第350話
「あっ」
仙台さんが本棚の前で動きを止める。
そして、「ろろちゃん」と呟いて黒猫の頭を撫でた。
お昼ご飯を食べたあと、用事があるからと私の部屋へやってきた彼女の機嫌はもともと良かったが、さらに良くなっている。
「仙台さん。ぬいぐるみがどうかした?」
「どうもしない。可愛いなって」
仙台さんが黒猫を持ち上げ、鼻先にキスをする。
黒猫が首からかけているネックレスに彼女の指先が触れ、チェーンを辿り、月を撫でる。猫は鳴かない。私も喋らずにベッドに腰をかけたまま、仙台さんをじっと見る。月を撫でた指は、黒猫の小さな手をつまみ、握手をする。
仙台さんが黒猫の持ち物に気がつくとは思っていた。
けれど、こんなにも嬉しそうな顔をするとは思っていなかった。彼女は、黒猫を宝物みたいに見つめて話しかけている。
「似合ってる」
ぬいぐるみに向けた柔らかな声が聞こえてくる。
黒猫がなにを考えているのかはわからない。
仙台さんに触れられて喜んでいるのかもしれないし、喜んでいないのかもしれない。葉月の月を身に纏った黒猫はすまし顔で仙台さんに触れられ続け、本棚に置かれる。
「仙台さんって、猫好きだよね」
「まあね」
そう言うと、仙台さんが黒猫に向かって「ろろちゃん、よろしくね」と笑う。
「……葉月」
仙台さんを呼ぶ。
その声は小さかったはずだけれど、すぐに彼女が私の隣に腰掛ける。
「志緒――」
足を蹴って聞こえてきた声を封じる。
仙台さんの胸元に手を伸ばす。
鼻先にキスはしないけれど、彼女が黒猫にしたようにネックレスに触れる。チェーンを辿り、四つ葉のクローバーを撫でる。仙台さんはなにも言わない。私は彼女の手を掴まずに、クローバーに唇をそっとつける。
仙台さんの手が私の髪を梳き、「宮城」と小さく呼ぶ。
頭のてっぺんになにかがくっつき、離れる。
顔を上げると、頬に仙台さんの唇がくっつく。
「はなれて」
彼女の肩を緩く押すとくっついていた唇が離れたけれど、今度は指先が私の唇を撫でる。その手をぺしりと叩くと、名残惜しそうに指先がプルメリアのピアスを撫でて私の膝の上に置かれた。
「宮城。今日の夕飯、外で食べない?」
仙台さんが私に肩をぶつけてくる。
「食べない」
「いいじゃん。たまには二人で外食したって」
「お祭り行くし」
「お祭りまだ先だし、少し出かけようよ」
「暑いし、やだ」
足を軽く蹴って、膝の上の手をベッドの上へ置く。
仙台さんが「けち」と呟き、「そうだ」と続けた。
「近いうちにさ、二人で浴衣見に行こうよ」
「……仙台さん。私、浴衣着ないから」
「見に行くくらいいいじゃん」
「やだ」
「じゃあ、タブレット貸して。見たいものあるし」
「見たいものって?」
「とりあえず貸しなよ」
にこやかに仙台さんが言い、私は気乗りしないままタブレットを持ってきて彼女に渡す。すると、私に隠れてなにかを画面に表示させ、「着たいのある?」とタブレットを見せてきた。
白や青。
桃に紫、黄色。
画面に色とりどりの花が咲いている。
もっと言えば、涼やかな色の浴衣に咲いている。
「ない。大体、どれも同じじゃん」
「同じってことはないでしょ。花の種類もデザインも違うし」
「そうだけど、興味ない」
画面に表示されている浴衣がすべて違うということはわかっている。朝顔だったり、向日葵だったり、私でもわかる花がデザインされている浴衣もある。でも、着たい浴衣があるかと問われると、すべてが同じに見えてくる。
こういうものには縁がないし、私には似合わない。
そんな気持ちがあるせいか、着ることを前提にすると、包み紙を剥いだ板チョコがどれも同じに見えるように浴衣の違いがわからなくなる。
「花が好きじゃないなら、花火とか金魚もあるけど見る?」
「仙台さん、一人で見れば」
「こういうのは一緒に見るから楽しいんでしょ。無理矢理着せたりしないし、少しくらい暇つぶしに付き合ってよ。誕生日プレゼントのオプションだと思ってさ」
「……見るだけならいいけど」
プレゼントにオプションをつけるつもりはないが、なにもかも駄目だというほど冷たくしたいわけじゃない。夏休みはまだ終わらないし、時間はたっぷりある。少しくらいは彼女に付き合ってもいいと思う。
私はタブレットを半分持つ。
仙台さんが画面にいろいろな浴衣を表示させていく。
色がいい。
花が可愛い。
帯のデザインが凝っている。
仙台さんの感想とともに画面が変わり、いくつもの浴衣が私の前を通り過ぎていく。たくさんの浴衣の中、ときどき仙台さんに似合いそうな浴衣が出てきて、声が出そうになる。ちらりと隣を見ると、彼女は楽しそうに浴衣を見ていて私を見ない。
面白くないけれど、彼女がなにかに興味を示している姿を見るのは楽しくもある。
「宮城、こういうの似合いそう」
仙台さんが浴衣を一つ指さす。
「仙台さんが着ればいいじゃん」
静かに言ってページをめくると、仙台さんが不満そうに「可愛くない?」と聞いてくる。
「……可愛いけど」
可愛いからこそ、着たくない。
「着るとか着ないとかは置いておいて、宮城はどういうのが好きなの?」
「浴衣、着たいと思わないもん」
嫌いなわけじゃない。
けれど、自分で着ることができないし、動きにくそうで嫌だ。
一人で着られないものを着てどこかへ行くなんて落ち着かない。変に動いて着崩れしたら厄介だと思う。
「そっか」
仙台さんが明るくも暗くもない声で言い、私をじっと見る。そして、床へ視線を落として、ベッドをぽんっと叩いてから私をまた見て言いにくそうに口を開いた。
「あのさ、宮城。……アルバム見せてって言ってもいい?」
「……なんでアルバムなんか見たいの?」
「浴衣着てる宮城が見たいなって」
アルバムには現在の私はいないけれど、過去の私が詰まっている。それはお母さんもそこにいるということで、今は開きたくない。
「アルバム、簡単に出せないところにしまってあるから」
「そっか」
「仙台さんは、子どもの頃に浴衣着た?」
意識して低くも高くもない声をだす。
「着たよ」
「どんな浴衣?」
「……お姉ちゃんとお揃いの浴衣。まだ仲が良かった頃にね」
仙台さんが少し小さな声で言う。
聞いてはいけないことを聞いてしまった。
そんなことを思ったけれど、それを打ち消すように仙台さんが笑顔を作る。そして、やけに明るい声で言葉を続けた。
「子どもの頃はさ、お姉ちゃんとお揃いの服を着たりしたし、なんでも同じことができた。でも、どんどんできなくなっていって、お揃いの服も着なくなった」
ふう、と仙台さんが息を吐く。
私は床をトンと軽く蹴って、足の先に視線をやる。
「……言いたくないことは言わなくていいと思う」
仙台さんのことをたくさん知りたいと思う。
けれど、話したくないと思っていることを無理矢理聞き出したいわけじゃない。
誰にだって言いたくないこと、知られたくないことがある。
胸の奥にそっとしまっておきたいことを暴くことは、心の柔らかい部分をかきむしるようなことで痛みを伴うことだ。
どれだけ仙台さんのことを知りたくても、そういうことをしたいとは思わない。
「大丈夫。宮城に知っておいてほしいと思ったから言った」
柔らかな声が聞こえてきて、視線を上げる。
仙台さんと目が合う。
彼女が優しく笑って私の髪に触れる。
「宮城。ここ三つ編みしてもいい?」
耳を隠している髪が軽く引っ張られ、許可を出す前に編まれていく。
「いいって言ってない」
「いいじゃん。ここ三つ編みしたら可愛いし。リボンもつけてあげようか?」
「三つ編みしなくていいし、リボンもつけなくていい。大体、なんで急に三つ編みしたいとか言いだすの」
「私の誕生日の前祝い」
にこやかに言われて、彼女の手を止められなくなる。
その結果、髪が編まれ、仙台さんが自分の髪を結んでいたゴムで留めて三つ編みが出来上がる。
「仙台さん。お祭りっていつ行くの?」
私はリボンまでつけようとしている仙台さんから出来上がった三つ編みを奪い、問いかける。
「誕生日のあとになるかな。今年は誕生日が終わっても楽しいことがあるから、お得な感じがする」
「楽しいかわかんないじゃん」
「楽しいよ、絶対。宮城、ありがと」
「まだなにもしてないし」
「なにもしてなくても嬉しいから」
そう言うと、仙台さんがもう一つ三つ編みを作り始めた。
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