くても良くなくてもどうでもいいじゃん」

「私は良くなってほしいんだけど」

「足を舐めても良くならない」

「じゃあ、どうしたらいいの?」


 仙台さんが柔らかくも硬くもない声で言った。 

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