仙台さんは余計なことばかりする
第55話
仙台さんは、冗談で済むようなキスをしない。
初めてキスしたときもそうだった。
ちょっと唇が触れ合う程度のキスなら、ふざけただけと言い訳することができる。でも、仙台さんは言い訳を許さないようなキスをしようとする。唇が触れ合うだけで終わるようなキスならしたっていいけれど、それ以上のキスを求めてくる。
仙台さんの舌が唇に触れると、ぞわぞわとして落ち着かない。
彼女の体温が私に混ざろうとしてきて、頭の奥が熱くなる。
だから、そういうキスは私たちがするべきものではなくて、仙台さんの唇を噛んだ。彼女がする冗談にならないキスは、鍵の付いた箱に入れて心の中に沈めておいた気持ちを呼び覚ますもので、受け入れられない。
仙台さんの唇にできた傷は思ったよりも深かったが、自業自得だ。
私は、傷口を押さえる指に力を加える。
仙台さんの顔が歪んで、痛みをこらえていただけの彼女が私を睨む。
反抗的な目をした仙台さんを久々に見た気がする。
仙台さんがこの部屋だけでするこういう顔を見ると、珍しいものを手に入れたときに似た優越感のようなものに浸ることができる。そして、私だけがそういう顔をさせることができるのだということに気持ちが高ぶる。
――少し前まではそうだったはずだ。
でも、今は仙台さんに嫌な顔をされたくないと思う私がどこかにいる。
こんなのはおかしい。
悪いのは行き過ぎたキスをしようとした仙台さんで、私はちょっとした仕返しならしたってかまわない立場のはずだ。彼女がどんな顔をしようが関係ない。
私は、傷口に爪を立てる。
指先がぬるりとした血で濡れて、仙台さんに手首を掴まれる。
「痛いってば」
言葉とともに、乱暴に傷口から手が剥がされる。
指先を見ると仙台さんの血が付いていて、彼女の唇にも同じように血が付いていた。指に付いた血を舐めると、仙台さんの唇を舐めたときと同じ味がして美味しくない。
「舐めないで、手を洗いなよ」
そう言って、仙台さんがシンクの水を出そうとする。私はその手を止めて、彼女の腕を掴んだ。
「手はあとから洗う」
「じゃあ、今はなにするの」
夏休みの仙台さんは調子に乗っている。
私からキスをしようとしたのに、私にキスをすることが当たり前みたいな顔をしてキスをしてきた。別にキスくらいしたっていいけれど、仙台さんばかり自由に好きなことをするのはずるいと思う。
ここは私の家で、三つの命令だって終わっているのだから、彼女のように好きにしたっていいはずだ。
「キス」
仙台さんの答えを待つつもりはない。
彼女に一歩近づいて、私から顔を寄せる。
目は閉じない。
視界に映る仙台さんが近くなる。それでも目を閉じずにいると根負けしたように仙台さんが目を閉じて、私はゆっくりと唇を重ねた。
温かな体温とともに、おそらく血であろう液体が唇を汚す。
唇から伝わってくるべたりとした感触は気持ちが悪いけれど、触れ合っていること自体は心地が良い。キスをされたときと変わらないくらい気持ちが良くて強く唇を押しつけると、傷口が痛むのか仙台さんが少し体を引いた。
唇を体のどこにくっつけたって柔らかさが変わるくらいで、感触に大きな違いはないはずなのに、唇同士がくっつくと心臓がうるさくて体が熱くなる。
誰としても、同じような気持ちになるのかはわからない。
知りたいとも思わない。
でも、仙台さんとキスをするとどうなるかは知ってしまった。
私は、彼女のTシャツを掴んで唇を強く押しつける。さっきよりも血がたくさんついて、どこよりも柔らかい唇がぴたりとくっつく。でも、すぐに仙台さんが私から離れた。
「もう少し優しくしなよ。唇、痛い。あと、Tシャツ伸びるから離して」
そう言って、仙台さんが私の手の甲を叩く。
私は何も答えずに手を洗ってから、卵を混ぜる。仙台さんは返事をしなかった私を咎めることなくパンを切り始め、カシャカシャと菜箸がボウルに当たって立てる音だけがキッチンに響く。
心臓は、まだ少しだけドキドキしていた。
私は、黄色い液体だけを目に映し続ける。けれど、ずっと黙ったままでいるというわけにはいかなかった。
「これ、どうしたらいいの?」
黄色い液体の完成形がわからず、顔を上げずに仙台さんに尋ねる。
「もういいよ。あとは食パン浸して焼くだけだから、宮城は向こうに行ってて」
リビングにいた私を手伝えと呼び寄せた仙台さんが、キッチンから私を追い出すように言う。
無責任だな。
わざわざ手伝いに来たのに追い返されることに文句があるけれど、このままキッチンに居続けるのも気まずい。それに、パンを焼けと言われても困る。
私は素直に仙台さんの言葉に従って、キッチンを後にする。
カウンターテーブルで待っていると、ジュウジュウとパンが焼ける音とともに甘い香りが漂ってくる。たいして空いていなかったお腹が食べ物を催促するように動き出して身を乗り出すと、焦げ目のついたパンが見えた。そして、思ったよりも長く待たされてから、フレンチトーストが運ばれてくる。
「誰かさんがいうこときかなかったから、美味しいかわかんない。食べてみて」
仙台さんがナイフとフォークを私の前に置いて、隣に座る。声を合わせたわけではないけれど、いただきます、が重なって、仙台さんと一瞬目があった。
私は、卵焼きに似たパンにフォークを入れて小さく切る。黄金色の塊を口に入れると、表面のカリカリと中のふわふわが卵とバターが混じりあったどこか懐かしい味を連れてくる。
「初めてフレンチトーストを食べた感想は?」
仙台さんが私を見る。
「思ったよりも甘い」
「それは宮城のせいでしょ。馬鹿みたいに砂糖入れるから」
仙台さんが不満そうに言う。
「まあ、でも、結構美味しいと思う」
これは、嘘じゃない。
少し甘すぎるような気はするけれど、初めて食べたフレンチトーストは好きな食べ物に分類しても良い。
唐揚げも、卵焼きも。
仙台さんが作ってくれたものは美味しかった。もしかしたら、彼女は私が嫌いなものも美味しく作ることができるのかもしれない。
「それなら良かった」
隣から、ほっとしたような声が聞こえてくる。
仙台さんが料理を作ってくれたとき、美味しいと伝えるといつもそういう声を出す。私の反応なんて気にする必要はないはずなのに、少しは気にかけてくれているらしい。
私は、もう一口フレンチトーストを食べる。ふわふわのパンを噛んで胃に落とすと、ガチャリとお皿にフォークかナイフが当たる音が聞こえてきて、隣を見れば仙台さんが口を押さえていた。
「大丈夫?」
口を押さえている理由は聞かなくてもわかる。
傷口にフレンチトーストが当たった。
たぶん、そういうことで、でも、傷ができた原因は仙台さんにあるから私が不安になる必要はない。けれど、彼女があまりにも痛そうな顔をしているから、思わず大丈夫か聞いてしまった。
「血が出るほど噛むのやめなよ」
眉間にしわを寄せて、仙台さんが私を睨む。
「血が出るほど噛みたくなるようなことをする仙台さんが悪い」
「キスするの嫌いじゃないくせに」
「好きなわけでもないから」
「へえ」
仙台さんが疑いを含んだ声と眼差しを向けてくる。
私はその声と視線から逃げるように、フレンチトーストを口に運ぶ。ゆっくりと咀嚼して、口の中からバターの風味が消えてから、言いたいことの一つを仙台さんに告げる。
「明後日からは、もう少し普通にしてよ」
「普通って?」
「変なことしないで」
仙台さんが言うようにキスは嫌いじゃないし、仙台さんとならしてもいい。
でも、この先何度もするようなものではないと思う。
私たちは世の中で言うキスをする関係にないし、そういう関係になる予定もない。この夏休みがイレギュラーな状態というだけで、二学期が始まれば一学期と同じような毎日を過ごすことになるはずだ。
それに、またこんなことがあったら歯止めがきかなくなりそうな気がする。嫌いじゃないから、普通でいられる自信がない。
このままずるずるとこんなことをしていると、マズいことになりそうだということはわかる。
「変なことってなに?」
仙台さんがフォークでフレンチトーストを刺す。
「変なことは変なことでしょ」
「はっきり言いなよ。キスするなって言いたいんでしょ」
「わかってるなら、もうこういうことはなしにして。するなら、勉強したり、話をしたりとか、そういうことにしてよ。それも嫌なら本もゲームもあるし、なんか適当に時間潰せるでしょ」
乱暴に言って、仙台さんのお皿からフレンチトーストを奪う。一口でそれを食べてしまうと、仙台さんがにこりと笑って言った。
「宮城、知ってる? そういうこと一緒にするのって、友だちって言うの」
わざとらしいほど明るい声がリビングに響いて、仙台さんが「飲み物取ってくる」と言って立ち上がる。彼女はキッチンへ向かい、声だけが少し離れた場所から聞こえてくる。
「まあ、でも、宮城がそういう友だちみたいなことしたいなら、明後日からはそうするけど」
すぐに仙台さんが戻ってきて、テーブルの上にグラスが二つ置かれた。
「別に友だちみたいなことがしたいわけじゃない」
「そう? 普通がいいなら、友だちごっこでいいじゃん。なんなら、友だちっぽく二人で映画でも観に行こうか?」
学校でよく見る笑顔を浮かべた仙台さんが麦茶を飲む。
本気じゃないのは、声からわかる。
行くわけないじゃん。
仙台さんは、私がそう言うと思っている。
だから、絶対に言わない。
「……いいよ。観に行く」
「映画?」
「そう。明日か、木曜日に行こうよ」
友だちごっこではないけれど、仙台さんを友だちのように扱おうとしたことがある。
たわいもない話をして、一緒にゲームをして。
友だちとするようなことを一緒にしてみた。
結局、仙台さんが友だちになることはなかったけれど。
でも、今回は違う結果になるかもしれない。あのときは自分だけが仙台さんを友だちのように思おうとしていたけれど、今度は仙台さんも“ごっこ遊び”を一緒にしてくれる。彼女と友だちになりたいわけではないが、ねじれかけている関係を元に戻すきっかけになるかもしれない。
「なんで明日か木曜日?」
予想しなかった答えに、仙台さんが探るように聞いてくる。
「友だちごっこなら、家庭教師の日じゃない方がいいでしょ」
「確かにね。じゃあ、木曜日で」
この家では見たことのないにこやかな顔で仙台さんが言った。
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