第229話

「宮城の部屋でいい?」


 共用スペースに入って一分。

 仙台さんはなんでもないことのように言うけれど、夜道を歩いて帰ってきたばかりで、そういう話をする心の準備ができていない。


「……なにが?」


 脱いだばかりのコートをぎゅっと握る。


「約束、忘れてるわけじゃないでしょ?」


 仙台さんの言葉が記憶をえぐる。


 忘れることができれば良かったけれど、忘れることはできなかったし、今日も私について回っていた。でも、私が約束を覚えていることも、その約束から逃げだそうとしていたことも、仙台さんはわかっているはずだ。


 わざわざ聞いてくるなんて意地悪だと思う。


「次は私からしてもいいって約束。もっとわかりやすく言った方がいいかな。――セックスしようって約束守ってほしいんだけど」


 仙台さんが黙り込んでいる私に平坦な声で言って、静かに見つめてくる。

 彼女は私の前に立ったまま動かない。


「なんで今日は、そういう言い方するの?」


 わかりやすく言われなくても記憶にある。

 私から仙台さんに触れたとき、仙台さんは断らなかった。


 それは私が彼女の「断らなかったら、宮城はまた私にされてもいいということになる」という言葉を受け入れたからだ。それが今に続く約束になっている。


「なんででも。それに高校の頃は、セックスなんて普通に言ってたじゃん」


 仙台さんとセックスするような関係になるつもりはない。


 高校生だった私はそういうことをはっきりと口にしていたし、仙台さんも似たようなことを言っていた。

 以前の私たちが寄り道をするくらいの気軽さでそういう言葉を口にしていたことは確かで、セックスはしないというルールを決めるくらい普通の言葉だった。


「あの頃と今は違う」

「どう違うの?」


 挨拶というほどではないけれど、会話に混ぜることに抵抗を感じなかった言葉は、口にすることを躊躇うくらい酷く生々しい言葉になっている。たった四文字の言葉は、あのときよりも重さを増し、湿度を増していて、不用意に口にすると言葉の意味にじわじわと潰されてしまいそうな気がする。


「それは……」


 言えない。

 頭の中にあるものを吐き出してしまったら、私がそれを特別なことだと考えているように思われそうだ。


「質問変えようか。どうしてそんなに嫌がるの?」

「嫌がってるわけじゃない」


 でも、だけど、だけど。


 今日はカレンダーの目印になる日だ。

 来年もこの日が近づけば、今年と同じように街中が緑と赤に染まって、誰もが浮かれる。そして、私は今日を思い出すことになる。


 こういう日に約束を果たすことは、初めてすることではない行為を特別なものとして縁取り、目立たせることに思える。今日を忘れないように飾り立てることのようで気が進まない。


 もっとカレンダーの数字に紛れて、いつだったかわからなくなるような日だったら良かったと思うけれど、今さら日を変えられるわけがないし、変えたら、日を変えた日として記憶に残り続ける。


「じゃあ、なにが問題なの?」

「なにがって……」


 高校生だった私たちは大学生になり、あの頃と同じものではなくなっている。


 季節が変わるように変化し、その変化を止めることはできない。いつも残っていた丸いケーキが跡形もなく消えるようになり、言えた言葉が言えなくなった。好ましい変化と好ましくない変化は同時に進行していて、私はルームメイトがどんなものに変わるのか怯えている。


「ルームメイトじゃなくなることを心配してるなら、大丈夫だから。一回しても二回してもルームメイトのままなんだから、三回したって同じだよ。あと、冬休みだし、わけがわからなくなっても大丈夫。他に心配ある? あるなら言って。全部取り除いてあげる」


 耳に仙台さんの声が一気に流れ込んできて、処理が追いつかない。言葉の意味は理解できるけれど、私の中に留まることなくすぐに零れ落ちていく。彼女の言葉は断片になり、声を聞いたという事実だけしか残ってくれず、返す言葉を見つけることができない。


「宮城。なにが不安? なにが嫌? 全部教えて」


 仙台さんが畳みかけるように言う。

 声はあまり優しくない。表情もどことなく硬く見えて、息が詰まる。いつもの仙台さんに戻ってほしいけれど、いつもを取り戻す言葉が私の中にない。


「宮城、なにか言いなよ」


 私が言わなければいけないなにか。

 それはいつもの私たちを遠ざけるものだと思う。


 でも、私はそれを言わなければならない。

 過去の私は未来の私を取引材料にして、仙台さんに触れた。


 だから、今日の私は約束を果たさなければならない。


「約束は――」


 私の口から出た言葉はすぐに途切れる。

 守るなんて簡単な言葉が出てこない。

 仙台さんから逃げるように視線を床へ落とす。

 小さな傷が見えて、足の先で擦る。


「ごめん、言い過ぎた。でも、そろそろ返事して。じゃないと、もっと宮城を困らせるようなことを言いたくなる。お願いだから、あんまり私に意地悪なこと言わせないで」


 仙台さんの手が私の髪に触れる。

 そっと撫でて、離れる。

 でも、すぐ頬にくっついて、指先がピアスを撫でた。


「……仙台さんはしたいの?」


 顔を見ずに問いかけると、すぐに答えが返ってくる。


「言わなくてもわかってるくせに」


 視線の先、仙台さんの足先が私に近づく。

 顔を上げると、唇に触れるだけのキスをされた。


「宮城、約束守るって言ってよ」


 苦しそうな声に、彼女の唇に触れる。

 人差し指でそっと撫でると手首を掴まれ、手のひらに唇がくっつく。


 仙台さんは、約束だから、の一言で押し通すことができるのにそうしない。私の返事なんか待たなくてもいいのに、私がいいと言うのを待っている。従順に、しつけが行き届いた犬のように、私の言葉を待っている。それなのに私は返事ができない。


「宮城、お願い」


 掴まれていた手首が離される。

 催促するように唇が触れてくる。


 額にキスをされる。

 頬にキスをされる。

 唇にキスをされる。


 いくつも、いくつも、いくつも。

 キスをされる。


 そして、キスの合間に優しく、宮城、と呼ばれる。でも、その声にはほんの少し硬さが残っていて、無理をしているとわかる。


「……変な雰囲気出さないでくれるなら、約束守ってもいい」


 必要以上に近づいてきている仙台さんの肩を押す。


「シャワーでもしてきて気分変える?」

「もっと変な感じになるじゃん」

「こういうことするとき、シャワーするのって普通じゃない?」

「それが変な感じって言ってる」

「じゃあ、いつもみたいに普通に部屋へ入りなよ」


 仙台さんがようやくいつものように微笑んでくれて、私は自分の部屋のドアを開ける。中へ入ると、仙台さんもついてきてコートと鞄を床へ置き、ベッドに座った。私はエアコンをつけて、コートとマフラーをクローゼットにしまう。


「宮城」


 仙台さんがここへ座れと言うようにベッドをぽんと叩く。


「なんで私の部屋なの?」


 一人分くらいの隙間を空けて、ベッドに座る。


「宮城が私の夢を見るように」

「夢ってなに」

「見るんでしょ、私とする夢。そういう夢、もっと見てほしい」


 そう言うと、仙台さんが開けた隙間を埋めてくる。

 肩と肩が触れ合い、手を握られる。


「そんな夢、見ない」

「変なことする夢見たって宮城が言ったの、覚えてる。だから、今日、私がしたことを何日も何日も夢に見てよ。私が夢を見るみたいに。宮城も私みたいになりなよ」

「私みたいにってどういうこと?」


 問いかけには答えがないまま、押し倒される。

 結構な勢いで背中が柔らかな布団にくっつく。

 耳に唇が押しつけられて、ピアスの上に優しくキスをされる。


「ねえ、宮城。このベッドの上で今から私がすること、全部覚えておいて。私がなにをしたか、宮城がどう思ったか。全部覚えておいて、夢に見て」


 耳元で囁かれる。

 心地の良い声は、ここが私の部屋で、背中の下にあるものが私のベッドだということを強く意識させる。そして、私がこれからされることがどんなことなのか強く認識させる。


 仙台さんは、このベッドでこれから起こることを強く記憶させようとしている。彼女は、私がこれから先に見る夢の中に入り込もうとしている。


「なんで夢に見なきゃいけないの」


 頭の中に張り付く仙台さんの声を剥がすように言う。


「寝てるときも私のことを考えてほしいから。宮城を私でいっぱいにしたい。――もっと私のこと意識してよ」

「意識って――」


 仙台さんの唇に言葉を奪われ、言いたいことを最後まで言えない。


 セーターがまくられ、ブラウスの裾から手が入り込んでくる。脇腹にぺたりと手のひらがくっついて、勝手に体がびくりと動く。彼女の手のひらは柔らかく脇腹を撫で、体温を流し込んでくる。


 仙台さんの手は嫌いじゃない。

 大事なものみたいに触ってくれる。

 この前もそうだった。


 でも、この部屋は明るくて、服の中に手が入り込んでいることを許せる状態じゃない。


 私は服の上から、這い回る手を掴む。手にぎゅうっと力を入れると唇が離れるけれど、紡ぎ出すことができた言葉は「仙台さん」という一言だけで、またキスをされる。舌先が閉じている私の唇をこじ開けてきて、弾力のあるそれを強く噛むと、塞がれていた唇が自由になった。


「仙台さん、待ってってば」


 強く言うと、仙台さんが立ち上がり、テーブルの上に置いてあったリモコンを持って戻って来る。


「こういうことでしょ」


 声とともに電気が消されて体を起こすと、リモコンがどこかに置かれる。


「そうだけど」

「他にしてほしいことは?」

「……ないと思う」

「じゃあ、宮城。横になって」

「なんでそんなに急ぐの?」

「宮城が逃げちゃいそうだから。……それに緊張してる」


 静かな声が聞こえ、追いかけるようにベッドが軋む。

 暗闇の中、温かい塊が近づいてきて頬を撫でられる。それでも横にならずにいると、手が肩に触れ、腕を撫でて、セーターの裾を掴んでくる。そして、まくり上げようとした。


「脱がしていいって言ってない」


 セーターと一緒にめくれたブラウスを無理矢理下ろす。


「今日は脱がしたい」

「やだ」

「セーターくらい脱ぎなよ」

「やだ」

「全部脱ぎたいならそれでもいいけど」


 そう言うと、仙台さんがブラウスごとセーターの裾をめくってくる。


「……セーターだけならいい」


 渋々セーターを脱ぐと、仙台さんが当然のようにブラウスのボタンを外そうとしてきてその手を止めた。


「外さないと触れない」

「触らなくていい」

「もう触ったことあるんだし、触ってもいいでしょ」

「それでもやだ」

「この前、私のこと触りまくったくせに自分は嫌だとかなしだから。とりあえず横になって」

「……先に手を離して」


 仙台さんの体を押すと、ボタンを外そうとしていた手がゆっくりと離れて「宮城」と呼ばれる。それはボタンから手を離した対価を求めるもので、仕方なく横になると、仙台さんが私に覆い被さってくる。思わず彼女の体を押すと、静かな声が聞こえてくる。


「この前、宮城からしてきたときに私がされたこと、大人しくされなよ。気持ち良くしてあげるから」


 彼女の言葉は、今日の約束のきっかけになった出来事を意識させるもので、あの日に記憶が飛ぶ。仙台さんの体の柔らかさを思い出して、息をゆっくりと吐く。


「それって、この前の仙台さんが気持ち良かったってことになるんだけど」

「……そうだよ。宮城の手、気持ち良かった」

「なんで答えるの」

「宮城が聞いたんでしょ」

「聞いたらなんでも答えるの?」

「答えられることなら」


 私は、躊躇うことなく返ってきた答えが本当のことだと知っている。


 仙台さんは、他の人なら答えたりしないことも答える。答えられることなら、と言っているけれど、答えられないことなんてないのではないかと思うほどだ。


 そういう彼女を見ていると、私には嘘をつかないと思える。

 それと同時に一つの言葉が頭に浮かぶ。


「変態」

「じゃあ、変態みたいなこと聞かないで」

「答えなければいいじゃん」

「宮城、答えるまで聞くでしょ。だから答えるの。この前、気持ちが良かったし、宮城にも同じように気持ち良くなってもらいたい。そう思ってるから、ボタン外させてよ」


 嫌だと言う前に、仙台さんがブラウスのボタンを外す。

 一つ、二つ、三つ――。

 あっという間にいくつあったのか覚えていないボタンがすべて外され、ブラウスの前を開かれる。するりと脇腹を撫でられて、私は仙台さんの手を掴んだ。


「離して、宮城」


 仙台さんが優しい声とともに、手を私の体に強く押しつけてくる。今、彼女がどんな顔をしているのかはよくわからない。墨をこぼしたような闇の中、ぼんやりと仙台さんの輪郭が見えるだけだ。


 小さく息を吸って、静かに吐く。


 触られたいわけではないけれど、今日という日の大半を私のために使って待ち続けた仙台さんをすべて拒否するわけにはいかない。


 だから、許す。

 それだけだ。


 私は掴んだ手を一度強く握ってから、ゆっくりと離す。


 自由になった仙台さんの手がお腹の上を這い、ゆっくりと柔らかく肌を撫でる。くすぐったくて体を動かすと、手が止まる。仙台さんの腕を掴むと、指先が肋骨の上を撫でて、下着の上から胸に触れて柔らかく撫でてくる。


 指先でストラップを辿られ、掴んだ腕をぎゅっと握る。でも、仙台さんは手を止めてはくれない。彼女の手が下着を確かめるように動き、ベッドと背中の間に入り込もうとしてきて、思わず体に力が入る。


「背中浮かせて」


 いつもよりほんの少し高い声が聞こえて、自分の体がこれからどうなるのか意識する。宮城、と呼ばれて、諦めて背中を少しだけ浮かせるとブラのホックが外された。


 こういうことは初めてじゃない。

 彼女に胸を触られたことがある。

 でも、初めてではないから簡単に許せるというわけでもない。


「やだ」


 小さく告げる。


「大丈夫」


 無責任な言葉が聞こえて、そっと、静かに、仙台さんの手が下着の中に入り込み、緩やかに胸を包み込む。

 一瞬、息が止まる。


「柔らかい」


 仙台さんがぼそりと独り言のように言う。


「そういうこと、言わなくていい。黙ってて」


 掴んでいた腕を離して、肩を強く押す。

 仙台さんが、ごめん、と言って、手のひらを緩く胸に押し当ててくる。彼女の熱が伝わってきて、たぶん、私の知られたくない変化を伝えることになっている。


 胸の上、感触を確かめていた仙台さんの手がゆっくりと動く。指先が鎖骨の下から輪郭を辿るように胸に触れ、中心へと向かう。緩やかに動く手は、くすぐったさと仙台さんを引き寄せたくなる衝動を私に連れてくる。


 指先が触れてほしくない部分に触れてくる。

 そこは仙台さんが言った「柔らかい」という言葉とは違う感触になっているはずで、頬が熱くなる。


 私の意思ではどうにもならない変化を知られたくない。

 でも、仙台さんの手は離れない。


 緩やかに這い、柔らかに撫で続ける。おそらくそこは硬さを増していて、無理だとわかっていても、柔らかな部分と質感を同じにしてしまいたくなる。


「もう、いいでしょ」


 吐き出す息とともに声をかける。


「よくない」

「じゃあ、そのさわりかたやめて」

「触り方って、こういう感じの?」


 胸の先をかすめるように触ってきて、仙台さんの肩を押す。


「やだってば」

「なんで?」

「こんなの」


 ルームメイトじゃないと言いかけて、喉まででかかった言葉をぐっと飲み込む。

 私がそれを認めてしまうわけにはいかない。


 こういうことがあっても私たちはルームメイトだ。


 だから、別にいい。

 これは仙台さんとの約束を守るための行為で、体の表面を撫でられることに深い意味はない。ちょっとくすぐったくて、体が熱くなるけれど、こういうことをしてもいい。


 私は自分に言い聞かせる。


「宮城?」

「なんでもない」


 声が上擦っていたような気がするけれど、違う。

 私の声はいつもと変わらない。

 仙台さんの手が胸の上を這う。

 手のひらが感触を確かめるように動き、呼吸が乱れかける。


「宮城、ここにキスしたい」


 仙台さんが耳元で囁くように言って、胸を撫でる。


「ぜったいにやだ」

「じゃあ、こっちにキスする」


 拒否する間もなく、頬に、首筋に、キスが降ってくる。

 唇が何度も私にくっついて離れ、耳を甘噛みされて、肩が震える。舌が耳を這い、胸の上では彼女の手が動き続けている。


 こういうのはずるい。


 唇の柔らかさに息が漏れ、肌を滑る手に体に力が入る。感覚が一つにまとまらない。頭が彼女の体温がある部分に反応しようとして、混乱する。伝わってくる体温に感情が揺れて、ベッドから逃げ出したくなる。


「や、だ」


 私のものとは思えない掠れた声は、彼女を止めることができない。

 仙台さんの指先が胸の中心を撫でる。

 彼女の手が動くたび、呼吸が乱れ、息が浅くなっていく。


「せん、だいさん」


 途切れる自分の声に耳を塞ぎたくなるけれど、手を止めてほしくて仙台さんの肩を強く掴む。でも、仙台さんの手は動き続けていて、彼女を強く、強く押す。


「も、やだ」


 どれくらい触られていたのかわからないけれど、随分長く触れられていたような気がしてさっきよりも強く言うと、手のひらが胸から肋骨へと滑り落ち、骨を辿り、脇腹を撫でてくる。吸い付くように張り付く手は強引なくせに優しくて、肩を掴んだ手から力が抜ける。彼女の手がどこにあっても聞かせたくない声が漏れそうになって、唇を噛む。


「宮城、かわいい。もっと触りたい」


 脇腹にあった手が腰を撫でてくる。


「うるさ、い」

「かわいい」


 仙台さんが耳元で囁き、息が吹きかかる。

 意識したくないのに耳に意識が集まって、小さな音がよく聞こえる。


 仙台さんの吐息。

 耳を這う生温かいものが立てる音。

 歯が当たる音。


 耳を噛み、仙台さんが囁いてくる。


「ここならキスしてもいい?」


 緩やかに肌を這っていた手が肋骨の下を撫で、仙台さんが体をずらす。


「だ、め」


 小さな声に返事はない。

 でも、私の声は聞き届けられたようで、頬にキスをされる。肋骨の下を撫でていた手は静かに滑り、デニムに辿り着く。布の上から太ももを撫で、腰骨を辿ってデニムのボタンに手がかかる。

 それが意味することがわかって、私は体を捩った。


 約束を守るということがどういうことかわかっている。

 胸を触っただけで終わるわけがなくて、その先がある。


 それは過去に彼女としたことを繰り返すということで、これから彼女の手がデニムのボタンを外して、ファスナーを下ろすということだ。


「せんだいさん、やだ」


 先へ進もうとする彼女の手を掴む。

 この先になにをするのかわかっているから、触られたくない。


 私の体はあのときよりも酷いことになっているし、触れられたらもっともっと酷いことになる。わけがわからなくなりそうで怖いし、仙台さんに私がどうなっているのか教えるようなことはしたくない。知られたら、私が仙台さんとこうなることを待っていたみたいに思われそうで嫌だ。


「志緒理」


 柔らかな声が耳に響いて、仙台さんを捕まえていた手の力が緩む。


「そのよびかた、やだ」

「志緒理」

「だまって」

「手を離してくれたら呼ばない」

「ずるい」

「志緒理」


 彼女の声は私の好きなものの一つで、気持ちがいい。

 その声で名前を呼ばれたくない。

 私の名前が特別なものになったみたいに思えて、彼女を拒めなくなる。逃げ出さないように頑丈な箱に鍵をかけて入れていた理性が引きずり出され、溶けていく。


「志緒理のこと、もっと触らせて」


 柔らかな声に誘われるように、手を離す。

 仙台さんがボタンを外して、ファスナーを下ろす。手が体に張り付いた下着を剥がすように入り込んできて、背骨に力が入る。人に触らせるような場所ではないのに、仙台さんがゆっくりと記憶に残すように触れてくる。


 初めてではないこの行為は、あのときよりも私の頬を熱くする。

 上手く息ができない。

 仙台さんに触れたときを思い出す。


 私の指を濡らしたもの。

 明かりの下で見たぬるついたもの。


 今、そういうもので仙台さんを汚していて、きっと、私から仙台さんに触れたときよりももっと彼女を汚している。


 彼女の手から逃げ出したいと思う。

 でも、ゆるゆると動く指から逃げ出せない。


 べたべたとしていて気持ちが悪くて、気持ちがいい。

 体がもっと先を求めようとする。


 私を撫でる指先に呼吸が不規則になり、息が上手くできなくなる。苦しくて仙台さんの肩を押すけれど、力がでない。仕方なく肩を叩いて、離れて、と声に出す。


「志緒理、大人しくしてて」

「みや、ぎ」


 声は出したくないが、間違った呼び方は正さなければいけない。


「……宮城」


 いつもの呼び方に戻って、息を長く吐く。

 呼吸は戻らない。

 乱れたままで、息苦しい。


 下着の中に入り込んだ指が強く押し当てられる。

 触れられている部分の感覚が鋭くなって、意識がそこに集まる。


 暗闇の中、仙台さんを見る。

 闇に慣れた目がうっすらと彼女の顔を映す。

 でも、仙台さんの目に私が映っているかわからない。


 彼女の目が私以外を映さないように、この部屋に繋ぎ止めておきたいと思う。


 いなくなったり、帰ってこなくなったりしないように、宝箱にしまって、閉じ込めて、どこにも行かないようにしておかなければ、彼女は逃げ出して、私以外の他のなにかを見るようになるかもしれない。


 だから、逃げられる前に逃がしてしまいたい。


 私は仙台さんを強く押す。

 体が少し離れても、指先は離れない。

 ぺたりとくっついて、滑らかに動き続け、思考を遮る。

 与えられる刺激から逃れたくて体を捩るけれど、仙台さんは遠くに行かない。


 駄目だ。

 仙台さんをもっと遠くにしなくちゃいけない。


 いってほしくないけれど、遠くに逃がしてしまった方が楽になれる。


 ――本当に?


 仙台さんの指先が動き、どろりとした思考の塊を溶かそうとしてきて考えがまとまらない。


「宮城、背中に手回して」


 仙台さんが私の耳に唇をくっつけるように喋る。

 くすぐったくて、小さく息を吐いてから問いかける。


「なん、で?」

「遠いから。もっと近くにいたい。宮城の側にいさせてよ」

「むり」

「じゃあ、私の服掴んでて」


 言われた通りに脇腹の辺りに手を伸ばして、服をぎゅっと掴む。仙台さんの体が近くなって熱が伝わってくる。


 服が邪魔だと思う。

 仙台さんを脱がせてしまえば良かった。

 彼女の体温は気持ちがいい。

 言えば脱いでくれたはずだと思う。


 私は掴んだ服を離して、裾から手を入れる。

 脇腹に手を滑らせると、仙台さんの体がびくりと震える。


 熱い。

 彼女の体が熱くて、手を強く押しつける。仙台さんの体温が伝わってきて、私の体の奥も熱くなる。


「葉月ってよんで」


 仙台さんが囁く。

 首を横に振って答えると、私に押しつけられている指先が催促するように動く。速度を増して、強く、撫で擦られて、漏れ出る息が熱くなる。仙台さんの指の先も、私の体の奥も、さっきよりも熱を持ち、呼吸が荒くなる。お互いの体温が混じり合い、私の体から溢れ出る。


 ドロドロとした熱の塊が仙台さんの指を汚し、私を汚す。声を出す余裕なんてなくて、唇を噛む。


 遠くに逃がしてしまいたかった体をもっと近くに引き寄せたくなる。


「一度だけでいいからよんでよ」


 喋りたくないのに、仙台さんが私を喋らせようとする。

 宮城、と仙台さんが呼ぶ。

 その声は気持ちが良くて、もっと聞きたくなる。

 宮城、とまた呼ばれて、口を開く。


「……は、づき」


 吐き出す息と声が混じって、掠れた声が出る。

 こんな声は聞かれたくない。

 でも、彼女の名前を呼びたい。


「みやぎ」


 耳元で囁かれる。

 少し高い声が私の中を駆け巡り、奥深い場所で、私の知らない私を呼び覚まそうとする。


「はづきってもっとよんで」


 仙台さんが吐息の混じった声を出す。

 耳に熱い息が吹きかかり、くすぐったい。


「みやぎ」


 声が近い。

 もっと聞きたい。

 もっと近くにいてほしい。


 仙台さんは手の届く場所にいて、私は彼女の肌に触れていて、彼女も私に触っているのに、仙台さんが足りない。息ができなくなるほど近すぎても、いなくなることを考えると怖くなる。このまま重なって、溶けて、分離できないくらい混じり合いたくなる。


「みやぎのこと、もっと知りたい。ここだけじゃなくて、ぜんぶ」


 小さな声が聞こえてくる。


「……え?」

「みやぎのだれも触れないところ、触りたい」


 滑らかに動いていた指先が今まで触れていた場所から滑り落ちて、体が硬くなる。

 なにを言われているのかは理解できた。


 時々する深いキスのような行為。

 でも、キスよりももっと深く混じり合う行為。

 私すら知らない場所を仙台さんに知られる行為。


 今していることの延長線上にそういう行為があることを知ってはいるけれど、そういうことを望まれるとは思っていなかった。


 なんて答えればいいのかわからなくて、なにも言えない。

 耐えきれなくなりそうな刺激を与え続けていた指も動かない。

 私の奥深くに潜り込みたくて止まっている。


 仙台さんの望みを叶えたら。

 今ある関係が大きく変わるのかもしれないし、なにも変わらないのかもしれない。


 よくわからない。


 ただ、私が大きく変わってしまいそうな気がする。


「……いまの聞かなかったことにして」


 仙台さんの言葉に体の力が抜ける。

 止まっていた指が静かに動いて、もとあった場所に戻る。


 さっきよりも強く押し当て、さっきの言葉を有耶無耶にするように撫でさすってくる。


 仙台さんの指に引っ張られるように感覚が鋭くなり、呼吸がさらに乱れる。彼女が触れている部分はほんの少しだけのはずなのに、どうしようもなく他人の彼女が驚くほど私に重なり、溶け込んでくる。


 体から溢れ出る熱は量を増している。

 べたべたと張り付き、仙台さんを絡め取ろうとしている。


 彼女の指は強く、弱く私を撫で続け、呼吸が短く浅くなっていく。そこがどうなっているかわかるから仙台さんを遠ざけたいのに、もっと近くにいてほしくなる。


 心臓の音がやけに大きく聞こえる。

 どくどくと耳に響く音が私の理性を崩して、粉々にする。

 仙台さんの手が私を壊していく。


 息が苦しくて、意識が滲んで思考が鈍る。

 そのくせ、感覚は鮮明になっていて仙台さんの指をはっきりと感じる。私と仙台さんの境目が曖昧になり、感情が感覚によって引き伸ばされ、拡大する。


 熱いだとか、苦しいだとか、そういうすべてが取り込まれ、一つの言葉に押し流され、集約される。仙台さんの指は、私からその言葉を引きずり出す。


 気持ちがいい。


 混じり合う体温も、溢れ出る熱も、動き続ける指も。


 ただ気持ちがいいという感情だけが私を支配する。それはこの前と同じだけれど、この前よりも遙かに大きい。私を溶かしていく仙台さんのすべてが気持ち良くて、もっとほしくなる。


 難しいことが考えられなくて、ただ彼女の名前を呼びたくなる。

 でも、声は出したくない。

 吐き出す息が作り出す音さえも聞かれたくない。

 でも、仙台さんの声は聞きたい。


「みやぎ」


 掠れた声が聞こえて、青い石を探す。

 手を伸ばして、仙台さんの顔を撫でる。

 闇に溶けて、私がつけた青い石が見つからない。

 仙台さんが私のものだという印を見つけられない。


 不安になって、どこにもいってほしくなくて、仙台さんを引き寄せる。服の中に手を差し入れて背中に回し、爪を立てる。


 これは私のもので、誰にもあげない。


 葉月と呼びたくなって、でも、声を出したくなくて、仙台さんの首筋に歯を立てる。


「もっと強くていいから、さわってよ。わたし、みやぎが、――わたしにさわるの好きだから」


 声が聞こえて、もっと強く爪を立てる。

 肉を噛みきるように首筋に歯を立て続ける。


「みやぎ」


 仙台さんが何度も私を呼ぶ。

 息が上がり、彼女の声に溺れる。

 仙台さんの指先が私を強く撫で、追い詰めていく。

 彼女に引きずれるように駆け足で、見えない階段を上る。


 息が苦しくて、体に力が入る。

 体の奥が熱くて溶ける。


 駆けて、駆けて、駆け上がって、階段がなくなって、体がふわりと宙に浮き、私は仙台さんの背中に傷ができそうなほど爪を立てた。


 そして。


 それから。


 体の力が抜けて、仙台さんの首筋から口を離す。

 手も背中から離して、呼吸を整える。


「大丈夫?」


 優しい声が聞こえてくるけれど、声を出すのが億劫で答えられない。上手く体に力を入れられなくて目を開けることもできずにいると、キスが降ってくる。


 唇に、頬に、首筋に。

 たくさんキスをされて、仙台さんの唇を噛んで抗議する。


「手、どけて」


 仙台さんの手が体にくっついたままで、落ち着かない。


「もっとしたい」

「今日はもうやだ」

「今日はってことは、次があるってこと?」

「そうじゃない」

「私はまたしたい」


 手がどかされるどころか、ピアスに唇がくっつく。

 仙台さんが、宮城、と誘うように囁く。


「うるさい」


 重い腕を動かして、仙台さんの肩を押す。

 でも、仙台さんは離れてくれない。

 体温が伝わってきて、また彼女がほしくなりそうでもう一度仙台さんを押す。


「もっと宮城に触りたいし、宮城に触られたい」

「そんなのルームメイトじゃないじゃん」

「ルームメイトだよ。だから、もっと私のことを許してよ、宮城」

「仙台さん、黙ってて」


 誘うような言葉は聞きたくない。

 この先なんて今は考えられないし、考えたくない。

 仙台さんと話をしていると、なにもかもがどうでも良くなって新しい約束をしてしまいたくなる。


「じゃあ、最後にもう一回キスしたい」

「その前に手をどけて」


 仙台さんのお腹を押すと、やっと体にくっついていた手が離れる。私はベッドと一体化しそうになっていた体を無理矢理起こして、身なりを軽く整える。常夜灯をつけて薄闇の中、ワニの背中からティッシュを引き抜き、仙台さんの隣に座って彼女のべたついた指を拭う。


 一本、二本と指からぬるついたものをすべて落とすと、仙台さんが「宮城」と私を呼んで首筋に唇をつけてくる。そして、断りもなく皮膚がぴりぴりとするくらい強く吸った。


「今の絶対に跡ついた」


 私は仙台さんを睨む。


「宮城、冬休みは勉強するから家にいるんでしょ」

「……そうだけど」

「ここならマフラーで隠れるから外にも行けるし、大丈夫」


 そう言うと、仙台さんが跡がついたであろう場所にまたキスをした。

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