第186話

 ただいまとおかえり。

 共用スペースでいつものやり取りをして、私はテーブルの上にそれほど大きくない袋を置く。


「これ、プリン。仙台さんの分もある」

「宇都宮から?」


 一人で夕飯を食べていた仙台さんが茶碗を置いて私を見る。


「違う。私が買ってきた」

「宮城が?」

「悪い?」

「悪くないけど……」


 舞香と休み中に遊びに行く予定は早々に消化されることになり、あれから一週間もしない今日、二人で映画を観て食事もしてきた。ついでに舞香と見て回ったお店で美味しいと評判のプリンを買ってきたけれど、仙台さんにとって食べたいものではなかったのかもしれない。


「冷蔵庫に入れておくから、食べたくなったら食べれば」

「ありがと」


 いつもなら「あとから一緒に食べようよ」くらい言うはずなのに、今日はなにも言わない。あまり機嫌が良くないのかもしれないと思う。朝はいつもと変わらない仙台さんだったけれど、出かけている間になにかあったのかもしれない。


 私は買ってきたプリンを冷蔵庫に入れて、部屋に戻ることにする。でも、ドアを開ける前に声をかけられた。


「ここにいなよ」


 平坦な声に振り向いて「なんで?」と尋ねる。


「もうすぐ食べ終わるから」


 私は、彼女の前に置かれた三毛猫の箸置きを見る。

 誕生日の翌日、ドアノブにかけたそれは毎日使われている。

 それでも、箸置きなんてなくてもいいものだし、他のものにすれば良かったのかもしれないと思う。


「じゃあ、食べ終わったら声かけてよ」


 ほんの少しの後悔とともに仙台さんに背を向けようとすると、箸が箸置きにかちゃりと置かれた。


「食べ終わった。ごちそうさま」


 そう言うと、仙台さんが食器を洗い始める。

 水が流れる音。

 食器が立てる音。

 いくつかの音が混じり合うけれど、仙台さんの声は聞こえない。人を呼び止めておきながら黙々と食器を洗っているから、部屋へ戻るか迷う。


 ドアに背中を預けて、ドアノブに触れる。

 頭の中に、仙台さんが言った「ここにいなよ」という声が残っている。私は結局、ドアに寄りかかったまま彼女に声をかける。


「人にここにいろって言ったなら喋ってよ。くだらない話するんじゃなかったの?」


 誕生日にした約束を口にすると、感情のない声が聞こえてくる。


「映画観に行くって言ってたけど、なに観てきたの?」

「仙台さんが観なさそうなもの」

「面白かった?」

「あんまり。舞香も期待外れだったって言ってた」

「そう」


 気のない返事が聞こえてきて苛立つ。

 誰でもするような普通の話をしたいと言ったのは仙台さんなのだから、もう少し私に興味を持つべきだ。適当にされるのなら、なにも話したくない。


「部屋に戻るから」


 仙台さんの背中に声をぶつけて、床を蹴る。


「ごめん。食器洗ってると、水の音で声がよく聞こえなくて。もう終わるから、座って待っててよ」


 聞こえないというわりにすぐに慌てたような声が聞こえてくるけれど、返事はしない。黙っていると、仙台さんが振り向いて「あと五分だから」と時間を区切った。


「じゃあ、五分だけ」


 随分長く食器を洗っているなと思いながらも宣言して、時計を確認せずに椅子に座る。

 時間を計ったところで、五分を過ぎたらもう一分とか、二分とか言われるに違いない。


「仙台さん、プリンは?」


 何分経ったかわからないけれど、声をかける。


「あとから食べる」

「そうじゃなくて、好きか嫌いのどっち?」


 過去に一緒に食べたことがあるから、嫌いではないだろうと思う。


「宮城は?」


 食器を洗い終えた仙台さんが私の前へやってくる。


「嫌いなもの買ってこない」

「私もプリン好きだよ」


 仙台さんがにこりと笑う。


 気に入らない。


 私に興味がなさそうだったことも、五分待たせたことも、笑顔でなかったことにしようとしているみたいで面白くない。

 立ち上がって仙台さんの腕を左手で掴む。

 右手の親指を唇の端に押しつけると、宮城、と呼ばれた。


「噛むなら、唇以外にしなよ」

「噛むって言ってないけど」

「言ってないけど、噛むんでしょ?」


 彼女の言葉は正しいけれど、決めつけられるとそうだとは言いたくない。私は答えずに掴んだ腕を離す。


「唇は痛すぎるし、他の場所にしなよ。少しくらい跡残ってもいいし」


 そう言うと、仙台さんが私の手を握ってくる。


「なにもしないし、離してよ」

「しないの?」

「しない」


 仙台さんの目を見て、はっきりと答える。

 でも、握られた手は離されない。それどころか、仙台さんの方から顔を近づけてきて私の唇にキスをしてくる。

 彼女の唇は触れただけで、すぐに離れる。

 そして、また触れて、私は彼女の唇を軽く噛んだ。


「痛い」


 唇を離すと、仙台さんが大げさに言って私を見た。


「痛くなるほど噛んでない」

「痛かった」


 私はわざとらしく唇を撫でる仙台さんの首筋に顔を寄せて、歯を立てる。今度は軽くではなく、跡が残るように強く噛む。


「宮城。それ、本当に痛いから」


 聞こえてくる声には答えずに強く歯を立て続けていると、仙台さんが私の腕を掴んでくる。柔らかな肉を噛みちぎるように歯を皮膚に埋める。唇が首筋に張りつき、体温が伝わってくる。上顎と下顎に力を入れると、連動するように腕に張りついている仙台さんの手にも力がこもる。


 痛いほど腕を掴まれて首筋から顔を離すと、仙台さんが私の腕から手を離さずに言った。


「こんなに強く噛んでいいとは言ってないんだけど」

「跡つけてもいいって言ったの、仙台さんじゃん」

「限度ってものがあるでしょ」

「限度があるなら、最初から言ってよ」


 仙台さんが小さく息を吐き出し、私の腕を離して首筋を撫でる。

 噛んだ跡に指が這う。

 ゆっくりと何度も往復する指を見ていると、また彼女の首筋に歯を立てたくなる。でも、もう一度噛みつく前に仙台さんが話しだす。


「宮城、夏休み残り少ないけど楽しかった?」

「急になに?」

「楽しかったときは教えてって話、覚えてる?」


 水族館の帰り道、そういう話をした記憶が残っている。

 私は細く息を吐き出してから、過去にした約束を守る。


「……まあまあ楽しかった」


 今年の夏休みは今までの夏休みとは違った。

 長い休みは今まで長い時間を一人で過ごすものだったけれど、今年は仙台さんがいたから一人になる時間があまりなかった。去年の夏休みも仙台さんと会ってはいたが、あれは週に三回だ。今年のように一緒に住んでいるわけではなかった。


 彼女以外の人とこうして過ごせるとは思わないけれど、長い休みにずっと誰かがいる生活は悪くないと思う。


「じゃあ、宮城。今からお泊まり会しよう」


 仙台さんがにこやかに脈絡のないことを言ってくるが、どうしたら「じゃあ」から「お泊まり会」に辿り着くのかまったくわからない。そもそも私たちにお泊まり会は必要ない。


「同じ家に住んでるのに?」

「同じ家に住んでるけど、同じ部屋で寝てるわけじゃないでしょ」

「そうだけど」

「楽しい夏休みの仕上げ。くだらないことを話して親交を深めようよ。宮城の部屋で」

「待って。なんで私の部屋なの」


 当然のことのような顔をしている仙台さんを睨む。

 誕生日以降、彼女を何度か部屋に入れているし、それ自体には問題はないけれど、お泊まり会という名目でとなると話は別だ。それに、まだお泊まり会に同意はしていない。


「私の部屋にはもう泊まったでしょ。今度は宮城の部屋に泊めてよ」

「やだ」

「いいじゃん。お泊まり会しようよ」

「仙台さん、絶対に変なことするつもりでしょ」

「待つって言ったの、覚えてない? キス以上のことは宮城がいいって言うまでしないから」

「信用できない」

「ピアスに誓う」


 誓えばいいなんて言っていないのに、仙台さんが手を伸ばして私の耳に触れる。そして、ピアスの上にキスをする。


「宮城がいいって言うまで待つ」


 ピアスに誓われた約束は守られる。

 わかってはいるけれど、仙台さんの理性を信用していいのか迷う。


「宮城。そんなに気になるなら、徹夜しなよ」

「徹夜?」

「映画かなんか観ながら朝まで起きてたらベッドに行かなくていいし、そういうことにならないでしょ」

「……仙台さん、私のベッドに寝るつもりだったの?」

「宮城だって私のベッドで寝たじゃん」

「狭い。泊まるなら、自分の布団持ってきてよ」

「面倒だし、二人で寝ればいいでしょ。寝たくないなら起きてればいいし。ってことで、決まりね」


 仙台さんが話を打ち切るようにぱんっと手を叩く。

 私は自分の部屋のドアを見る。

 今はそれほど眠くはない。

 一晩くらい寝なくても平気だ。

 私は徹夜をすることに決めて、仙台さんの提案を受け入れた。

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