第102話

 宮城に触れたいと思っていた。

 でも、宮城から触れられるとは思っていなかった。


 だから、ぴたりと首筋にくっついた手に怯んで体が硬くなる。


「私を起こした仙台さんが悪いから」


 言い訳のように言って、宮城が首筋に手を這わせてくる。するすると指先が下りていき、スウェットの首元に辿り着く。けれど、躊躇うように止まって中へは入ってこない。


 私は、宮城の手首を掴む。

 けれど、引き剥がす前に指先が強く押し当てられた。


「仙台さん、離して」


 放課後、この部屋で命令しているときと同じ口調で宮城が言う。


 彼女がしたいことがなにかはわかる。

 何故、目的を言わないのかはわからないが、ペンダントをしているか確かめたいに違いない。


「手、離したらなにするの?」


 ペンダントは、見せてと言われたときに見せる約束をしている。五千円が介在していない今日だって、宮城から言われたら見せるしかないと思っている。


「言う必要ない」


 そっけなく宮城が答える。


「じゃあ、離さない」


 見せてと言われて見せる約束を守ることに異論はないが、今日は勝手に確かめられたくない。


「……手、離してよ」


 懇願に近い声が聞こえて、思わず手の力を緩める。


 宮城は、私にお願いなんてしない。

 それでも、今の声はお願いと言ってもいいものだった。


「まあ、いいけど」


 冬休みに入った今、命令をきく必要はない。

 けれど、どうしても拒否しなければならないことでもないと思う。


 掴んでいた手首を離すと、指先が首元から入り込んでペンダントのチェーンに触れる。そして、それを撫でるわけでも、指先をもっと中へ潜り込ませるわけでもなく、宮城はペンダントを引っ張り出した。


「約束、守ってるんだ」


 ほんの少しだけ柔らかな声の後、指先がチェーンを辿って月の形をした飾りに触れる。


「一応ね」


 短く答えると、ペンダントトップが引っ張られる。


「……破る約束もあるのに」

「守る約束もあるんだからいいでしょ」

「全部守りなよ」

「自信ない」


 こういうとき、嘘でも全部守ると言えばいいのだと思う。


 でも、全部守ると言ったら、どんな約束をさせられるかわからない。宮城はときどき突拍子もないことをするし、言う。無理難題を押しつけられたら、約束を守る自信がない。今でさえ守れない約束がいくつもあるのに、全部なんて無責任な約束はできない。


「仙台さんのそういうところ、好きじゃない」


 あからさまに低くなった声が聞こえて、ペンダントから手が離れる。


「知ってる」

「そういうこと言うところも」


 声がさらに不機嫌なものに変わって、反射的に宮城の腕を掴む。


 私と宮城の距離は変わっていない。

 けれど、宮城が遠のいた気がする。


 いつもとは違うなにか。


 そんなものを感じるが、それがなにかはわからない。


 でも、私が失敗したことはわかる。


 自信がなくても、約束は全部守ると言うべきだった。

 それがどんな意味を持つのかわからなくても、口にすれば良かった。


「もう寝るから」


 そう言うと、宮城が私に腕を掴まれたまま立ち上がろうとする。思わず手に力を込めると、宮城が「痛い」と責めるような口調で言った。


「もう少し起きてなよ」


 このまま寝てしまうと、宮城がもっと遠くに行ってしまう気がする。


「やだ」


 短い言葉とともに、宮城が強引に私の手を剥がそうとする。


 手の甲に爪が刺さり、皮膚を裂くつもりなのかと思うほど深く食い込む。鋭い痛みに宮城の腕を強く引く。乱暴にしたつもりはなかったが上手く加減が出来なくて、バランスを崩した宮城が私の肩を掴んだ。


「危ないじゃん」


 怒ったように言う宮城を腕の中に閉じ込める。


 物理的に近づいた距離に甘えて、私は彼女に唇を寄せた。


 吐き出す息が混じり合う距離になっても、宮城は動かない。

 だから、躊躇うことなく唇を重ねる。


 キスなんてこれまでに何度したかわからないのに、心臓が驚く。どくん、という音が聞こえてくるような気がする。


 強く唇を押しつけると、目を閉じていても触れ合った部分から唇の輪郭がわかるほど鮮明に柔らかさが伝わってくる。けれど、すぐに肩を押されて黒猫よりも柔らかな唇が遠のく。


「仙台さん、変なことしないって言ったじゃん」


 ぼそりと宮城が言って、腕の中から逃げ出す。


「さっき勉強教えたし、キスは変なことじゃないでしょ。約束だし、権利の行使」


 キスは、冬休み前にした約束に含まれている。


 今日は宮城との“変なことはしない”という約束を優先させるつもりで、その権利を行使する予定はなかったけれど、宮城も逃げなかった。だったら、もう一度したっていいと思う。


 私は手を伸ばして、隣にいる宮城の唇に触れる。

 けれど、キスをする前にその手を掴まれ、押し倒される。


 布団があるから背中は痛くなかったが、痛くなければいいというものではない。


「今そういうことしたってことは、してもいいってことだよね」


 宮城の声が降ってくる。


 してもいい。


 それがなにを指しているかは想像できた。

 でも、それは宮城が言っていた“変なこと”で、この状況を受け入れていいか迷っていると上着の裾を掴まれる。


「宮城、いいって言ってない」

「じゃあ、いいって言って」


 これから“変なこと”をしようとしているとは思えないほど機嫌の悪そうな声が聞こえてくる。宮城に甘い言葉なんて期待はしていないが、声に棘がありすぎる。


「言わない」


 そもそも、今日はそういうことはしない約束だ。


 私はスウェットの裾を掴む手を叩いて、「離して」と告げる。けれど、服の中に手が入り込んできて脇腹を撫でられる。


「ちょっと、宮城」

「約束破った仙台さんが悪い。変なことしないって言ったのに」

「キスは約束でしょ」


 冬休み前に得た権利を主張するけれど、宮城は手を止めない。

 指先が脇腹をゆっくりと上っていく。


「でも、キスするタイミングじゃなかった。勉強終わったときにすれば良かったじゃん」

「タイミングまでは指定されてない」


 宮城の手が止まる。

 そして、薄闇の中でもはっきりと視線を感じるほど私をじっと見てくる。


「――やっぱり仙台さんは信用できない」


 小さな声で宮城が言って、スウェットを胸の下あたりまでまくり上げてくる。


 お腹が見えることくらいたいしたことじゃない。


 暗くてよく見えないはずだし、宮城には何度か見られている。ただ、守るものがなくなったお腹は随分と頼りない感じがする。


 ぺたり、と宮城がおへその横あたりに手を置く。


 伝わってくる熱から、手のひらが全部押しつけられていることがわかる。ゆっくりと肋骨の一番下に熱が移動する。


 強すぎるくらいに押しつけられた手は、迷うように動いていく。気持ちが良いと言うよりはくすぐったい。でも、宮城の下から逃げ出したいほどではないし、もう少しくっついていてもいいと思う。けれど、彼女の手は先に進むことを躊躇ってばかりいる。


 宮城の手が目指している場所がどこかはわかっているから、本当なら今すぐ彼女の手を掴んで剥がした方がいい。


 今日は、そういうことをしないと約束している。


「宮城」


 手を掴むかわりに名前を呼ぶと、肌の上から伝わってきていた熱が消える。でも、すぐに体温が流れ込んできて、胸の下まで撫で上げられた。


「してるんだ」


 独り言のように宮城が言う。

 主語が省かれていたけれど、それが下着のことだということはすぐにわかった。


「してるよ、自分の家じゃないし」

「……外してもいい?」


 宮城が私を試すように言って、胸の上に手を置く。そして、形を確かめるようにほんの少しだけ動かした。


 布が間にあると言っても、宮城の手の感触も熱も伝わってくる。

 気持ちがいいわけではないけれど、息が漏れる。


 ストラップに指先が触れて、止まる。

 許しを得るまでブラを外すつもりはないらしいが、体が硬くなる。


 変なことをするなと言った本人が変なことをしてくることは、想定していなかった。


 答えを出すのは私で、宮城は待っている。


 手を伸ばして宮城の頬に触れる。

 指先で顎を撫でて、耳たぶを摘まむ。

 宮城がくすぐったそうに息を吐き出す。


「仙台さん」


 答えを催促するように宮城が私を呼ぶ。


 触れられたいし、同じように宮城に触れたいと思う。


 心の中では、『いい』と『いけない』がごっちゃになっている。


「――宮城にそれなりの覚悟があるならどうぞ」


 変なことをしているのは私ではなく宮城だけれど、これも約束を破ったことの一つにカウントされるのかもしれない。


 そう考えると、このまま続けてはいけないと思う。


 きっと、カウントされるたびにスコアゲージの目盛が増えて、限界が来たら宮城はどこかへ行ってしまう。でも、私からはそのスコアゲージを見ることができない。あといくつ約束を破っていいのかわからないから、宮城に選択肢を押しつけるしかない。


「覚悟って?」

「私が理性的じゃないってこと、知ってるでしょ」


 宮城がしたように彼女のスウェットの裾から手を入れて、脇腹を撫でる。


「……どういう意味?」

「わかってて聞いてるでしょ、それ」


 宮城から返事はない。


「私は意味を教えてもかまわないけど、宮城はそれでいいの?」


 ずるいと思いながら問いかける。


 手を滑らせて、背骨にそって撫で上げる。

 宮城が驚いたように胸の上に置いていた手をどけて、体を起こす。


 宮城は、私よりもはるかに理性的だ。欲望に溺れる前に岸に向かって泳ぎ出すことができるし、私を助けてくれる。


「もういい」


 隣に座って乱れかけた服を整えながら、宮城が言う。


「その方がいいと思う」


 私も体を起こして、乱れた服を整える。


 このまま続ければ、真夜中にこの家から追い出されるなんてことになったかもしれない。宮城ならそれくらいのことをしそうだから、これで良かったはずだ。


 でも、まだ宮城をベッドに帰したくないとも思っている。

 私は隣にある手を握る。


「宮城」


 小さく呼ぶと、宮城が私の方を見た。


 顔を寄せて、唇を重ねる。

 肩を叩かれたり、爪を立てられたりはしない。


 嫌がってはいないとわかって、ゆっくりと顔を離す。


「このキスは宮城と約束したことの一つだけど、今も変なことしないでって言う?」


 宮城はなにも言わない。

 繋いだ手を解いて、引っ張り出されたままのペンダントに触れてくる。


「もう少し権利を行使するから、怒らないでよ」


 一応。

 念には念を入れて。


 断りを入れてから、私はもう一度宮城にキスをした。

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