第283話

 仙台さんに足を舐められるのは嫌いなことじゃないけれど、今はそういう気分じゃない。仙台さんだって、そんなことくらい気がついていると思う。


 されたいことがあるわけじゃない。

 したいことがあるわけでもない。

 機嫌は悪くないから、良くなる方法なんてない。


 どうしてもなにか言わなければならないなら、一つだけしてほしいことがある。


「……それ、ほどいて」


 共用スペースの床に座っている仙台さんのポニーテールを指さす。


「髪?」

「そう。ポニーテールやめて」

「それで機嫌が良くなるの?」

「良くならなくてもほどいてよ」


 素っ気なく言って仙台さんの膝を蹴ると、彼女はなんの躊躇いもなく髪をほどいた。


「これでいい?」

「良くない。耳、見えないようにして」


 仙台さんはポニーテールではなくなったけれど、髪を耳にかけているから、私のものだという印でもある青い石がよく見える。


「……なんで? 見えた方がいいでしょ」


 少し不満そうに仙台さんが言う。


「良くないから、見えないようにして」


 ここには私以外誰もいない。

 仙台さんのピアスを見ることができるのは私だけだけれど、彼女はピアスが見えなくても私のものだ。だから、今は耳を飾る青い石は見えなくていい。私の中の見たくない感情と一緒に隠してしまえばいいと思う。


「早くしてよ」 


 仙台さんの膝をもう一度蹴る。


「痛い」


 感情のない声が聞こえて「蹴られたくないなら、言った通りにしてよ」と告げると、見えていた耳が隠された。


「で、機嫌は?」

「普通」

「それで普通なんだ?」

「普通だけど」

「そっか」


 仙台さんが小さく息を吐く。そして、私の膝におでこをくっつけてぼそりと言った。


「……宮城がなに考えてるかわからない」

「私の方こそ仙台さんが考えてることわかんない。私の機嫌取るために足舐めるとかおかしいじゃん」

「そんなにおかしい?」


 小さく問いかけてくる彼女の顔は見えない。


「命令もされてないのに舐める必要ないじゃん」

「宮城のものっぽい行為でしょ」


 感情が読めない声が聞こえてくる。

 なにを考えているのかわからない仙台さんに相応しい声だと思うけれど、彼女が今どんな顔をしているのか気になる声でもあると思う。


 顔を上げてほしい。

 私の顔を見て言ってほしい。

 でも、今の仙台さんの顔を見たら良くないことが起こりそうで言えない。


「変態」


 静かに言って、仙台さんのつむじをつつく。


「なにか命令しなよ。なんでもいうこときくから」


 仙台さんは顔を上げようとしない。膝から彼女の体温が伝わってくるけれど、それだけではなにもわからない。


「そういうこと言わなくていい」

「それが命令?」

「命令。あと普通の顔して私の前に立って」

「それ、どういう命令なの」

「どういう命令でもいいから、いうこときいてよ」

「……はいはい」


 聞こえてきた声がいつもの声に戻っていてほっとする。

 おでこが離れて、膝にあった体温が遠のく。けれど、すぐに指先がそっとくっついて、また仙台さんの熱が流れ込んでくる。


「立ってって言ってるじゃん」

「わかってるって。ちゃんと命令きくから」


 命令をきいてほしいわけじゃないけれど、今できることは命令しかない。こういうことが“いつも通りの私たち”に近いことで、私から誘って二人で出かけたり、会いたくもない人間に会ったりせずにすむことだ。


「わかってるなら早く立って」


 素っ気なく私が言うと、面倒くさそうに仙台さんが立ち上がった。そして、「次はどうするの?」と聞いてくるが、答えるつもりはない。


 私は黙って椅子から立ち上がる。仙台さんの首にそっと顔を寄せて唇をくっつけ、膝から流れてきた熱を返す。


 一回、二回。

 首筋へのキスを繰り返す。


「印つけないんだ?」

「つけない」


 短く答えて、ゆっくりと仙台さんの首筋に唇を押しつける。


 今日という日を仙台さんに残しておきたくない。

 だから、印はつけない。

 

 代わりに何度もキスをして、仙台さんからもらった体温を返して、また奪う。


「ここでするより、ベッドの方が良くない?」


 余計なことしか言わない仙台さんが私の背中に腕を回してきて、彼女の肩を押す。


「そういうつもりじゃないから」


 一歩離れて、仙台さんの足を踏む。


「じゃあ、どういうつもりなの?」

「……意味なんてない」

「意味がないなら作って、そういうつもりになりなよ」

「無理」

「無理な理由は?」


 本当に彼女は余計なことしか言わない。


 今したことに深い意味はないし、意味を作るつもりもない。当然、無理という答えに理由もない。ないものしかない私に質問されても困る。こういう彼女は黙らせてしまわなければいけない。


「仙台さん、うるさい」


 彼女のお腹を押して、これ以上くだらない質問をさせない方法を考える。でも、そんなものはすぐに思い浮かばない。


 質問をすることで仙台さんの質問を封じることができるかもしれないけれど、彼女は質問にちゃんと答えてくれないことがある。


 だったら、電気ケトルのお湯を使って紅茶をいれて、時間も仙台さんのお喋りも潰してしまえばいい。

 そう思うのに、口が勝手に動く。


「……仙台さんの大事なものってなに?」


 たぶん、今ここで聞くことじゃない。

 わかっているけれど、今日みたいな日じゃなければ聞けないと思う。


「大事なもの?」


 予想ができないわけじゃない。

 舞香と三人で出かけたときに、それに繋がる答えを聞いた。いつも私と同じものを好きだと答える彼女が、私があまり好きではないものを“好きかも”と言ったからよく覚えているし、それが正しいことも知っている。


 勉強。


 正確に言うなら、勉強を教えることで、大事なものというより、大事なことなのかもしれない。仙台さんは勉強を教えることが好きで、私も教えてもらった。


「そう。仙台さんの大事なもの」


 仙台さんが私をじっと見てから、視線を床へ落とす。


 言葉はない。

 視線も戻らない。

 彼女は私ではなく床を見つめ続けている。


 大事なものと好きなものはイコールにはならないとは思うけれど、答えが“家庭教師の生徒”だったら聞きたくない。


 私の中で仙台さんの“好きなもの”がくすぶり続けている。


 まだ声は聞こえない。

 仕方なく仙台さんが見つめている床に視線をやると、彼女がぼそりと言った。


「……この場所かな」


 聞きたくない答えとは違う言葉が返ってきてほっとする。

 でも、納得もできない。


 卒業したらなくなるのに?


 と声に出しかけてやめる。


「宮城の大事なものは?」


 仙台さんにした質問が私へ返ってきて、二人で料理をして、掃除もして、結構な時間を過ごしてきた場所から彼女へ視線を移す。


「――ハンバーグ」

「え、ハンバーグ?」

「作って」

「今? っていうか、大事なものは?」

「答えた」

「答えたって、ハンバーグなんて大事なものじゃなくて好きなものでしょ」


 呆れたように言って仙台さんが私の足を蹴ってくる。


「似たようなものだし」


 質問にちゃんと答えないことがあるのは私だけじゃない。仙台さんだって適当な答えを返してくることがあるのだから、お互い様だ。


「まあ、ハンバーグでもいいけどさ。宮城、ほんと好きだよね。ハンバーグ」

「そんなことどうでもいいから、作ってよ」

「材料ないんだけど」

「買いに行けばいいじゃん」

「それならさっき言いなよ。スーパー寄ってくれば良かった」


 買い出しに行ってからハンバーグを作るには、もう遅い時間かもしれない。でも、今日はハンバーグが食べたい。

 どうしても。

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