第132話

 真夜中、宮城につけられた跡を見る。

 鏡に赤い色がはっきりと映っている。


 今日つけられたものが今日消えるわけがない。


 テーブルの上に手鏡を置いて、ベッドに寄りかかる。

 コンシーラーやファンデーションを使えば、目立たなくすることはできる。けれど、家にいるならわざわざ隠す必要がなくなる。


「……家にいるしかないか。つまんないけど」


 家でしたいこともしなければならないこともないけれど、宮城がつけた跡を気にしながら出かけるのも面倒だ。


 まだ友だちとは約束していない。

 一緒に出かけてもいいかなと思っただけだ。行きたい場所があるわけではないし、行かなければならない場所があるわけでもない。連休が終わって大学に行けば嫌でも会える。

 家でだらだらと過ごすことも悪いことではない。


 宮城にされたことを考えるとすっきりしないけれど。


 高校時代から、私ばかりが酷いことをされている気がする。


 たとえば、切ったレモンをキスマークの上にのせたら早く消えるかどうか試すために腕にキスマークをつけられたり。

 たとえば、雨に濡れた制服のボタンを外されて胸元にキスマークをつけられたり。


 いつだって宮城はろくなことをしない。

 それでも私は宮城と暮らすことを選んでここにいる。きっと去年の私に今の状況を説明しても信じないだろう。


 私は手のひらで宮城がつけた跡をぎゅっと押す。

 宮城は手加減という言葉とは無縁の存在に見えるが、それでも最初の頃はまだ遠慮があったように思える。今は躊躇いがない。


 私はベッドから背中を離して膝を抱える。

 視線がテーブルの下でぺたりと伸びているカモノハシにいく。


 ティッシュを背中から生やしているそれは、二人で使うものとして買ったものだけれど宮城のもののように思える。おそらく宮城の部屋にあるワニのティッシュカバーに似ているからで、私はそういうものが部屋にあることを自然に受け入れている。昔は部屋に宮城の物が増えていくことが重荷になっていたけれど、今はチェストの中にしまってある宮城の制服もカットソーも私の部屋を構成するものだと思える。


 私は立ち上がって、チェストの上からアクセサリーケースを持ってくる。テーブルの上に置いて、宮城からもらったペンダントを取り出す。

 卒業式があった日、封筒と引き換えに私の手元に残ったペンダントはあれからずっとしていない。


 このペンダントをしていたときのように宮城に触れたいと思う。

 映画を観ている宮城にキスしてしまえば良かったと思う。


 私は、銀色のチェーンを指にかける。

 月の形をした小さな飾りが目に映る。

 チェーンを指先で確かめて、小さな飾りをぎゅっと握りしめる。

 あの頃に戻りたいわけではないが、あの頃の自分が羨ましく思える。


 私はカモノハシを引き寄せてペンダントを頭の上にのせる。ベッドにごろりと横になって、壁をこつんと叩く。

 大きな音を立てたわけではないから返事はないが、隣から物音がする。しんと静まり返った真夜中、耳を澄まさなくてもそれが扉を開ける音だとわかった。


 ベッドから体を起こす。

 共用スペースへ行くか迷う。

 話があるわけではない。


 どうしようかと一分ほど考えてから立ち上がる。スウェットを導入して良かったと思う。気軽に共用スペースへ出られる。


 ドアを開けると電気がついていて、冷蔵庫の前に立っている宮城が見えた。宮城は見覚えのあるスウェット、と言うより、冬休みに彼女の家に泊まったときに私が借りたスウェットを着ている。


「寝ないの?」


 テーブルの手前から話しかけると、「寝るけど、喉渇いたから」と素っ気ない声が返ってくる。宮城が冷蔵庫からサイダーを取り出す。グラスに注いで、三分の一ほど透明な液体を飲む。


「仙台さんは寝ないの?」


 宮城がグラスを片手に私を見る。


「私もなにか飲もうかなって」


 共用スペースへ出てきた理由になりそうなものを口にする。


「オレンジジュース出そうか?」

「んー、宮城が飲んでるヤツでいいや。一口ちょうだい」

「サイダーだけど」

「見たらわかる」

「……じゃあ、残り全部あげる」


 そう言うと宮城が私のところまでやってきて、グラスを渡してくる。


「そんなにいらないんだけど」


 喉が渇いているわけでもなければ、炭酸が好きなわけでもない。適当な理由に対して、半分以上残っているサイダーを押しつけられても困る。

 私は言葉通り一口飲んで、グラスを返そうとする。けれど、宮城は受け取らない。仕方なく半分ほど飲んでグラスをテーブルに置くと、「仙台さん」と宮城が言った。


「明日、出かけるの?」

「誰かさんのおかげで、出かけたくても出かけられないんだけど」

「ふうん」


 自分から聞いてきたくせに興味がなさそうに言うと、宮城がテーブルに置いたグラスを空にした。そして、片付けておくから、と言ってグラスを洗いに行こうとする。


「もう少し話さない?」


 私は宮城の腕を掴む。


「話すことないし」

「なくてもいいじゃん」


 グラスを取り上げてテーブルの上に置く。

 一歩、宮城に近づく。

 手を伸ばして指先で唇に触れる。


「話をするんでしょ」


 そう言って、宮城が眉根を寄せた。その顔は見るからに不機嫌そうで、でも逃げたりはしない。だから、私は掴んだ腕を離す。


「宮城がなにか話してよ」

「仙台さんが話したいって言ったんじゃん」

「そうだっけ」


 私は宮城の頬を撫でて、ぺたりと手のひらをくっつける。

 彼女は私がなにをしたいかわかっているはずで、今すぐ逃げるべきだと思う。


 記憶が高校時代と繋がる。

 文化祭の後に呼び出した音楽準備室。

 私がいないところで文化祭を楽しんでいた宮城を呼び出して、彼女の腕を掴んだ。そして、キスをされたくないなら逃げればいいと彼女に言った。


 あのときもキスをするつもりではなかったのにキスをしたくなって、宮城に触れた。

 今とまったく同じだとは言わないけれど、よく似ていると思う。


 宮城に顔を寄せる。

 彼女はなにも言わない。かといって目を閉じるわけでもないから、自分から閉じる。

 そして、唇を重ねる。


 柔らかくて温かい。

 よく知っている唇の感触だ。


 でも、久しぶりに触れたせいか、壊れそうなくらい心臓がドキドキして頭が真っ白になる。ただ唇を合わせているだけなのに苦しくなって、離れる。すぐにもう一度キスをして、今度は強く唇を重ねる。宮城の腕を掴む。そのまま引き寄せようとすると、手を振りほどかれて肩を押された。


 足りない。

 もっとキスをしたいと思う。


 手を掴む。

 でも、また振りほどかれて、今度は足を蹴られた。


「なんで逃げなかったの?」


 宮城は、逃げてほしいときは逃げない。どうせ逃げるだろうと思っていたのにあっさりと受け入れる。キスをする前に逃げてくれたら、もっとしたいなんて思わずに済んだのにと思う。


「……仙台さんが嘘つきかどうか試しただけ。やっぱり嘘つきだった。映画観るって約束したとき、変なことしないって言ったのに」

「あれは私の部屋ではしないってことだから」

「仙台さんのそういうところ嫌い」


 宮城は恨みがましい声で言うと、足首の少し上をさっきよりも強く蹴ってくる。


「今のは痛い」


 加減はされているけれど結構な力で蹴られたことに文句を言うと、また同じ場所を蹴られた。


「私、部屋に戻るから」


 宮城が私に背を向ける。

 宣言通り部屋へ向かう彼女が三歩歩いたところで、声をかける。


「宮城は明日なにするの?」

「舞香と出かける」


 私に背中を向けたまま宮城が答える。


「天気予報、明日も雨だって」

「仙台さん、やっぱり嘘つきじゃん。さっき天気予報見たけど、晴れるって書いてあった」


 宮城がくるりと振り向いて、私が口にした適当な予報を否定した。


「じゃあ、見間違いかも。明後日は暇?」

「……暇だけど」

「この跡のせいでどこにも行けないし、また映画観ようよ」


 首筋を触って、にこりと笑う。

 私だけが家から出られないのは不公平だし、つまらない。宮城は私が出かけられない理由を作ったのだから、責任を取るべきだ。面白くしろとは言わないが、暇つぶしに付き合うくらいはしてくれなければ困る。


「仙台さんの好きな映画は絶対に観ないから」

「それでいいよ」


 笑顔を崩さずに答えると、宮城が「おやすみ」と今日聞いた中で一番不機嫌な声で言った。

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