第353話

 共用スペースに取り残されたのはケーキと私。

 宮城は怒ってはいなかったが、お皿とフォークを持って先に私の部屋へ戻っている。


 ピアスにキスをすれば良かったと思う。


 キスに正しいも正しくないもないけれど、私の誕生日も楽しくしてほしいと言った宮城にするべきキスはピアスへのキスだった。


「まあ、どこにキスしても取り残されただろうけど」


 私は包丁を温め、冷蔵庫からケーキを出して宮城が待つ部屋へ戻る。


「おかえり。反省した?」


 姿勢正しく床に座っている宮城が言う。


「ただいま。めちゃくちゃ反省した」


 にこやかに答えると、疑いの眼差しを向けられる。

 私は「心を入れ替えたから」と付け加えて、持って来たケーキをテーブルの真ん中に置く。


「宮城が箱開けて」

「開けるのはいいけど、包丁置いて」

「温めてあるんだけど」

「じゃあ、一度キッチンに置いてきてよ」


 宮城に言われ、持って来たばかりの包丁をキッチンへ置いてくる。また部屋に戻ると、ケーキが箱から出されていた。


「あっ」


 私は座るのも忘れて、ケーキをじっと見る。


 白い生クリームが眩しい小さな苺のホールケーキ。

 チョコレートでできた“誕生日おめでとう”のメッセージプレート。


 そして。

 そして――。


 小さなケーキに立てられた“2”の形をしたキャンドルと“0”の形をしたキャンドル。


「仙台さん去年、数字のキャンドル立てたいって言ってたから」


 宮城が私を見ずに言い、キャンドルに火を点ける。

 私は彼女の向かい側に腰を下ろす。


「覚えててくれたんだ。ありがとう」


 私は去年、宮城の誕生日に数字のキャンドルを立てたくないか尋ねた。あの日、彼女は立てたくないと言ったけれど、私の誕生日には立ててくれている。


 宮城は私が口にした小さな言葉を覚えていて、叶えてくれる。


 私は、月のネックレスよりもチェーンが短くなったクローバーのネックレスに触れる。ぎゅっとそれを握ると、宮城が無言で電気を消して常夜灯をつけた。中途半端な闇の中、「誕生日おめでとう」と小さな声が聞こえてくる。


「ありがとう」


 宮城と同じくらい小さな声で答えると、少し低くて、でも柔らかな声が返ってくる。


「仙台さん。火、消して」

「歌は?」

「歌わない」


 断言されて、私はケーキを照らす“2”と“0”にふうっと息を吹きかける。

 キャンドルの炎が消え、部屋が暗くなり、すぐに照明がつく。


「包丁、持ってくる」


 宮城に声をかけ、共用スペースへ行く。

 包丁を温め直して、部屋へ戻る。

 有無を言わせず宮城に包丁を渡し、彼女の向かい側に座る。


「温めてあるから、ケーキ切って」


 笑顔とともにそう言うと、宮城が怪訝な顔をした。


「私が?」

「宮城が」


 きっぱりと言い切ると、「……ケーキを?」とさらに疑問符がついた言葉が飛んでくる。


「そう。私の誕生日だから、宮城がケーキを切るの」

「絶対に失敗する」

「いいよ、失敗しても。お腹の中に入れば一緒でしょ」

「……そうだけど」

「私が宮城に切ってほしいって言ってるんだから、適当でいいから切ってよ」


 にこりと笑って「ね、お願い」と付け加えると、宮城が眉根を寄せて仕方がなさそうに言った。


「どうなっても知らないから」


 宮城が白いケーキの上から『誕生日おめでとう』と書かれたチョコレートでできたプレートを取り、「仙台さんのだから」と私のお皿の上に置く。そして、キャンドルも取り除いて、包丁をケーキの真ん中にゆっくりと入れた。


 包丁が真ん中から外側に向かって静かに引かれる。


 去年の私を宮城が辿っている。


 あのとき数字のキャンドルはなかったけれど、ケーキを切る手順は変わらない。

 それは、記憶の中に私がいるということで嬉しくなる。


 スマホはマナーモードにして置いてある。

 邪魔は入らない。

 ずっとずっとこの時間が続けばいいと思う。


「切れた」


 宮城がぼそりと言い、切り分けたケーキを私のお皿の上に二つ、自分のお皿の上に二つ並べる。そして、言い訳のように付け加えた。


「誕生日だから」


 言葉の意味はケーキを見ればわかる。

 明らかに私のケーキのほうが大きい。


「太りそうなんだけど」


 ホールケーキと言っても小さなものだから、お皿の上にのっているケーキが大きくても食べられないわけではないし、ケーキを残さず食べることが私の大切な役目だから文句はない。でも、宮城のすることすべてが可愛くてかまいたくなる。


「いいじゃん。少しくらい太ったって」


 宮城が無責任なことを平坦な声で言う。


「体重増えたらウォーキングに付き合って」

「やだ」

「けち」

「けちでいいから、早くケーキ食べて」

「はいはい」


 私は、いただきます、と言ってからフォークでケーキを崩して一口食べる。


 美味しい。


 舌の上でとろける生クリームは甘いけれどしつこくなくて、柔らかなスポンジと一緒にすっと胃に落ちていく。後味も上品で、自然に手が次の一口を切り分けている。


「宮城、すっごく美味しい。ありがとう」

「ケーキ屋さんに言って」


 宮城が素っ気なく答えて「いただきます」と続け、苺をお皿の上にのせてからフォークでケーキを一口食べた。


 美味しい。


 ぼそりと言って、宮城がもう一口食べる。 

 私もフォークでケーキを切り分け、口へ運ぶ。


 真っ白なクリームが優しく包み込んだ今日という日が私に溶け込み、忘れない記憶に変わっていく。


 一口、もう一口と食べれば食べるほど、今日が私の中にミルフィーユのように折り重なっていく。


 大きく切り取られたケーキの塊が一つなくなり、もう一つに手をつける。


「あっ、宮城」


 胃に落ちていく柔らかなスポンジに、今日しなければならないことを思い出す。


「なに?」

「写真撮るの忘れてた」


 スマホを手に取ってカメラに切り替えると、宮城の「やだ」という短い言葉が聞こえてくる。


「まだ宮城を撮るって言ってないんだけど」

「今、言ったじゃん」

「いいでしょ、一枚か二枚くらい。今日の主役のいうことききなよ」


 私は二十歳の誕生日を宮城が祝ってくれたという証拠として、片付いていないテーブルと一緒に宮城をスマホに収めてから、彼女の隣に座る。


「こっち来ていいって言ってない」

「一枚くらい一緒に撮らせなよ」


 宮城の腕を捕まえて引き寄せる。

 インカメラに切り替えてスマホを構える。


「はい、撮るよ」


 宮城の返事を待たずにシャッターを切ると、笑顔の私と不機嫌な宮城がスマホに閉じ込められた。


「むかつく」


 低い声が聞こえてくる。


「いいじゃん。せっかくだし、もう一枚撮ろうよ」

「やだ」

「はい、笑って」


 にっこり、と声をかけても宮城は笑わない。

 でも、眉間の皺を消してくれたから、シャッターを切る。


 笑顔の私と、一枚目よりもほんの少しだけ機嫌が良くなった宮城がスマホに閉じ込められ、宮城が「もう終わりだから」と言って私の肩を押した。


「けーち」


 スマホをテーブルの上に置いて、ベッドに寄り掛かる。

 ティッシュを生やしたカモノハシを膝の上に置いて、宮城を見る。


「覚えてる? 宮城の誕生日は一緒にお酒飲むって話」


 問いかけると、平坦な声で「覚えてない」と返って来る。


「それ、嘘でしょ」

「ほんと」

「絶対に覚えてるでしょ。約束したし」

「約束なんてしなかったじゃん」

「やっぱり覚えてるじゃん」


 誕生日が来れば、宮城も二十歳になる。

 だから、宮城の誕生日にお祝いとして一緒にお酒飲んでみようと誘った。


 もちろん、約束なんてしていない。

 だから、約束しておきたいと思っている。


 このままだと、お酒を飲んだ宮城がどうなるのか知ることができない。誕生日を過ぎたら私の知らないところでお酒を飲む機会がありそうなのに、そんなとき宮城がどうなるのかわからないままだなんて怖すぎる。


「覚えてるなら、約束して」


 私は宮城の耳もとで「誕生日は一緒にお酒を飲むって忘れないで」と囁き、ピアスにキスをして、首筋にキスをする。


 膝の上のカモノハシを床に戻し、柔らかく首を噛む。もう一度キスをして舌先をつけて滑らせると、宮城が私の肩を押した。


「今日はそういうのなしだから」

「なんで?」

「これ」


 ぼそりと言って、宮城が私のベッドの下から見たことのない箱を引っ張り出す。


「あげる」


 小さな声とともに箱を押しつけられる。


「なにこれ。なんでそんなところから箱がでてくるの」

「夕飯を運んでるときに置かせてもらった」

「なるほどね」

「細かいことはいいから、開けてよ」


 言われた通りにラッピングペーパーを慎重に剥がし、箱をそっと開ける。


「……プレゼント?」


 箱の中にはマグカップが二つ。

 一つは三毛猫、もう一つには黒猫がくつろいでいる。


「そういうんじゃなくて、あげる」

「誕生日プレゼント、もうもらったのに」


 宮城からは、“お祭りに一緒に行く”という楽しみで仕方がない誕生日プレゼントを既にもらっている。


「なんとなくあげただけで、マグカップは誕生日プレゼントじゃないって言った」

「そっか。ありがと」


 この家にはもうマグカップがあるけれど、それは猫のマグカップではないし、宮城がくれたマグカップでもない。まだまだ使えるものではあるが、去年もらった猫の箸置きと一緒に使うのは猫のマグカップ以外ありえない。


「明日からこのマグカップ使うけど、宮城はどっちがいい?」

「どっちも仙台さんのだから」

「一人で二つ使えないし、宮城が一つ使ってよ」

「……仙台さんはどっちの猫が好きなの?」

「んー、黒猫かな」

「なら、三毛猫にする」

「わかった」


 この家の食器は引っ越ししてから買い揃えたものだから、それなりに愛着があるけれど、宮城からもらったもの以上に愛着が湧くものはない。


 いつか私たちが使うものすべてが、宮城が選んだものになればいいと思う。私の周りのすべてを宮城で染めることができたら、きっともっと幸せになれる。


「宮城ってずるいね」


 マグカップが入った箱をそっと閉めて隣を見る。


「ずるくない」

「ずるいよ」


 今日の夜は宮城と一緒に。


 なんてことをほんの少し思っていたけれど、マグカップのおかげでそういうことをするよりももっと良い日になっている。


 だから、宮城は本当にずるい。

 でも、そういう宮城だから一緒にいたい。


 私は宮城の手をぎゅっと握った。

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