宮城にならしたいこと

第52話

 部屋着が入ったチェストを開けると、宮城の服が目に入った。


 それは、春休み前にサイダーまみれになった制服のかわりに彼女からもらったカットソーで、一度返そうとしたものだ。

 結局、宮城は受け取らず、私のものになっている。


 まあ、着ることはないけれど。


 私は、捨てることもできず行き場のないそれに触れる。

 返そうと思って洗濯をしたから、宮城の痕跡はない。


 一度、目を閉じてからタンクトップを手に取ってバスルームへ向かう。


 金曜の夜は、家族も早くは寝ない。二十三時を回った今も、リビングには電気がついている。私は静かに廊下を歩き、お風呂に入る。のんびりとお湯につかるよりも早く出ることを選んで、冷蔵庫からペットボトルを一本取って部屋へと戻った。


 机に置いたスマホを見る。

 いくつか来ていたメッセージに返信をしながら、ペットボトルのお茶を胃に流し込む。半分飲んだところで、スマホと一緒にベッドに寝転がった。


 今日あったことを考えるつもりはなかったが、頭に浮かぶ。


 ――宮城の前で服を脱いだこと、そして宮城に服を脱ぐことを強要したこと。


 私はスマホを枕元に置いて、大きく息を吐く。


 宮城と週に三回会うということ自体は悪いことじゃない。


 友だちとは休みの日も会いたいと思うし、遊びにも行く。親しければ、そう思うことは当然のことだ。宮城と休みに会うことも、似たようなものだと言える。


 彼女とはキスをしたことがあるけれど、それくらいは許される範囲だ。どうせ、私の唇は宮城の体に何回も触れているし、宮城も触れている。


 だから、いい。

 でも、服を脱いだり、脱がせたりすることはルールに反している。


 雨の日の選択は、間違いだったと思う。

 私の制服を脱がせようとした宮城の手を払い除け、馬鹿じゃないのと一蹴すべきだった。ルールを破った行動を受け入れたせいで、それが尾を引いている。


 ベッドの上、天井を見ながらため息をつく。


 この部屋で宮城を押し倒した私は早々に自分を呪うことになり、今も呪い続けている。そして、その呪いはじわじわと心を覆い、感情がねじ曲がりかけている。


 宮城を脱がして、触って。


 それ以上のことを考えそうになって、私はそれを打ち消した。


「マズイでしょ」


 こういう想像は、するべきじゃない。

 宮城がこの部屋に来てから頭に浮かぶことは、人には言えないようなことばかりだ。


 あのままキスしてしまえば良かっただとか。

 消えないような跡を残せば良かっただとか。

 そんなくだらないことばかりを考え続けて、今に至っている。


 こういう私はらしくない。


 私はもう少し要領が良いし、人付き合いも上手い方だ。高校に入ってからは、それなりの位置で楽しい学校生活を送っている。卒業まではこういう毎日を続けるつもりで、今ある宮城に対する感情はそれを実現するためには邪魔なものだと思う。


 別に宮城のことが嫌いなわけじゃない。

 本人に言った通り、宮城を気に入っていることに間違いはない。


 そう、それが他の人よりも少し気に入っている程度のものなら問題はなかった。実際はそうじゃない。私は考えていたよりも宮城のことを気に入っていて、彼女に向かう感情を制御できずにいる。


 だから今日、自分をあるべき自分に戻そうと試みた。


 私は、大きなため息を一つつく。


 調子の悪いスマホを再起動すれば、何事もなかったように動き出したりする。そんな風に自分を再起動すれば、良いんじゃないかと思った。


 服を脱ぐことに意味があるように振る舞うから、変な雰囲気になる。だったら、日常的なもののように振る舞えばいい。


 宮城に命令させて、学校で着替えをするみたいに何でもないことのように服を脱ぐ。


 自分を騙して、誤魔化す。

 気持ちを百八十度変えることは難しくても、そうやって折り合いをつけて整理していくことならできる。


 去年のように、つまらない命令も気に入らない命令も時間を潰すだけのもので、一週間のうちの数時間を宮城に売り渡していた私に近づけばいいだけだ。

 そう思った。


 まあ、上手くはいかなかったけれど。


 脱がせてもいいし、脱げと命令してもいい。

 用意した選択肢は二つで、宮城は考えた通り服を脱げと命令してきた。


 気持ちを隠すことには慣れている。自分の気持ちに蓋をして、上手くやり過ごすことは得意な方だ。


 だから、顔色を変えずに宮城の前で脱ぐことはできた。でも、それだけでは不十分で、理性を置いて感情だけが走り続けていた。おかげで、宮城まで脱がすことになった。


 ――今の言い方は正しくない。


 正確に言うなら、宮城を脱がしたいという気持ちを止めることができなかったということになる。結局、平気な顔をしたところで下心が消えるわけじゃないこともわかって、私には宮城にもっと触れたいという感情だけが残り続けている。


 今も後悔をしながら、宮城は柔らかかったとか、触れ合った部分が気持ちよかったとか考えているから救いようがない。思考回路はほどけないほどに絡まり、繋がってはいけない部分にアクセスし続けている。


 ずっと、私が私じゃないみたいで気持ちが悪い。


 布越しではなく、宮城に触れたい。

 今までこういう感情を誰かに向けた覚えはない。


 他の人にはしたいと思わないけれど、宮城にならしたいと思うことが増えていく。行き場のない思いは夏だというのに雪のように降り積もり、溶けずにいる。


「金曜で良かったかな」


 一日空けてすぐに宮城に会うには、今の気分は重すぎる。


 宮城に興味はあるが、あの部屋は居心地が良いと思う程度に留めておきたい。卒業したら、この家を出て県外の大学へ行くと決めているし、未来を変えるつもりはない。


 でも、清く正しい生き方をしたいわけではないから、少しくらい刺激的なことがあったっていいとは思っている。これ以上、宮城と深く関わらなければ、あの部屋で過ごす時間の上澄みを楽しむくらいは許されるはずだ。


 暴論だと思うし、支離滅裂だと思う。

 けれど、宮城のことに関しては上手く考えをまとめられない。未だに宮城のことを掴めずにいるから、考えれば考えるほど自分が何をするべきかわからなくなっていく。


 だから、ほんの少しくらいの矛盾は見逃しても良いはずだ。


 大体、宮城が変な命令ばかりするのも悪い。

 しかも、最近は変に気を遣ってくるから居心地も悪かった。


 責任を転嫁して、私は隣の部屋とこの部屋を隔てる壁を見る。


 こんなに一人の人のことを考えたのは、隣の部屋にいるあの人以来だ。両親があからさまに姉だけを可愛がるようになってからしばらくは、彼女のことばかり考えていた。


 あの頃の自分とは違うけれど、あの頃の自分を見ているようで苛々とする。


「あー、もう。夏休みなのにテンション上がんない」


 私は、スマホを手に取る。

 時計を見ると、午前一時が近かった。


 羽美奈ならいいかな。


 彼女は夜更かしで、休みならこの時間でも起きているはずだ。私は気分を変えるべく、羽美奈に電話をかける。呼び出し音が一回、二回と鳴って、五回目で夜中とは思えない明るい声が聞こえてくる。


「こんな時間に珍しいじゃん」

「眠れなくてさ。羽美奈、いま話せる?」

「電話してたら彼氏寝ちゃったし、暇してたところ」


 羽美奈にどうしてもしたい話があるわけじゃない。


 きっと、彼女も暇を潰せれば相手は誰でもいいはずだ。誰でもいいけれど、それなりに話が弾む相手と話をしたいという欲求は同じはずで、私たちは取るに足りない話を始める。


 宮城とは違う声に、少し気持ちが落ち着く。

 頭を使うこともなく思いついたことをだらだらと口にしているだけなのに、宮城と話すよりもころころと会話が転がって盛り上がっている。


 でも、楽しいかどうかは微妙だ。

 羽美奈とは先週会っているから、会話は過去をなぞるように似たような話ばかりになる。


「今年さ、葉月付き合い悪くない? 塾ってそんなに忙しいの?」


 予備校を必ず塾と言う羽美奈が不満を隠さずに言う。

 去年は今の倍は会っていたから、文句を言われても仕方がない。


「まあね。結構、予定詰まってて」


 予備校が忙しいというのは本当で、夏休みの予定をほぼ奪っている。そこに宮城の家へ行くという予定も入っているから、もっと忙しい。


 羽美奈は、あそこに行きたい、ここにも行きたいと希望を述べて、スマホの向こうで予定を空けろと言っている。私は、実際に予定を空けるかどうかは別にしてわかったと答える。すると、機嫌を直した羽美奈が思い出したように言った。


「そうだ。宿題、終わった?」

「ほとんど終わってる」

「じゃあさ、写させてよ」

「いいよ。明日、行こうか?」

「あ、じゃあ、ついでに行きたいところがあるから」


 羽美奈が宿題の方がついでになりそうな場所を口にする。


 会いたいわけではない。

 去年なら、もう少し楽しい気分になれたと思う。


 気が乗らない。

 でも、誰かと会っていた方が気が紛れそうで、私は羽美奈と会う約束をした。

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