第53話
目覚めは、いつもよりも良かった。
理由は、考えるまでもなく羽美奈だ。
土曜日どころか、日曜日まで彼女に引っ張り回され、余計な考えが入り込む隙間もないほど疲れてぐっすりと眠った。二日連続で遊び歩く予定ではなかったが、宮城のことを頭の隅に追いやることができたからよく眠れたんだと思う。
おかげでいつも通り予備校へ行けたし、宮城の家へ来ることもできた。
ほんの少しの気まずさに目をつぶれば、何の問題もない。
実際、開けてはいけない玉手箱のように、私も宮城も金曜日のことに触れることはなかった。宮城は家庭教師代と言って私に五千円を渡すと、黙って問題集をテーブルに広げたし、私もひたすら問題集の答えをノートに書き込んでいる。
そして今、この部屋にあるのは平穏な時間だ。
金曜のことは問題集の中に隠しているだけで、問題を解いている間だけなかったことになっているということはお互いにわかっている。それでも微妙な空気の中で勉強をするよりは、見せかけだけでも穏やかな空気の中で勉強する方がいい。
もともとそれほど弾まない会話は停滞し続けて沈黙ばかりだけれど、そんなことは些細なことだ。沈黙が多いくらいじゃ世界は終わらないし、私たちの関係も終わらない。
少し静かすぎるとは思うが、うるさすぎるよりはいいと思う。
私はテーブルの上からグラスを手に取って、冷えた麦茶を胃に流し込む。
宮城は気を遣うことをやめたらしく、今日の室温は私には少し暑いくらいになっている。
もう二度ほど設定温度を下げて欲しいが、言わないでおく。
外にいるよりは涼しいし、金曜日をなぞるようなことをしたいわけではない。
「仙台さん」
前触れもなく、宮城が私を呼ぶ。
「日曜日、駅前にいた?」
「いたけど、なんで?」
問題集から顔を上げて宮城を見ると、彼女もこちらを見ていた。
邪な気持ちはここへ来るまでに暑苦しい太陽に焼かれて燃えてしまったのか、宮城が隣にいても今日はそれほど気にならない。
「茨木さんと歩いてるところ、見かけたから」
宮城の言葉に、声をかけてくれたら良かったのにと言いかけて飲み込む。
私たちはそういう関係じゃない。
「宮城は宇都宮と?」
代わりの言葉を探して口にする。
「そう、舞香たちと出かけてた」
「なにしてたの?」
「買い物」
夏休みの始め、宇都宮とどこへ行くのか尋ねたときには答えてはくれなかった宮城がすんなりと答えを口にする。
「仙台さんは何してたの?」
「こっちも同じ。羽美奈の買い物に付き合ってた」
「楽しかった?」
問題を解くことに飽きたのか、それとも沈黙し続けることに飽きたのか、宮城が普段なら聞いてこないようなことを聞いてくる。
「まあね」
短く答えると、疑いの眼差しが向けられる。
そんな目で見られるほど、つまらなかったわけじゃない。“まあね”の半分くらいは本当だ。羽美奈に振り回されて疲れたけれど、楽しいこともあった。
「宮城の方こそ楽しかったの?」
わざわざ宮城の視線を否定するのも面倒で、彼女の日曜日について聞くことにする。
「楽しくないことしないから」
「そっか。なに買ったの?」
「いろいろ」
「いろいろって?」
「なんでもいいでしょ」
宮城が質問に答えてくれるボーナスタイムは終わったようで、話が打ち切られる。だが、昨日は楽しかったようで声はそこまで冷たくなかった。
宇都宮のことはよく知らないが、宮城と仲が良いことは知っている。どれくらいの付き合いで、どれくらい親しいかは聞いたことがないけれど、良い友だちなんだろうとは思う。
たぶん、そういう関係は今の私にないものだ。
私にあるのは打算的な関係ばかりで、二人を少し羨ましいと感じる。そして、考える必要のないことも頭に浮かぶ。
宇都宮なら、なにも考えずに宮城に触れることができるんだろうか。
友だちをつかまえて“なにも考えずに”と注釈をつけることがおかしなことだということは、よくわかっている。友だちなら、そんな注釈はいらない。
邪な気持ちが消えたと思ったのは気のせいで、半分くらい燃え残っているからこんなことを考える。
――最低だ。
私はペンを放り出して、テーブルに突っ伏す。
額とテーブルがぶつかって、ゴン、と鈍い音を立てたけれど、気にしない。
「急になに?」
驚いたような宮城の声が聞こえてくるが、それを無視して突っ伏したまま尋ねる。
「わかんないところある? あったら言って、教えるから」
「仙台さんが急に突っ伏した理由以外にわからないところはないけど」
「じゃあ、問題集続けてて」
「なんなの、一体」
「ちょっと自分に幻滅してるだけ」
今の自分を放っておけば、金曜日をトレースするような行動を起こしそうで嫌になる。
自分の理性がこれほどまでに信用できないとは、思っていなかった。今まで宮城のことを面倒なヤツだと思っていたけれど、それ以上に自分が面倒くさいヤツになっている。
「わけわかんないこと言ってないで、真面目にやってよ」
いつもなら私が言いそうなことを宮城が言う。
「午前中、真面目にやってきた」
「それ、予備校の話でしょ。ここでも真面目にやって」
真面目に勉強をしたらこのくだらない妄執から解放されるなら、いくらでも真面目にやる。でも、そうは思えない。炎天下の中、散歩でもしてきた方が気分が変わりそうな気がする。
「そうだ、宮城。食パンある?」
私は体を起こして、宮城を見る。
「食パン?」
「そう。あとは牛乳と卵」
「ないけど、あったらなんなの?」
「フレンチトースト食べたくない?」
「食べたくない」
「私が食べたい」
散歩に行こうかと誘う仲ではないし、理由もなく一人で外へ出て行くわけにもいかない。だったら、適当な理由を作ればいいだけだ。
少し気分を変えたいだけで、外から戻ってくればまた宮城の隣でなにも考えずに問題を解くことができると思う。
彼女はこの部屋で食べ物を出してくることがほとんどないけれど、たまには二人でおやつを食べたって悪くない。
「材料買ってくるから待ってて」
宮城が食べたいかどうかは問題ではないから、私は立ち上がって鞄を手に取る。
「フレンチトーストとかどうでもいいから、勉強してよ。ちゃんと」
不機嫌な声とともに、ワニのカバーがついたティッシュの箱が飛んでくる。私はそれを受け止めて、あるべき場所にワニを戻す。
「宮城がそんなこと言うなんて珍しい」
「仙台さんが突然なにか始めると、面倒なことになるからやめてほしいだけ」
「それ、私が面倒なことばっかりしてるみたいに聞こえるんだけど」
「してるじゃん」
「してないし、今日はフレンチトースト作るだけだから」
宮城に言うつもりはないが、面倒なことをしないようにフレンチトーストを作ろうとしているのだから止めないでほしい。
「ちょっと行ってくる。宮城も一緒に来る?」
意思を変えるつもりがないことを宣言して、ついでに宮城が私を一人で送り出したくなる魔法の言葉を付け加える。
「行かない。行きたいなら、一人で行けば」
宮城は思った通りの台詞を口にして、問題集に視線を落とした。
「じゃあ、待ってて」
できることなら、真夏の街に出たくはない。
太陽を隠す雲がない空の下、風のない街を歩くなんて地獄だ。
でも、今は蒸し風呂のような街へ出る必要がある。
私は宮城を置いて玄関を出て、エレベーターに乗る。
エントランスを抜けて外へ足を踏み出せば、すぐに汗が額に滲む。
甘いものを食べれば、明るい気分になるはずだ。
根拠があるわけではないが、そう信じて太陽が照りつける歩道を歩く。
こういうのって宮城っぽいな。
日陰を探しながら、ため息をつく。
行動に一貫性がないし、何かあったら逃げ出す。
一緒に過ごす時間が長くなったせいか、だんだんと宮城のようになってきている。似てきたとは思いたくない。これはたまたまで、今日だけのことだと思いたい。
こめかみをぐりぐりと押さえて、頭から宮城を追い払う。
食パン、卵と牛乳。
聞いてはこなかったが、さすがに砂糖はあるだろう。
私は、簡単なおつかいをこなすために足を速めた。
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