第58話

「これでいい?」


 仙台さんが口元だけで笑って、私を見る。


 面白いと思う映画が違う。


 そんなことは舞香たちともよくあることだから、仙台さんと映画の好みが違うことはたいした問題じゃない。


 問題は、彼女の態度だ。

 笑顔が張り付いたままの仙台さんは、どこかよそよそしく感じる。


「やっぱり、私と仙台さんは友だちにはなれないと思う」


 今日、ずっと心の中に漂っていた言葉を捕まえて口にする。


 彼女と一緒に友だちとするようなことをすれば、友だちにはなれなくても崩れかけている関係を立て直せるかもしれないと思ったけれど、そんなものは気のせいだった。


 友だちであろうとする仙台さんといても楽しくないし、そういう仙台さんとは一緒にいたくない。そして、そんな彼女といることを選んでまで、ねじれかけた関係を元に戻したいとは思えなかった。けれど、彼女は無駄な努力を続ける。


「半日も経ってないのに結果出すんだ」


 穏やかに言って、仙台さんが麦茶を飲む。


「こんなこと何時間続けても変わらないでしょ」

「なにが気に入らないわけ?」

「なにもかも。今の仙台さん、気持ち悪い」

「そこまで言わなくてもいいでしょ」


 最後に、はあ、と大きなため息をついて、仙台さんがグラスをテーブルに置いた。


「宮城が友だちごっこしたいって言うから、リクエストに応えただけなのに」

「リクエストしたわけじゃない」

「映画行こうって誘ってきたんだから、リクエストしたようなものでしょ」

「でも、最初に映画でも観に行こうかって言ったのは仙台さんだから」

「宮城も観に行くって言ったじゃん」


 恨みがましい口調でそう言うと、仙台さんがベッドに寝転がる。大の字とまではいかないけれど、行儀は良くない。スカートが皺になりそうで気になる。


「仙台さん、人のベッドの上でゴロゴロしないで。スカートめくれるよ」

「宮城が変なことしなければめくれたりしないから」


 やる気のなさそうな返事が聞こえて、ベッドからはみ出した腕が私にごつんと当たる。邪魔だと言っても、肩に触れているそれは動かない。私は、力の抜けた腕を捕まえる。


 ノースリーブのシャツから見える腕は驚くほど日に焼けていなくて、炎天下、週に三回歩いて私の部屋まで来ているとは思えない。白くて綺麗な腕の先を見ると、目立たないけれど爪がネイルで飾られていた。


 体に触れたら、いつものように文句を言ってきたり、不機嫌な顔をするのか気になって、仙台さんの肩に手を置く。指先で二の腕から手首まで辿って彼女を見る。けれど、仙台さんはなにも言わないし、やる気がなさそうな顔をしたままだ。


 手首よりもほんの少し上に顔を寄せる。

 そのまま唇をつけると、頭を押された。


「変なことするなって言ったの、宮城だからね」


 仙台さんが機嫌の悪そうな声を出して、私を睨む。

 その姿に、やっと私の知っている仙台さんと会えたと思う。


 やっぱり、こういう仙台さんの方がいい。


 そう感じたことは間違いないはずなのに、不機嫌な彼女を見ていると、針で刺されたようなちくりとした痛みが体に広がって、縋るように腕を掴んだままの指に力を入れた。


「ちょっと触るくらいいいでしょ」


 声色を変えないように話しかける。


「触るっていうか、キスでしょ。今のは。宮城は友だちにこういうことするわけ」

「友だちにはしないけど、仙台さんは友だちじゃないから。それに、友だちごっこはもう終わってる」


 すぐ側にいて、休みの日も会って。


 週に何度かどうでもいい話をする私たちは、友だちになってもおかしくなかった。でも、始まりが良くなかったのか、それともこれまでの時間が間違っていたのか、仙台さんを友だちと呼ぶ世界はやってこない。


 私は、仙台さんの腕にもう一度唇を寄せる。けれど、今度は唇が触れる前に髪を引っ張られた。


「あのさ、友だちじゃないなら、なにをしてもいいってわけじゃないから」


 強い口調で言ってから、仙台さんが私のおでこをぺしんと叩く。穏やかで優しげだった彼女はどこに消えたのか、欠片も見えない。


「仙台さんがなにをしてもいいって言えば、問題ないと思うけど」


 問題がない、なんて嘘だ。


 こういうことを積み重ねていても、良いことはない。そんなことはわかっているけれど、仙台さんに触れたいという欲求に逆らうことができない。


 そもそも、大人しく仙台さんが自分の家へ帰っていればこんなことにはならなかった。当たり前のように私の部屋にいるから、こんなことになる。


 私はため息をつくかわりに、彼女の腕に歯を立てる。


「宮城、痛い」


 それほど強くは噛んでいない。

 けれど、仙台さんは大げさに痛がってから「なにしてもいいって言ってない」と付け加えた。


「じゃあ、早くいいって言いなよ」

「今日は宮城に命令する権利ないから」


 面倒くさそうに言って、仙台さんが体を起こす。そして、ベッドを椅子代わりにして座ると、噛み跡をいたわるように撫でた。


「権利があればいいんだ?」


 命令をする権利も、こういう仙台さんを手に入れる方法も、私は知っている。だから、立ち上がって鞄から財布を出して、五千円札を仙台さんの前に出す。


「これならいいでしょ。私の命令ききなよ」

「五千円渡せば、なんでも解決するわけじゃないから。それに、五千円はもうもらってる」

「それは家庭教師の分。これは、今からする命令の分だから受け取って」


 納得しようとしない彼女に五千円を無理矢理渡そうとするけれど、受け取らない。それどころか、私の足を蹴って「いらない」とはっきりとした声で言った。


 私は行き場のない五千円をベッドの上に置いて、隣に座る。


「仙台さん。私のいうこと、きいて」


 これはルールにない行動だから、断ることもできる。実際、仙台さんは五千円を受け取らない。ベッドの上の五千円は、私と仙台さんに挟まれて窮屈そうに横たわり続けている。


 無理かもしれない。


 諦めて五千円に手を伸ばすと、仙台さんがこれ見よがしに大きく息を吐き出して、とん、と床を蹴った。


「――なにしてもいいわけじゃないけど、そんなに触りたいなら触れば」


 諦めたように言って、私の方を向く。

 触っても許される場所と許される触り方は、指定されない。


 私は、静かに彼女の頬に触れる。


 駄目だとか、嫌だとかいう声は聞こえてこない。指先で顎まで撫でて、同じように唇に触れる。顔を近づけてみても文句を言ってくるようなことはなかったから、私はそのまま唇を重ねた。


 でも、軽く触れただけで、すぐに離れる。重なった唇の柔らかさも熱もわからないまま仙台さんを見ると、不満そうな声が聞こえてきた。


「これ、触るって言わないと思うんだけど」

「手だけで触るなんて言ってない」

「ほんと、むかつく」


 口調は怒っているともとれるものだったけれど、仙台さんは座ったまま動かない。私から逃げることもなく、ベッドに座り続けている。

 だから、私は仙台さんにもう一度唇で触れた。


 彼女は友だちじゃないから、キスしたってかまわない。


 詭弁かもしれないけれど、仙台さんだって私に何度かキスしているのだから文句を言えないと思う。それに、嫌なら逃げればいい。


 私はさっきよりも強く唇を重ねて、彼女の唇の感触を確かめる。

 誰よりも近くにいる仙台さんの唇は、数日前と同じように柔らかい。


 唇と唇をくっつける。


 こんな単純なことがどうして気持ち良いのかはわからない。そして、もっと触れたくて、仙台さんにもっと近づきたくなる。


 あともう少し。


 仙台さんの手を掴んで、唇をもっとくっつける。柔らかさよりも熱を感じて唇を離すと、枕で頭を叩かれた。


「これ、私からはしちゃ駄目なの?」


 枕を抱えて、仙台さんが私を見る。


「仙台さん、余計なことするから駄目」


 ただキスをするだけならいいけれど、仙台さんはそうじゃない。命令したって、命令以上のことをしようとする。


 そもそも、仙台さんはそんな余計なことを私に尋ねるべきじゃない。

 彼女がしなければいけないことは、私を拒否することだ。


 残り少ない夏休みを平穏に過ごしたいのなら、そうするべきだと思う。でも、仙台さんはキスすることが日常の一部に組み込まれているみたいに言った。


「余計なことしないならいいんだ」

「今日は駄目」

「今日じゃなければ良い日もあるってこと?」

「仙台さん、うるさい」


 ごちゃごちゃといらないことばかり言う仙台さんの口を塞ぐように、顔を寄せる。


 仙台さんが「宮城」と私を呼ぶ。

 けれど、私は返事をせずにキスをした。

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