第68話

 命令、命令。当たり障りのない命令。


 それは何かと考えて、教科書を閉じる。

 早くなにか言わないと、仙台さんがまた余計な話を始めてしまう。


 目の前の仙台さんから視線を外して、部屋をぐるりと見渡す。ベッドにクローゼット、タンス。本棚が目について、私は命令を決める。


「本読んで」

「どの本?」

「つまらなそうなヤツ」

「面白そうな、じゃなくて?」

「つまらなそうな本の方が眠たくなりそうだから」

「そういうことか」


 子守歌代わりにされることに気がついた仙台さんが立ち上がる。そして、本棚の前へ行き、悩むことなく一冊の本を持ってきてベッドの横へ座った。


「これでいい?」


 仙台さんが持っている本は、漫画の主人公が好きな小説だと言っていたから買ってきたものだけれど、面白いとは思えなくて最後まで読めなかった記憶がある。


「それ読んで」


 ベッドの上に座って、仙台さんに命令する。


「わかった」


 細い指が本棚で眠り続けていた小説を開く。


 枕がある側、足を崩して床に座っている仙台さんの横顔が見える。

 ページを捲る音がして、物語を読む声が聞こえてくる。


 同じ命令は過去に何度もしていて、仙台さんはこれまでと同じように淀みなく小説を読んでいく。大きすぎず、小さすぎない声は、この部屋に丁度良い。柔らかな声は教室で聞くよりも耳に優しくて、良い声だと思う。


 本を読む仙台さんは、夏休みの前となにも変わらない。


 読み上げられる小説はどこが面白いのかわからないから、いつもならすぐに横になりたくなるし、眠くなる。でも、今日はいつものように眠れそうにない。横になろうとすら思えなかった。


 仙台さんが悪いわけじゃない。

 たぶん、これは私の問題だ。


 卒業したら、この声がもう聞けなくなる。


 自分で区切ったはずなのに、彼女が思いのほか遠いところへ行ってしまうことがはっきりとしたから、そんな些細なことが急に気になりだした。


 偶然会うなんてこともなくなるなんて、わかってはいても理解していなかった。


「寝るんじゃなかったの?」


 退屈な物語が唐突に途切れて、いつまでも横にならない私の話に変わる。


「寝るから、続けて」


 睡魔の気配さえ感じられないままベッドに体を横たえると、仙台さんの手が伸びてくる。その手は躊躇いもなく髪を撫でてきて、私は彼女の手を押しのけた。


「続き、読んでよ」


 返事はないけれど、途切れた物語がまた聞こえてくる。


 澄んだ声が耳をくすぐる。

 眠たくないから目を閉じずに仙台さんを見る。

 整った顔に髪がかかっていて、邪魔だと思う。


 髪をほどいてなんて言わなければ良かったかもしれない。


 ベッドの端、仙台さんの方に体を寄せると声が少しだけ近くなる。


 視線が外されたボタンに固定される。

 今は鎖骨が少しだけ見えるくらいだけれど、その先を見たことがある。


 今よりも暑い夏休み。

 脱いでと命じたら、仙台さんが素直に脱いだ。


 この先、ああいうことはもうないことで、彼女の体を見るなんてことはない。


 私は仙台さんに手を伸ばして、彼女の髪を引っ張る。

 大学なんて、今読み上げられている物語よりもつまらなそうだ。


「どこ見てたの」


 痛い、と文句を言うかと思ったけれど、違う言葉が告げられる。


「仙台さんが前にいるから、仙台さんを見てただけ」


 大雑把な事実を口にすると、「ふーん」と疑わしそうな声が聞こえてくる。でも、彼女はそれ以上はなにも言わない。小説をベッドへ置いてこっちを向くと、小さなため息を一つつく。そして、私の前髪を引っ張った。


「目、閉じなよ。寝るんでしょ」


 仙台さんの手が私の目を覆い隠す。

 明るかった部屋が暗くなり、なにも見えなくなって、私は目を覆う彼女の手を掴んで引き剥がす。


 視線の先に仙台さんがいる。

 合わせるつもりはなかったけれど、目が合う。


 ――近い。


 さっきよりも仙台さんとの距離が縮まっている。


 掴んでいた手を慌てて離すと、置いてあった小説に当たる。バサリと本が落ちて、でも、仙台さんはそれを拾おうとはしなかった。


「仙台さん、もう少し離れてよ」

「宮城から近づいてきたんじゃん」


 最初に近づいたのは私だ。

 それは認める。

 けれど、こんなにも近づいた覚えはない。


 どういうわけか、仙台さんは私を覗き込むようにしている。


「だとしても、仙台さんからも近づいてきてるよね?」

「そうかな」

「そうでしょ。あと、こんなに近くで本読まなくていいから」


 そう言って彼女の肩を軽く押してみるけれど、仙台さんはいうことをきかない。


 耳たぶに彼女の手が触れる。

 柔らかく撫でられて、つまんで引っ張られる。

 耳の裏に指先が這って、酷くくすぐったい。


 仙台さんの手が夏の日を思い起こさせるように緩やかに触れ続け、私は彼女の腕を叩いた。


「ごめん」


 一瞬驚いたような顔をして、仙台さんがすぐに謝った。そして、床にぺたんと座る。


「拾って」


 体を起こして落ちた本を指さすと、仙台さんが素直にそれを手に取る。本はぺらぺらとページが捲られ、物語の続きが書かれているであろうページで止まった。


「続き、読むね」


 仙台さんが平坦に言う。


「もう読まなくていい」

「寝ないの?」

「寝ない」


 正確には“眠れない”だけれど、正確な言葉を伝える必要はない。私は仙台さんから本を取り上げて、枕の上に置く。


 宿題は終わらないまま放り出されているけれど、ベッドからは下りない。手持ち無沙汰になった仙台さんも、テーブルには向かわなかった。


 そして、命令が中途半端に終わったせいで、部屋がやけに静かになる。それはあまり良い沈黙ではなくて、静かに座っていられない。なにかしたくて、指先が本を叩く。


 トントンと小さな音だけが聞こえる。

 仙台さんがベッドに寄りかかり、背もたれにする。


 ベッドの上からは、普段見えない彼女のつむじが見える。手を伸ばせば触れるなんて思っていると、仙台さんが「そうだ」と思い出したように言って言葉を続けた。


「宮城のクラス、文化祭でなにするか決まった?」


 来月、予定されている学校行事が彼女の口から転がり出て、私はそれに飛びつく。


「まだ。仙台さんのクラスは?」

「私のところはやる気がないから、展示とかで誤魔化すことになりそう」

「いいな」


 唐突に始まった会話は、二人で黙り込んでいるよりもはるかに良くてなんとなく話を続ける。


 こういう穏やかな話ができるなら、もっと前からして欲しかった。面倒くさい受験の話をしているよりもよっぽどいい。まだぎくしゃくしてはいるけれど、いつもの私たちに近づいている。


「宮城のところは、そういう感じじゃないの?」

「高校最後の文化祭だし、思い出に残ることをするって張り切ってる」


 面倒だと思う。


 クラスメイトの半分くらいが盛り上がり、なにかやろうと話し合っている。残りの半分は適当で良いと思っていそうだけれど、クラスの中でも目立つメンバーが中心になって話を進めているから誰も文句を言えずにいる。


「宮城も?」

「私はあんまり。適当でいいかなって」

「こっち、楽でいいよ」


 仙台さんが振り向いて笑う。

 クラスが同じなら良かった。

 柔らかな笑顔にそう言いかけて、口をつぐむ。


「そろそろ、宿題の続きやろうか」


 仙台さんがテーブルに視線をやる。


「したくない」

「それなら、本の続き読む?」

「……やっぱり宿題する」

「じゃあ、こっちきて」

「言われなくても行く」


 私はベッドから下りると、仙台さんの向かい側に座った。

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