第356話

「宮城、ドア開けるけどいい?」


 仙台さんがどうかしているとしか思えないようなことを言う。


 私たちの前にあるのは、どこからどう見ても仙台さんの部屋のドアで、私の部屋のドアではないから、開けてもいいのか私に聞くのはおかしい。


「いいもなにも、仙台さんの部屋じゃん」


 わざわざ口にすることではないことを口にして、「早く開けてよ」と付け加える。


「そうだけど……」


 歯切れ悪く仙台さんが言い、息を吸って吐く。そして、「入って」という言葉とともにドアを開けた。


 一歩、二歩。


 仙台さんの部屋へ入る。

 すぐに彼女のベッドが目に入って、私は回れ右をした。


「……部屋戻る」


 嫌な予感が当たった。


 ――私が着ないと言った浴衣。


 ベッドの上には、二着、いや、二枚、どう数えるのが正解かわからないけれど、とにかく私の分と仙台さんの分だと思われる浴衣が置いてあった。


 こうなることはわかっていたのだから、私は仙台さんの部屋に来るべきじゃなかった。


「宮城、待って。ちょっとでいいから」


 腕を掴まれる。

 でも、私の答えは決まっている。


「やだ。戻る」

「三分でいいから待って」

「カップラーメンでも作るつもり?」


 仙台さんの手を振り払い、彼女の足を蹴る。


「そんなわけないでしょ。話があるから聞いて」


 聞きたくない。

 そう答えたかったけれど、仙台さんが話し始める。


「宮城が着たくないって言ってたのに浴衣を勝手に用意するのはずるいし、良くないことだってわかってるんだけど……。お祭り、やっぱり宮城と一緒に浴衣を着て行きたい」


 仙台さんがやけに真面目な声で言い、「どっちが好き?」と聞いてくる。彼女の声に誘われ、私の目は見るつもりがなかった浴衣に向かう。


 藤色の浴衣と白っぽい淡い色の浴衣。

 どちらの浴衣にも綺麗な花がいくつも咲いている。


 派手でもなく地味でもなく。

 ベッドの上に並んだ浴衣は仙台さんという人のセンスの良さがわかるようなもので、本当に腹立たしい。


「……どっちも着ない」

「だよね」

「じゃあ、もう戻ってもいい?」

「よくない。命令しなよ。なんでもする」


 仙台さんが酷くつまらないことを言い、私は彼女を睨む。


「そんなこと言う人に命令しても面白くない」


 命令されたいという人に命令するなんて馬鹿らしい。

 従順な犬のような仙台さんは嫌いじゃないけれど、今日はそういう彼女を求めていない。


「服、脱ごうか?」


 そうすることに抵抗がないことを示すように、仙台さんが笑顔を作る。


「変態」


 今日の仙台さんは良くない仙台さんだ。

 なんでもするといいながら、私のいうことをきかない。


 名前まで私のものなのに、私のものになっていない。


 私は仙台さんに向かって手を伸ばす。

 彼女の胸元を飾るクローバーのネックレスに触れ、引っ張る。


 磁石にくっつく鉄のように仙台さんが近づいてきて、私は彼女の首に噛みついた。


 明日、どこにも行けないように――。


 強く、強く。


 皮膚に歯を立てたつもりが、跡が残るほど力が入らない。

 仙台さんの肩を押して、離れる。


 噛みついた場所に視線をやる。

 首は綺麗なままで、胸元のクローバーだけが彼女の所有者が誰かを表している。


「宮城?」


 不思議そうな声が聞こえてきて、「うるさい」と返す。


 仙台さんのTシャツに触れる。

 彼女の胸の上に手を置く。

 布の上、緩やかに指を滑らせてTシャツの裾を掴む。


 ゆっくりとめくり、お腹に直接触れる。

 指先で肋骨を撫で、手を押し当てる。


 熱い。


 滑らかな皮膚が、程よい肉が、彼女の体温を私の手に伝えてくる。


「宮城のすけべ」

「服脱ごうかって言った人に言われたくない」


 仙台さんがなんと言おうと関係ない。

 私はこの手を動かして、下着を取り払ってしまってもいいし、彼女の身体に唇をつけてもいい。 


 仙台さんは余すところなく私のものなのだから、なにをしたっていい。彼女自身もなんでもすると言っていた。


 だから、明日外へ出て行けないようにすることをしたっていいはずなのにできない。

 私は彼女の身体から手を離し、床に座る。


「宮城、もういいの?」

「よくないけど、いい」

「……浴衣着てくれる?」


 静かに言って、仙台さんが私の隣に座る。


「浴衣、買ったの? 借りたの?」


 彼女の問いには答えずに質問を返す。


「買った。あのお金で。……ごめん、勝手に使って」


 あのお金と謝罪。


 この二つがセットになっているということは、仙台さんが使ったお金は、私が彼女に渡していた五千円を貯めたもので、今は“二人のもの”として扱われているお金だ。


 でも、あのお金は二人のものじゃない。


「仙台さんのお金だし、勝手に使ってかまわない。でも、浴衣は着ない」

「二人のお金で買ったんだし、着なよ」

「そういうの、ずるいから」

「だから、最初に言った。ずるいし、良くないことだって」

「……なんでそこまでして浴衣着せたいの?」

「記念。せっかく二人でお祭りに行くんだし、いつもとは違うことしたい。そういうのって、ずっと残る思い出になるから」


 あまり聞きたくない言葉が聞こえてきて、目をぎゅっと閉じる。


 仙台さんとの記憶が増えて、私の中に残る。


 そういうことをすべて拒否したい、と思っているわけではないけれど、気持ちが追いつかない。仙台さんが積み上げていく記憶を、上手く処理することができずにいる。


 仙台さんはいつだって早足で、私を置いていこうとする。


「……浴衣、一人で買ってきたの?」


 目を開けて、隣を見ずに尋ねる。


「当たり前でしょ」


 仙台さんが言い切って、「浴衣ちゃんと見てよ」と優しい声で付け加える。


「仙台さん今日、家庭教師のバイトでしょ。早く用意して行けば」


 浴衣は見たいけれど、見たくない。

 ちゃんと見たら、着なければいけなくなってしまう。


「バイトだけど、夕方からだし。それにまだお昼ご飯も食べてないんだけど」

「お昼ご飯なんて食べなくても死なないじゃん」

「死なないけど、生徒の前でお腹が鳴る」

「鳴らしとけば」

「時間あるし、今から作って食べてく」

「じゃあ、お昼にする」


 そう言って立ち上がろうとすると、仙台さんが私の服を引っ張った。


「答えは?」


 質問の答えはさっきから言っている。


 浴衣は着ない。


 この答え以外はない。

 でも、仙台さんはその答えを認めてくれない。自分の思う答えを私に言わせようとしてくる。おかげで、ずっとくだらない問答を繰り返し続けることになっている。


 私は座り直して、仙台さんを見る。


「浴衣の着方わからないし、着られないから」


 仙台さんが求めている答えは口にしたくない。

 だから、新しい答えを提示する。


「大丈夫。着付けについて調べたから、私が着せてあげる」


 自信満々に仙台さんが言う。


「……絶対にやだ」

「じゃあ、教えてあげるから自分で着る?」

「それもやだ」

「参考までに聞きたいんだけど、どっちも嫌な理由は?」

「仙台さんがするのはなんかやだし、聞いても自分でできるとは思えないから」

「……待って。なんかやだ、ってどういうこと?」


 真顔で仙台さんが聞いてきて、私は言葉に詰まる。


 この質問もあまりいいものじゃない。

 今日の仙台さんはろくなことを聞いてこない。


 私は小さく息を吐き、膝を抱える。


「……浴衣、服脱がないと着れないじゃん」


 仙台さんが着付けをする。

 ということは、仙台さんの前で服を脱ぐことになるということで、それは絶対に避けたい。


「宮城って、服の上から浴衣着る派?」

「浴衣を着ない派」

「なるほどね」


 力ない声とともに仙台さんがベッドに寄り掛かる。そして、「無理かあ。浴衣どうしようかな」と独り言のように言った。


 彼女は私が本当に嫌がることはしない。

 今までずっとそうだった。

 そして、今日もそれは変わらない。

 だから、浴衣は着なくていいことになった。


 ほっとして、体の力が抜ける。

 でも、ベッドの上に置いてあった浴衣が仙台さんから零れ出た言葉に溶けて、この部屋からなくなってしまったように思えて心が重くなる。


「……浴衣、誰かにあげたりするの?」


 目に映っていない浴衣の行方が気になる。


「あげない」

「どうして?」

「宮城のために選んだ浴衣だから」


 仙台さんが柔らかく笑う。

 その笑顔の向こうに、見えない浴衣が見えたような気がして胸が痛くなる。


 彼女の優しさは、ときどき棘のように私に刺さって抜けなくなる。


「……返事、明日する」

「返事?」

「浴衣着るかどうか」

「えっ」

「仙台さん、お腹空いた。お昼ご飯作って」


 立ち上がり、足を一歩前に出す。


「あ、うん」


 明るい声が聞こえて、私は浴衣がある仙台さんの部屋を出た。

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