第54話

 結構、単純だな。


 寄り道をせずに行って、必要なものだけを買って、寄り道をせずに戻ってきただけだから、時間はそれほどかかっていない。でも、たったそれだけのことで私の気分はそれなりに変わった。


 外は暑くて、頭を冷やすというよりは熱したことになったが、邪な気持ちを追い出すという目的は達したから問題はない。


「買ってきた」


 部屋へ戻ってきた私は、漫画を読んでいる宮城に声をかける。


「頼んでない」


 本から顔を上げることなく、宮城が不機嫌な声を返してくる。


「頼まれてないけどさ、ちょっと休憩しようよ」

「もう休憩してる」


 彼女の言葉は正しい。

 宮城は漫画を読んでいるだけでなく、ベッドに横になっていて休憩という言葉に相応しい格好をしていた。


「見たらわかるけど、そういう休憩じゃなくておやつにしようって言ってるんだけど」


 わかりやすく提案をしても、宮城は動かない。

 それなら、実力行使するまでだ。


 買い物袋を床へ置いて宮城が持っている本を取り上げると、それは初めて見る漫画だった。


 買い物ってこれか。


 たぶん、昨日、宇都宮たちと買い物に出かけて買ったいろいろの一部が漫画なんだろう。


「仙台さんだけ食べれば」


 そう言うと、宮城が体を起こして私から漫画を奪ってまた寝転がった。ごろごろとやる気の欠片も感じられない姿は、あまり機嫌が良いとは言えない。


「あ、宮城。もしかしてフレンチトースト嫌い?」


 突然、私が買い物に行った。

 行くなという宮城の言葉を無視した。

 機嫌が斜めになった理由はそんなところだろうけれど、無難な理由を口にしておく。


「……」


 宮城はこっちを見ようともしない。


「なんで黙るの」

「……食べたことないからわかんない」

「そういう人、いるんだ」


 馬鹿にしたわけではない。

 率直な感想だ。

 だが、宮城にはそう聞こえなかったらしく、低い声が聞こえてくる。


「絶対に食べない」

「拗ねることないでしょ。作り方教えてあげるから、手伝ってよ」

「仙台さんが自分で作りなよ」

「課外授業だから、これ」

「すぐそういういい加減なこと言う」


 宮城が起き上がって、不満そうな顔を見せる。


「じゃあ、できたら持ってくるから宮城はここにいて。キッチン借りるよ」


 付き合っていられない。

 宮城が手伝ってくれなくても、フレンチトーストは作ることができる。それどころか、いない方が早く作れるかもしれない。


 私は彼女に背を向けて部屋を出ようとするが、Tシャツの裾を引っ張られる。


「なに?」

「一緒に行く」


 他の子の前ではどんな感じなのか知らないが、私の前にいる宮城はいつも素直じゃない。今日も散々駄々をこねて、結局キッチンへついてくると言う。食べないと言っているフレンチトーストだって、最後には食べるに違いない。


 それなら、最初から黙ってついてくればいいのに。

 本当に面倒くさい。


 でも、こうして話をしているといつもの宮城でいつもの私だ。勉強をしていたときよりも、普通にしていられる気がする。


 私は、短い廊下を歩いてキッチンへ向かう。けれど、宮城はキッチンへは入らずにリビングのカウンターテーブルに座った。


「宮城、こっち」


 私は手伝うつもりが欠片もない宮城を呼ぶ。


「なんで?」

「手伝いに来たんでしょ」

「違うから。仙台さんが自分で全部やってよ」

「いいから手伝いなよ。料理苦手でも卵くらい混ぜられるでしょ。もしかしてそんなこともできない?」


 買い物袋から牛乳と卵を出しながら宮城を見ると、彼女はむっとした顔をしていた。


「やればいいんでしょ」


 ぞんざいな口調で言って、宮城がキッチンへやってくる。


「食器とか勝手に出していい?」

「好きなの使えば」


 言われた通り、必要なものを適当に取り出して、卵を一個ボウルに割り入れる。


「これ混ぜといて」


 宮城に菜箸を渡して、大切なことに気がつく。


 食パンを焼くために使うバターを買ってきていない。


 冷蔵庫を開けて中を見ると、色の悪い死にかけたバターが入ったケースが見える。いつ買ったのか宮城に尋ねると「ちょっと前に買った」という曖昧な返事が飛んでくるが、ちょっと前にしてはバターに元気がない。


 それでも 宮城の言葉を信じることにして次の指示を出す。


「砂糖大さじ一杯入れて、牛乳と一緒に混ぜて」


 私は砂糖が入った入れ物と計量カップに入れて計った牛乳を宮城に渡してから、食パンをまな板の上に並べる。


 半分でいいかな。


 食べやすく四つに切ってもいいけれど、今日は二つに切ることにして包丁を手に取る。一枚目の食パンを半分にして隣を見ると、宮城はまだ砂糖を入れていた。


「宮城、ストップ」

「なに?」

「砂糖、入れすぎじゃない? 何杯いれた?」

「三杯くらい?」

「一杯って言ったよね? 私」

「甘い方がいいじゃん」

「良くない。分量守って」


 二杯ならまだしも、三杯は多い。

 でも、入れてしまった砂糖を抜くことはできないから、卵液の量を増やして薄めることにして、私は卵をもう一つボウルに割り入れる。牛乳の量も倍にして割った卵に加えると、宮城がまた砂糖を入れようとした。


「ちょっと、宮城」


 私は、胸焼けがしそうなほど砂糖を入れようとする手首を掴む。


「あとから命令でもなんでもしていいから、いうこと聞きなよ」

「命令することなんてもうない」

「あるでしょ、なんか」

「じゃあ、それ飲んで」


 宮城がぶっきらぼうに言って、砂糖がたっぷり入った卵液を指す。


「馬鹿じゃないの」


 砂糖の量がまともでも、卵液は食パンを浸すものでそのまま飲むものじゃない。


「だから、命令することなんてないって言ったじゃん。たまには仙台さんが命令すれば? フレンチトースト作ってくれるお礼に命令する権利をあげる」

「そんなの砂糖の分量守れって命令して終わりでしょ。意味ない」

「じゃあ、三つ命令きいてあげる。これなら、平和にフレンチトースト作れるでしょ」


 やっぱりまだ邪魔するつもりだったのか。


 命令をしなければいうことを聞かない宮城にフレンチトースト作りを手伝わせるくらいなら、全部一人でやった方が良い。


「三つって、ランプの精にでもなるつもり?」


 私は宮城からボウルを取り上げて、卵液を混ぜる。


「ランプの精って命令をきくんじゃなくてお願いをきくんでしょ。仙台さんこそ馬鹿じゃないの」


 やっぱり、馬鹿なのは宮城だ。

 宮城がする命令は命令だけれど、私が命令をしてもきっと命令にはならない。宮城が素直に命令をきくとは思えないから、私がする命令はお願いのようなものだ。


 しかも、ランプの精なら願いを叶えてくれるが、宮城は願っても叶えてくれるとは限らない。


「あのさ、手伝うなら命令とか言ってないで素直に手伝いなよ。手伝う気がないなら、向こうで座ってて」


 行儀が悪いと思いながら、菜箸でリビングを指す。

 けれど、宮城はリビングに行こうとはしなかった。


「仙台さんだって、勝手にルール作ってるしいいでしょ」

「そうだけど」

「早く命令しなよ」


 宮城が私の方を向いて、まるで命令のように言った。


 納得できない。

 なんで、宮城が偉そうなんだ。


 大体、三つ命令できても、宮城にして欲しいことなんて砂糖の分量を守って、牛乳の分量も守って、弱火でパンを焼くくらいのことしかない。そして、それはどうしても宮城にしてほしいことじゃない。


 じゃあ、なにを命令すればいいんだ。


 黄色い卵液に視線を落とす。

 宮城にしてほしいこと。

 宮城に私がしたいこと。

 ないことはないが、こんなところで命令するようなことじゃないと思う。


 じゃあ、他になにか。


 私は菜箸を置いて、宮城の方を向く。


「命令、なんでもいいの?」

「いいよ」

「じゃあ、そのまま動かないで」

「え?」

「動かないでって言ったの」

「わかったけど、次は?」


 宮城はフレンチトーストを作る手伝いを命じられると思っていたらしく、不思議そうな顔をしながら私を見た。


「目、閉じて」

「……なにするつもり?」


 動くなと命令したはずなのに、宮城が半歩下がる。


「黙っていうこときいて」

「黙ってって、命令?」

「そう、命令。三つきいてくれるんでしょ」


 宮城が眉根を寄せて、私を睨む。文句があるらしく、仙台さん、と私を呼ぶ。でも、すぐに口をつぐむとゆっくりと目を閉じた。


 宮城は、絶対にいうことをきかない。


 そう思っていたから、拍子抜けする。この次に起こることを予想しただろうから、もっと食ってかかってくると思っていた。


 私は、珍しく大人しくいうことをきいた宮城の頬に触れる。

 指を滑らせても宮城は動かない。


 真夏の太陽に焼かれたはずの不合理な感情が燃え残っていて、自分を止めることができない。


 ゆっくりと閉じられた目のように、ゆっくりと宮城に近づく。目を閉じて彼女を視界から消して唇を重ねると、見えないはずの宮城がよく見えるような気がして、そのまま唇を強く押しつけた。


 心臓の音がいつもより早い。

 平気でキスができるほど、宮城とキスをすることに慣れてはいない。それでも二度目のキス――唇に触れた数を正確に数えるなら三度目のキスは、やっぱり気持ちが良かった。柔らかな唇に触れているだけなのに、バターのように理性が溶けそうになる。


 キスは嫌いじゃない。

 もっと触れていたいと思う。

 これくらいのことが夏休みにあったっていい。


 キスくらいたいしたことじゃないと自分を誤魔化す。


 舌先で宮城の唇に触れる。閉じられた唇を割り開くように舌を伸ばすと、宮城の手が私の肩をぐっと押した。


 思いのほか強く押されて、一度唇を離してからもう一度キスをする。

 柔らかく触れて、舌先で唇を舐める。


 それ以上はしていない。けれど、宮城が私の唇を加減をせずに噛んできて、今度は私が宮城の肩を押すことになった。


 痛い。


 指先で自分の唇に触れると、濡れた感触がする。指を見ると、赤いものがついていた。


「初めてじゃないし、ここまでしなくてもいいでしょ」

「初めてとかそうじゃないとか関係ない。命令は三つきいたし、勝手なことしないでよ」


 宮城が不機嫌に言う。

 勝手なことが舌を入れようとしたことを指しているのか、唇を舐めたことを指しているのかはわからない。ただ唇に触れただけのときは抵抗しなかったから、キスをしたこと自体は勝手なことには含まれないはずだ。


「少しは加減しなよ」


 私は、どうしても伝えておきたいことだけを口にする。言いたいことはいくつもあるが、宮城に言っても文句が返ってくるだけだ。


「鏡ある?」


 傷がどれくらい深いか気になって、何が地雷かわからない気難しい宮城に問いかける。

 血はそれほど出ていないようだが、唇が痛かった。こんなところを思いっきり噛むなんて、宮城はどうかしている。


「傷なら、私が見てあげる」

「自分で見るからいい」

「鏡、ここにないから」


 そう言って、宮城が私に顔を近づけてくる。


 とても、近くまで。


 それは、傷を見るにしては近くて「なに?」と問いかけようとしたけれど、先に宮城が犬か猫のようにべろりと私の唇を舐めた。


 突然のことに、声を出すことも忘れて宮城を押す。


「消毒しただけ」


 言い訳のように宮城が言って、私から離れる。


「血、美味しくない」

「そりゃそうでしょ。それに前にも言ったけど、舐めるのは消毒じゃないから」


 ここで宮城の血を舐めたから、血の味はよく知っている。


 自分の血と等しく、宮城の血も美味しくなかった。宮城だって、舐める前からそんなことはわかっていたはずだ。衛生的でもないし、好んでするようなことじゃない。だから、どうして宮城が私の血を舐めたりしたのか理解できないのに、彼女がもう一度近づいてくる。


「ちょっと、宮城」


 体を寄せて、唇を寄せてこようとしてくる宮城を制止する。

 何故、止めたのか。

 自分でもわからないまま、宮城の肩を掴んでいた。


「仙台さんから誘ってきたくせに」


 誘ったら誘われてくれる。


 宮城の言葉はそういう意味にもとれて、私は驚く。


 確かに今まで宮城を誘導するようなことをしてきたけれど、そんなことを宮城が言うとは考えていなかった。


「……私ともう一度キスしたいってこと?」


 尋ねても返事がない。

 私から距離を詰めると宮城が「私がする」と小さく言ったけれど、そのまま唇を押しつけた。


 少しの痛みとともに、宮城の唇の感触が鮮明に伝わってくる。


 柔らかくて、温かくて、気持ちが良い。


 触れているだけなら宮城は大人しくて、さっきよりもほんの少しだけ長くキスをしてから唇を離す。


「……仙台さんってエロいよね」


 宮城がぼそりと言って、恨めしそうな目で私を見る。


「宮城だってキスしたかったんだから、同じでしょ」

「同じじゃない」


 キスをしたかったという言葉は否定しないのに抵抗するように言い切って、宮城が私に手を伸ばした。


 指先が傷口に触れて、緩く撫でる。


「そこ痛い」


 言葉に反応するように、宮城が傷口を指先で強く押す。

 ピリピリとした痛みに、顔を顰める。


 物理的な距離だけで言えば、私と宮城は前よりも近くにいることが多くなった。けれど、私と宮城の間には埋まらない距離がある。


 宮城は、未だに私の嫌がる顔を見たいと思っているのだろうか。


 彼女の手は、唇に触れ続けている。

 私は、与え続けられる痛みにそんなことを考えた。

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