第192話

 念には念を入れて。

 宮城には、家にいるように昨日言っておいた。


 玄関のドアを開けると、宮城の靴がある。

 彼女は、夕方になった今もどこへも出かけずにちゃんと家にいるようだ。


 靴を脱いで、共用スペースへ向かう。

 予約していたケーキを取りに行って帰ってきたら、家にいなかったなんてことになったらどうしようかと思ったけれど、そういうことはなかった。今日の主役がいなければ、誕生日ケーキも浮かばれない。


 私は冷蔵庫に小さなホールケーキを入れて、宮城の部屋をノックする。


 トン、トン。


 小さく二回ドアを叩くと、宮城が部屋から顔を出す。


「ただいま」

「おかえり」

「ケーキ、買ってきたから」

「……なくても良かったのに」


 宮城が平坦な声で言う。


「約束したじゃん。宮城の誕生日は、二人で丸いケーキ全部食べようって」


 私の誕生日にしたいくつかの約束。

 その一つが、宮城の誕生日に二人で食べきれる量のホールケーキを一緒に残さずに食べるというものだ。


 今日これからその約束が守られる。


 宮城はピアスに誓わせてくれなかったけれど、私がこの約束を破ることはありえない。


 信頼を得たいから。


 そういう理由以上にこの約束は重いもので、この約束を守らない私には価値がない。ピアスに誓わせてくれなかった約束だからこそ、破ることのできないものだと強く思っている。


「本当に買ってくるとは思ってなかった」


 私の思いの大きさに比べて随分と小さな声が聞こえてきて、思わず彼女を見つめると目をそらされた。


 声は少し低かったが、機嫌が悪そうには見えない。

 どちらかと言えば無表情に近い。

 感情をどこかに置いてきたような顔をしている。


 宮城にとって誕生日はどういうものなんだろう。

 もしかすると、祝われたくない日なのかもしれない。


 そんなことが脳裏をかすめる。


「宮城との約束、破ったりしない。今日はバイトないし、友だちから急に連絡くることもないから」


 私は、頭に浮かんだ考えを否定するように宮城の手を握る。

 あの日、宮城は今日を信じていないように見えた。

 だから、私は約束を絶対に破らないと決めた。


 宮城が心配していたバイトは、もともとない日だ。友だちに急に呼び出されるようなことがあっても出かけるつもりはない。そもそもスマホはマナーモードにしてあって、音が出ないようにしてある。


「なにそれ」


 宮城の手が私から逃げだそうとして、掴んだ手に力を入れる。


「私のバイトが終わらなかったり、私が友だちに急に呼び出されたりしたらどうしようって心配してたじゃん」

「心配なんてしてないし、どうしようなんて言ってない」

「じゃあ、ケーキ喜びなよ。誕生日なんだからさ」


 たぶん、宮城は怖がっているだけだ。

 一人きりの誕生日を過ごした日々に囚われていて、そこから抜け出すことができていない。丸いケーキが冷蔵庫に残ってしまうことを、一人にされることを、この期に及んで怖がっている。


 誕生日のケーキをこんなにも喜ばない人を見たことがないから少し不安になるけれど、私はこの考えが間違っていないと自分自身を励ます。


「ケーキなくても誕生日には変わりないし」

「変わるよ。宮城の誕生日にはケーキがあった方がいいし、楽しそうにしなよ」

「……仙台さんだって、誕生日あんまり楽しそうじゃなかった」


 宮城にじっと見られて、私は八月二十三日を思い出す。

 あの日は宮城が友だちと会うと言って出かけてしまったから、楽しくはなかった。でも、それは宮城の部屋に放り込まれるまでの話で、彼女が私の誕生日を祝ってくれると知って重かった気持ちが軽くなった。


「そんなことないって」


 宮城の言葉を強く否定する。


「ある。……嬉しそうじゃなかったもん」

「宮城が誕生日になにかしてくれると思ってなかったから驚いただけで、すっごく嬉しかった」


 十九回の誕生日のうち一番嬉しかったし、喜んだ。

 そう見えなかったのなら、宮城があり得ないと思っていたことばかりするから喜びよりも驚きが全面に出ていただけだと思う。


 でも、今は私のことはどうでもいい。

 宮城の気持ちの方が大事だ。


「宮城は誕生日、お祝いされたくない?」

「……わかんない。こんな風にケーキ買ってきて、丸いケーキ全部食べようって言う人いなかったから」


 自信のなさそうな声が返ってくる。


「友だちからプレゼントもらったりすることはあったでしょ。誕生日パーティーとかしなかったの?」

「プレゼントをもらうことはあったけど……。誕生日パーティーは好きじゃない」

「なんで?」

「終わった後、なんかやだから」

「なんかって?」


 嫌だった理由。

 それはきっとホールケーキを嫌がる理由と同じで――。


「仙台さん、今日なにか手伝ってほしいって言ってたよね? なに手伝えばいいの? やるから早く言ってよ」


 質問の答えを口にしたくないのか、宮城が私の思考を遮るように早口で言う。


「あ、料理作るの手伝ってもらおうと思って」


 私は、出かける前に頼んだ“手伝い”の内容を伝える。


 誕生日に纏わる宮城の悪い記憶を掘り起こしたいわけではない。

 今日するべきことは面白くないことを話すことではないから、宮城の手を引っ張ってキッチンへ向かう。


「料理って、これから食べるもの?」

「そう。パーティーとはいかないけど、それっぽいもの作る」

「私の誕生日なのに、私も一緒に作るの変じゃない?」

「変でも想い出に残るでしょ。あと、一緒に作った方が楽しいから」

「楽しいの、仙台さんだけだと思うけど」


 面倒くさそうな声を出してはいるものの、手伝うつもりはあるようで、宮城は素直に私の後を付いてくる。

 宮城の誕生日の記憶を私との想い出で塗り替えたいと思う。

 私がいることが当たり前で、来年もその先もずっと二人で過ごす誕生日がくると信じさせたい。


「……なに作るの?」

「唐揚げ」

「仙台さん好きだよね、唐揚げ」

「定番だし、美味しいでしょ。あとは餃子の皮で一口ピザ作ったり――」


 手の込んだ料理を作るつもりはないけれど、美味しいものを作りたい。


 ホールケーキとちょっとしたご馳走。


 難しいことはしなくていい。

 今日が宮城の記憶に残れば、それでいいと思う。

 私はこれから食べる料理を作るべく冷蔵庫を開けた。

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