第181話

 今日はあまりいい日じゃない。


 雨が降っているし、雷が鳴りそうなのに仙台さんがバイトでいない。こういう日くらいはバイトを休んでくれたらいいのに、彼女は今日も生徒の家へ行ってしまった。家庭教師のバイトも生徒も、彼女にとってとても大切なものらしい。


 仙台さんがバイトを休まないなんてことはわかっていたことだけれど、一人でいると彼女がいないことに文句を言いたくなってしまう。


 心を無にすることはできなくても気を紛らわすことはできるだろうと漫画を読んでみたものの、内容が頭に入ってこない。ゲームをしても集中できない。そうなると、今度は天気がこれ以上悪くならないか気になってくる。


 仙台さんが帰ってきてもおかしくない時間なのに、「ただいま」という声はまだ聞こえない。


 私は、本棚から黒猫のぬいぐるみを手に取ってベッドに寝転がる。

 余計なことが気になるのも、天気が悪いのも、全部仙台さんのせいだ。

 黒猫の背中を撫でて、胸の上に置く。


 数日が経っても、仙台さんの「私は?」という言葉が頭に残っている。


 亜美たちと話したあの日。


 仙台さんは、ルームメイト以外の言葉をほしがっていた。でも、私はルームメイトという言葉と過去を表すいくつかの言葉しか口にすることができなかった。


 私と仙台さんは、本当なら交わることがなかった人間だ。


 同じ教室にいても国境でもあるみたいに仙台さんたちがいる場所には近づかなかったし、向こうも近づいてこなかった。たまたま同じクラスになっただけで、それ以上にもそれ以下にもならない関係だったのに、私たちは交わってしまって、なんとかルームメイトという言葉で繋がっている。


 それなのに、仙台さんは新しい言葉を私に言わせたがっていた。


 私の中で彼女の存在は、今さら消せないところまできている。彼女は私のカレンダーを断りもなく塗りつぶし、私を私ではないなにかに変えようとしている。


 もしかしたら、ルームメイトという言葉よりも収まりの良い言葉があるのかもしれないとは思うけれど、今はそれがなにかはわからないし、わかりたくはない。


 私は、ルームメイトでありたいと思う。

 大学を卒業してもずっと。

 この時間が永遠に続けばいい。


 ルームメイトを別の言葉に置き換えて、それが私たちに上手く当てはまらなかったら、すべてがなくなってしまうかもしれない。


 私は黒猫の頭を撫でて、鼻先に唇をつける。

 枕元に黒猫を置いて目を閉じると、外からゴロゴロという不穏な音が聞こえたような気がして体がかたまる。

 耳を澄ましたくないのに澄ましてしまう。

 雷のような音は聞こえてこない。


 ふう、と息を吐いてから体を起こすと、ドアの向こうから物音が聞こえてきて、部屋から出ると仙台さんと目が合った。


「ただいま」


 自分の部屋へ入ろうとしていた仙台さんが柔らかな声で言う。


「おかえり。髪が濡れてる。雨、酷かった?」


 仙台さんが部屋へ入ってしまう前に腕を掴むと手のひらが湿って、髪だけではなく彼女の体も濡れていることがわかる。


「雨はそれほどでもなかったけど、風が強かったから」


 聞こえてきた言葉の正しさを証明するように、彼女の髪は乱れていた。髪を編んでいないせいか、余計にそれが目立つ。

 さっき聞こえてきた不穏な音は雷ではなく、風の音だったのかもしれない。


「宮城、ご飯は?」

「食べてない」

「着替えてくるから、ちょっと待ってて。一緒に食べよう」

「先にお風呂入れば? ご飯はあとからでいいよ」


 髪や服から水滴が滴るほど濡れているわけではないけれど、濡れたままでいていいわけがない。


「お腹空いたし、後でいい」

「濡れたままだと風邪引く」


 去年の夏休み前、仙台さんがずぶ濡れで私の家に来たことがあった。今日の彼女は制服ではないけれど、あの日と同じようにブラウスを着ていて微妙に過去と重なる。


 あのときは風邪を引かなかったけれど、今日は引くかもしれない。だから、仙台さんは早くお風呂に入って着替えるべきだ。このまま濡れたままでいると言うなら、あのときのように彼女の服をすべて脱がさなければならない。


 いや、高校生だった私は彼女の制服を全部脱がしたりはしなかった。

 でも、今日はわからない。

 だから、素直にお風呂に入ってほしい。


「髪は乾かすし、服も着替えるから大丈夫」

「お風呂入りなよ」

「そんなに濡れてないし、慌てて入るほどじゃないって」


 仙台さんが私を安心させるように口角を上げて笑顔を作る。

 腕を掴んでいる手に力をいれて「仙台さん」と強く呼ぶと、彼女は私の手を腕から剥いでドアに寄りかかった。


「なに? 今からお風呂に入らなかったらここで脱がすつもり? あのときみたいに」


 どうやら彼女も私と同じことを思い出していたらしい。


「脱がすって言ったら?」

「んー、そうだな。私も宮城を脱がそうかな」


 仙台さんが私のTシャツの裾をめくってくる。でも、それは脇腹が少し出る程度のところまでで、この先は私の行動次第だというように手を止めた。でも、彼女が本当に言葉通りにするかどうかはわからない。


 脱がされたくはないと思うけれど、去年のように仙台さんのブラウスのボタンを外したいと思う。そして、今度はブラウスも脱がしてしまって、ブラも外して――。


 駄目だ。

 最近の私たちは、ルームメイトという言葉の範囲から逸脱しすぎている。


「脱がしたりするわけないじゃん」


 脱がす必要なんてない。

 わかっているけれど、手が勝手に動いて一番上のボタンが一つ外れた仙台さんのブラウスに触れる。


「……でも、跡はつける」


 私はそのままボタンを一つ外す。


「どこに?」


 聞こえてくる声には答えずに、ボタンをさらに二つ外して胸元を開く。去年のようにボタンを全部外したわけでないが、下着が見える。


「宮城。これ、脱がしてないって言うの?」

「ボタン三つ外しただけで、脱がしてない」


 これからすることは、ルームメイトという言葉に相応しくない行為だと思う。でも、今さらだ。この時間を永遠に近づけるならルームメイトという言葉の範囲から出るべきではないけれど、仙台さんが勝手に広げたルームメイトの範囲が新しい基準になっているし、私たちはずっとこんなことをしている。それに、もっと相応しくない行為もしてしまっている。


「ボタン外さなくても跡はつけられるでしょ」

「目立つところにつけてもいいんだ?」

「いいとは言ってない」


 彼女は跡をつけること自体は否定しない。

 だから、私は開いた胸元に唇をつける。


 仙台さんが私の髪を引っ張ってくるけれど、その力は弱くて、跡をつけることを邪魔するようなものじゃない。

 否定も肯定もしない仙台さんの肌を強く、強く吸う。そして、ゆっくりと唇を離すと、白い肌に赤い印がついていた。


「ほんと宮城って、すぐこういうことするよね」


 私がつけた跡を撫でながら仙台さんが言う。


「この前、夏休み中ずっと跡が残るくらい噛んでいいって言ったじゃん。これだって似たようなものだし、ちゃんとバイトに行ったときに生徒に見えない場所にした」

「配慮してくれたのは嬉しいけど、次のバイトのときには消えてるんじゃない」

「消えたらまたつける」


 私は赤い印を撫でている仙台さんの手を剥がしてから、外したボタンを一番上まで閉める。


「消えたらまたつけるって言っても配慮のおかげでこうしてると見えないから、確認しないとわからないと思うけど」

「消えたら教えてよ」

「宮城が自分で確認しなよ」

「自己申告制だから」

「じゃあ、消えた」


 仙台さんはにっこりと笑って楽しそうに言うと、私をじっと見た。からかうような視線に、私は彼女の足を蹴る。


「こんなに早く消えるわけないじゃん」

「確認してみれば?」


 仙台さんが閉めたばかりのボタンを一つ外して、私の腕を掴む。


 彼女は私に「すぐこういうことするよね」と言ったけれど、この言葉が相応しいのは仙台さんだ。彼女はすぐに私をからかうようなことをするし、ルームメイトという言葉を曖昧なものにしようとしてくる。


 私は掴まれた腕を取り戻す。


「確認しなくても消えてないってわかってるし、お風呂に入るか、早く着替えるかしてよ。風邪引かれても困る」

「はいはい。着替えてくるから」


 仙台さんは黒猫のぬいぐるみよりも軽い声で言うと、自分の部屋のドアを開けた。

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