第253話

 春休みは楽しい。


 この家で宮城と過ごす時間が確実に増えるし、同じ部屋でだらだらしているだけで楽しい気分になれる。もしかしたら、水族館や動物園なら一緒に行ってくれるかもしれないなんて考えると、もっと楽しくなる。


 そう思っていたけれど、澪の電話によって春休みの初日は憂鬱なものになっている。


「仙台さん、食べないの?」


 テーブルの向かい側から声が聞こえて宮城を見ると、彼女はバターとジャムを塗ったトーストを片手に私をじっと見ていた。


「え、あ、食べる」


 私の前に置かれたトーストとハムエッグという簡単な朝食は、少しも減っていない。


 宮城がトーストを囓る。私はそれを見てから目玉焼きの白身を二口食べて、バターとジャムが塗ってあるトーストを囓った。


 昨日、澪と約束した――正確にはさせられた約束を宮城に伝え、できれば澪と会うことを宮城に了承させるというミッションをクリアしなければ、私は楽しいとはかけ離れた気持ちのまま春休みを過ごすことなる。


「宮城、春休みって特に予定ないんだよね?」


 フォークで半熟の黄身を軽くつつく。


「どこにも行きたくない」

「まだなにも言ってないんだけど」

「一緒に出かけようとか言いだしそうだったから言っただけ」

「動物園とか水族館は?」

「行かない。仙台さんはどうせバイトでしょ」


 つまらない答えが返ってきて、私は目玉焼きの黄身をまたつついて破り、黄色にまみれたハムを一口食べる。


「春休みはバイトするけど、そんなにしないって言ったじゃん」


 数日前、宮城にそう伝えたし、ちゃんと伝わったはずだが、彼女の機嫌はあまり良くない。


 冬休みのように、カフェでバイトをすることになっているけれど、休みの大半がなくなるほど働くつもりはない。そして、家庭教師のバイトはもうなくなったも同然だ。桔梗ちゃんは志望校の受験が終わっていて、そろそろ結果がわかる。無事に合格していれば、私にもうすることはない。


 進学後も家庭教師を続けてほしいと言われているが、詳しいことは彼女が合格してからの話になる。


「宮城。出かけなくてもいいから、一つお願い聞いてほしいんだけど」


 本当は一緒に出かけてほしいけれど、まずはそれ以上の難題を片付けなければならない。


「……お願い?」


 内容を話す前に、宮城が眉間に皺を寄せる。

 澪とした約束は適当なことを言って誤魔化してもいいものかもしれないが、彼女の性格を考えると、今回の話をなかったことにしても、次の約束を取り付けようとしてくるに違いない。


 休みはたくさんある。ゴールデンウィークも夏休みも、ただの日曜日だって、今回の約束に成り代わることができる。


 おそらく澪の来襲は避けられないものだろうから、私はそれを早く片付けてしまいたいと思う。


「そんな嫌そうな顔しないで、とりあえず話を聞きなよ。澪がさ、ここに遊びに――」

「その日、舞香と会うから決まったら教えて。邪魔にならないように出かける」


 宮城が私の言葉を最後まで聞かずに言う。


「そうじゃなくて。澪が来る日は、宮城にもいてほしいんだけど」

「なんで? 小松さんって仙台さんの友だちでしょ」

「そうだけど、宮城に会いたいって」

「絶対やだ」


 宮城の眉間に寄った皺が深くなる。

 できれば私も眉間に皺を寄せたいけれど、意識して笑顔を作る。


「いいじゃん。半日くらいだしさ、澪に会ってよ」


 宮城に聞かせている明るい声とは裏腹に、心の中では低い声が「宮城を澪に会わせたくない」と言っている。


 春休み中に宮城が会うのは私だけでいいし、澪と仲良くする必要なんてない。澪に会いたくないという宮城の言葉を受け入れ、宮城には会えないよと澪に今すぐ伝えたいと思う。


 でも、一度我慢をすれば、これから先の大学生活が平穏なものになる。完璧ではないにしろ、そういう生活に近づく。宮城に不自然に会わせないようにすれば、澪に不信感を与え、不必要な詮索を許すことになる。


「会っても話すことないから、やだ。大体、小松さんが私に会いたいとか、なにが目的なの?」

「目的? んー、宮城と仲良くなりたいんじゃないの」


 口にした言葉はあまり気持ちの良いものではなくて、胸がむかむかする。澪に非はないが、面白くない。


 私のものにならない宮城は、澪のものになってもいけない。


 そういう可能性なんてないに等しいはずだけれど、ゼロではないから胸の奥に油をぶちまけたように気持ちが悪くなる。


 宮城は澪だけでなく、誰のものにもなってはいけない。


「宇都宮が遊びに来たときと同じだし、家にいてよ。なんでもいうこと聞くからさ」


 私は体の奥に溜まった油を押し流すようにオレンジジュースを飲む。


「それって、命令していいってこと?」

「そう」

「仙台さん、命令の安売りやめたら」

「宮城が命令じゃなくてほかのことがいいならそうするけど。なにかリクエストある?」

「ないから、小松さんとは二人で会ってよ」

「それじゃ困る。どんな交換条件出してもいいから、半日空けてよ」


 私の声を追いかけるように、カチャッとフォークがお皿に当たる音が聞こえてくる。大きな音ではなかったけれど気になって宮城の手元を見ると、付け合わせのミニトマトがフォークに突き刺さっていた。でも、彼女はそれを食べずに小さく息を吐いた。


「……じゃあ、舞香と遊びに行くときに仙台さんも来て」


 小さくも大きくもない声が耳に響く。


「宇都宮と?」

「そう。交換条件。小松さんと会う代わりに、いつでもいいから三人で出かけてよ」


 嫌だ、とは言えないし、嫌なわけではない。

 ただ、ほんの少し、なんとなく、胸がざわつくだけだ。


 これは私のつまらない嫉妬で、宇都宮は悪くないことはわかっている。そして、この提案を受け入れれば、澪との一件も片付いてすべてが丸く収まる。


「交換条件になんてしなくても、遊びに行くくらいかまわないけど」

「交換条件でいい」

「宮城がいいならいいけどさ、どこ行くの?」


 私はトーストを囓って、宮城を見る。


「決まってないけど、仙台さんに洋服選んでほしいって言ってた」


 宮城がミニトマトに恨みでもあるかのごとく、勢いよくぱくりと食べる。


「宮城の服も選んであげようか?」

「選ばなくていい」

「なんで? 可愛いの選んであげる。っていうか、私に選ばせなよ」

「別に服いらないし、可愛いのもいらない」

「宮城って可愛いって言うと嫌そうな顔するけど、可愛いの嫌い?」

「私の話はどうでもいい。今は舞香の話をしてる」


 不機嫌な声が聞こえてきて、私は大人しく話を元に戻す。


「わかってる。あとから宇都宮にどういう服がほしいか聞いておく」

「――舞香と話すの?」


 宮城が当たり前のことを低い声で聞いてくる。


「好みわからないと、選びにくいし。で、宮城はいつがいい?」

「いつって?」

「わかってるでしょ。澪と会う日」


 ハムを一口食べて、返事を待つ。

 でも、宮城は口を開かない。

 トーストを囓って、目玉焼きを全部食べても黙ったままで、「宮城、いつがいい?」と返事を催促すると、ぼそぼそとした声が聞こえてきた。


「なるべくあと」

「それっていつ? 二月の終わりとか?」

「……三月」

「わかった。澪に三月で、って言っとく。あ、あともう一つ。煮干しの日、空けといて」

「……なんでそういう言い方するの。二月十四日って言えばいいじゃん」

「高校のとき、宮城が二月十四日のこと煮干しの日って言ったんでしょ。忘れたの?」


 高校二年生のときのバレンタインデー。

 宮城に友チョコを渡そうとしたときに、そう言われたことをよく覚えている。


「そういうの、性格悪い」

「性格悪くてもいいから、空けといて」


 宮城から返事はない。

 けれど、彼女は嫌なら嫌だと言ってくるから、返事がないことは嫌ではないということで、私の春休みの予定が一つ確定した。

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