宮城を確かめたい

第130話

 あれから。

 私が宮城の耳にピアスをつけた日から、彼女は私の部屋に来るようになった。――と言っても、まだ二回だけだけれど。


 一回目は私が漫画を貸してと頼んだときで、宮城がこの部屋まで持ってきてすぐに戻っていった。二回目は今日で、夕飯を食べているときに辞書を貸してといったら部屋まで持ってきてくれた。


 辞書は、私の部屋にもある。

 わざわざ借りる必要はなかったけれど、宮城がまた部屋まで持ってきてくれるのか試したかった。宮城も辞書がただの口実でしかないことに気がついていたと思う。それでも彼女は私の部屋に来て、今、隣に座っている。


 ゴールデンウィークに入って暇なのかもしれない。

 連休中、どこか空けておいてと頼んだからなのかもしれない。


 なにが理由なのかよくわからないけれど、とにかく宮城は隣にちょこんと座って私に貸した漫画を読んでいる。


 私は読んでいた漫画を閉じて、カモノハシの手を握る。

 長い間、私の定位置は宮城の隣で、宮城の定位置は私の隣だったのに少し落ち着かない。ここに来てから距離があったせいだと思う。


 なにか話していれば気が紛れそうだけれど、話すことが見つからない。宮城は漫画を読んでいるから、無理になにかを話す必要はない。話したらうるさいと言われそうでもある。黙っている方がいいことはわかっているが、隣に宮城がいるなら話をしたい。


 カモノハシの手を離して、もう一度握る。

 体温のない手は、小さくてふわふわしていて頼りない。


 共用スペースから私の部屋に引っ越すことを余儀なくされたカモノハシは、これからも宮城がこの部屋に来るというメッセージのようなものだったのかもしれないと思う。そうじゃなければ、私の部屋のティッシュ箱にカバーがついていてもいなくても関係がないはずだ。でも、どうして宮城がこの部屋に来ることを選んだのかわからない。


 私はカモノハシの手をむにゅむにゅと握り続ける。


「仙台さん、それ気に入ったの?」


 ずっと静かだった隣から声が聞こえてカモノハシから宮城に視線を移すと、漫画を読んでいたはずの彼女が私を見ていた。


「それって?」

「カモノハシ。さっきからずっと触ってるから、気に入ったのかと思って」

「まあ、それなりに」


 そう答えて、カモノハシの頭をぽんぽんと叩く。宮城にティッシュカバーで遊んでいたところを見られたことが気になっているわけではないが、手の行き場がなくなって読みかけだった漫画を開く。ベッドを背もたれにして寄りかかる。一ページ、二ページとページをめくって、五ページ目。宮城の声が聞こえてくる。


「……家庭教師のバイトっていつから?」


 私は開いたばかりの漫画を閉じて、隣を見る。

 先輩から家庭教師について話を聞いて、私はその場でバイトをすると決めた。


「連休明けからって話。宮城はバイトしないの?」

「しない」

「サークルにでも入るつもり?」

「興味ない。仙台さんこそサークルとか入らないの?」

「入らない。他のことに時間使いたいし」


 大学に入ってからできた友だちは、口を揃えてあのサークルがいいだとか、このサークルがいいだとか言っていた。大学という言葉とセット販売されているみたいによく耳にした。葉月はどうするのと聞かれたこともある。けれど私は、交友関係を広げたいわけでもないし、集まってまでしたいこともない。それよりもバイトに時間を使う方が有意義だ。宮城が家にいるなら、一緒にご飯を食べるために時間を使いたいとも思う。


「仙台さんって大学入ったら、サークル入ったり、合コンしたりとか、いかにもって感じの大学生やるのかと思ってた」

「私、そういうタイプに見える?」

「見える。ゴールデンウィークも遊んでそう」


 冗談ではないらしく、宮城が真面目な顔で言う。


「遊ばない。家にいる」

「なんで家にいるの?」

「なんでって。……なんでだろうね」


 宮城がいるから家にいる。


 それだけのことだけれど、改めて考えるとその答えはおかしい。私と宮城は一緒に出かけるような仲でもないし、積極的に時間を共有する仲でもない。私が一方的に一緒に出かけたいと思っていたり、時間を共有したいと思っているだけだ。宮城はそういう私にときどきあわせてくれている。


 私は吐き出しかけたため息を飲み込む。

 連休中、一度くらいは友だちと遊びに行ってもいいのかもしれない。


「宮城は予定ないの?」


 連休中、空いている日がある。

 私は、それくらいしか宮城の予定を知らない。


「舞香と出かける」


 やっぱり。

 予想通りの答えが返ってきて、今度は飲み込めなかったため息が出る。


「じゃあ、私とも出かけようよ」

「舞香と行くからいい。大体、仙台さんと趣味あわないじゃん」


 この間、私とは絶対に出かけたくないと言った宮城があっさりと言う。


 宇都宮となら出かけるが、私とは出かけたくない。


 こういう返事は気分が悪い。

 面白くないし、胃がむかむかする。


「そうだけど」


 趣味は合わないが、一緒に見たいものくらいある。


 今は髪で隠れて見えないけれど、宮城は私がつけたピアスをしている。けれど、そのピアスは私が選んだものではない。できることなら、私が選んだピアスをしてほしいと思う。私に約束を思い出させるためのものなら、私が選んだピアスがいい。宮城にもっと似合うピアスを一緒に探しに行きたいと思う。


 でも、絶対に一緒にピアスを見に行ったりしてくれないことも知っている。


「宮城、誕生日っていつ?」


 誕生日にプレゼントをしても受け取ってくれないだろうけれど、聞いてみる。


「突然なに?」

「誕生日知らなかったなと思って」

「九月」

「それは前に聞いた。何日?」


 ペンダントをもらったとき、宮城の誕生日が九月だということを知った。でも、それ以上のことは知らない。


「……今は言いたくない」


 嫌な予感でもするのか、宮城が眉間に皺を寄せる。


「じゃあ、そのうち教えてよ」

「気が向いたら」


 素っ気なく言って、宮城が漫画に視線を落とす。

 当然のように隣に座ったくせに冷たいと思う。


「ピアスってさ、宮城が選んだの?」

「舞香と一緒に買いに行った」


 今日の宮城からはつまらない情報しかでてこない。

 話をしたいと思っていたが、したかったのはもっと楽しい話だ。知りたくなかったことを聞くために宮城と話をしているわけではない。


「髪、耳にかけなよ」


 漫画から顔を上げない宮城の髪を引っ張る。


「なんで」

「ピアス見えないから」

「見せる必要ないし」

「私に見せるためにしたんでしょ、ピアス」

「今はなにも約束してない」

「ゴールデンウィークは宮城となにかするって約束したじゃん」


 あれはたぶん、ピアスで縛るような約束ではない。

 でも、ピアスをしているか確かめたい。


 ピアスホールが安定するまではピアスを外したりしないから、今もつけているはずだと思っている。それでも宮城の耳に、私が開けた穴に、ピアスがついているところを見たいと思う。

 まだ高校生だった頃、宮城がペンダントを確かめたがった気持ちがわかる。私も同じように宮城のピアスを確かめたい。


「ピアス、見せてよ」


 宮城の右耳に手を伸ばす。文句を言いたそうな顔をしているけれど、宮城は逃げない。私は彼女の黒い髪を耳にかける。


 銀色のピアスが目に映る。


 私がつけたそれは、宮城が私のものだという印に見える。そういう類いのものではないとわかっているが、宮城が私にピアスホールを開けるように頼んできたことと、私が自分の手で宮城の耳に穴を開けてピアスをつけたことが重なって、特別なものだと感じてしまう。


 ピアスに触れたいけれど、穴を開けたばかりのそこに触れるのはまだ良くないだろうから触れない。


「もういいでしょ」


 宮城が耳にかけた髪を戻そうとして、私はその手を掴む。そして、ピアスをつけた日のように耳に唇をつける。


 宮城だって、似たようなことを私にした。

 ペンダントにキスをしてきたし、何度も触ってきた。


「仙台さんっ」


 宮城の声が近くで聞こえる。

 ピアスに触れないように舌を這わせる。

 少し冷たくて少し硬い。

 私の体温を移すように舌を押しつける。


 宮城の肩が小さく震える。

 いつの間に掴んだのか、彼女の手が私の腕を強く握る。


 耳にもう一度キスをする。

 一回、二回。

 三回目はピアスの上にキスをした。


「そこ、痛いからやだ」


 宮城が私を押す。

 大人しく離れて顔を見ると、さして痛そうにしていない。


「痛くないところにするから」


 耳の上の方に唇で軽く触れる。

 宮城がまた私を押してくる。


「仙台さん、離れてよ」


 唇を強く押しつけて、嫌だ、という意思を伝えると、宮城の手が顎の辺りに触れた。そして、そのまま強く押されて体が少し離れる。乱暴な手を捕まえて文句を言おうとすると、宮城に引き寄せられて耳たぶが熱くなった。


 痛い。

 とても。


 硬いもので耳たぶが挟まれている。

 それは宮城の歯で、要するに私は噛みつかれている。


 大体、宮城はこういうときに手加減をしない。今も思い切り歯を立てられていて、耳が痛くて熱い。私のしたことに対する抗議にしては手荒すぎる。耳が食いちぎられても驚かない。


 感覚がなくなってくる。

 宮城がしたように、彼女を押し離すべきだと思う。


 わかっている。

 私はおかしい。


 宮城の背中に腕を回す。

 彼女を引き寄せて抱きしめる。

 耳を挟み込んでいたものが消えて、痛みが消える。


 腕の中には宮城がいる。とても、すごく、近い場所にいる。体のくっついた部分から体温が流れ込んでくるから、もっと近づきたくなる。けれど、今以上には近づけない。彼女の方から離れていく。


「なんなの。もっと噛んでほしいってこと?」


 怒ったように宮城が言う。


「そうだって言ったら?」

「やっぱり仙台さんって変態でしょ」


 これ以上押す必要がないのに、宮城が私の肩を押して距離を取る。そして、カモノハシの背中からティッシュを一枚取って自分の耳を拭った。


「仙台さんも耳、拭いて」


 宮城が私にカモノハシを押しつけてくる。

 私の耳まで気にしてくれるのは嬉しいけれど、気にするくらいなら噛まないでほしいと思う。


 私は感覚が半分くらいになった耳に手をやりかけて、ティッシュを一枚引き抜く。苦情は受け付けないだろうから、本人には言わずに大人しく耳を拭う。


「休み中、なにかするってなにするの?」


 ぼそりと宮城が聞いてくる。

 すぐに部屋に戻ってしまうかと思ったけれど、彼女は隣に座り続けている。けれど、私の方は向かない。


「宮城はなにしたい?」

「それ」


 そう言って、宮城がテーブルの上を指さした。


「タブレット?」


 引っ越し前にはあったものがない部屋には、今までなかったものがあったりもする。その一つがテーブルの上にあるタブレットで、テレビのない部屋でテレビの代わりになっている。


「そう。それで映画かなんか見たい」


 悪くないと思う。

 というよりも、どこにも出かけずにできることはそれくらいしか思いつかない。


「私の部屋でいい?」

「いいけど、変なことするのなしだから」

「しないって」

「さっきしたじゃん」

「しないって約束する」


 断言すると、宮城が私の方を向いた。

 もう一度、宮城の耳に髪をかけてピアスを見る。


 ピアスは、宮城という人間の形を私が変えた証だ。


 それはほんの少しの変化で、小さなアクセサリーを付け加えただけのことで、気がつかない人もいるかもしれない変化だ。それでも、私にとってそれはとても印象的な出来事だった。


 私という存在が宮城の形に影響を与えた。

 ずっと残る形で。

 どんな約束だって忘れるわけがない。


「約束、破らないでよ」

「大丈夫。破らない」


 私はピアスに軽く触れてから、宮城の耳を髪で隠してしまう。

 約束を記憶させるだけなら、紙に書いて渡したり、私の部屋のドアに張っておくことだってできたのに、宮城はそうせずにわざわざピアスに紐付けるという方法を選んだ。だから、破らない。


 でも、ルールを破ってまたなにか命じられたくもある。


 絶対にこんなことを考えているなんて宮城には言わないけれど。

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