第264話

「アロハー」


 玄関のドアを開けた途端、澪の声が耳に響く。


「アロハー」


 同じ言葉を同じ調子で返すと、澪ががっかりしたような顔をしながら中へ入ってきてドアを閉めた。


「……志緒理ちゃんは?」

「志緒理ちゃんはあっち」


 面白くない呼び方に、わざわざ宮城を名前で呼んで奥を指さす。予定よりも早く鳴ったインターホンに不機嫌な顔をした宮城は、私の部屋で澪を待っている。


「澪、早く来るのはいいけど、三十分以上前って早すぎない?」

「そう思ったから、一応連絡したんだけど」

「それにしても早いから」


 予定より早めに着くことを予告してくれたのは有難いが、そういう配慮ができるなら、どこかで時間を潰してきてほしかったとも思う。


 あと二十分、いや、十分でもいいから遅く来てくれたら、宮城があれ以上の行為をしてもいいと考えてくれたかもしれない。そこまでは考えなくても、印をもっとつけてもらうことができたはずだ。


「葉月が可愛がってる猫探そうと思って家を早く出たから」


 澪が悪気のない声で言う。


「いた? ミケちゃん」

「はい、ミケちゃん」


 私が名付けた三毛猫の名前を口にしながら、澪がミケちゃんとはかけ離れた白い袋を渡してくる。受け取って中を見るとおやつが入っていて、彼女がコンビニに寄ってきたのだとわかった。


「ミケちゃん探すの面倒になっちゃってさ。それでコンビニ寄ってそのまま来た」

「ありがと」


 手土産を持って訪ねてくるという気遣いができるのに、時間通りに来るという当たり前のことはできない澪に「部屋こっち」と声をかけると、「お邪魔します」と返ってくる。私は彼女が靴とコートを脱ぐのを待って、二人で共用スペースへ行く。


「へえ、こういう感じなんだ」


 興味津々といった感じでキョロキョロとしている澪に「そんなに見ても面白いものないよ」と告げて、自分の部屋のドアを開ける。


「澪、宮城待ってるから」

「そこ、志緒理ちゃんの部屋?」

「私の部屋」


 そう言うと、共用スペースを見ていた澪がやってきてやたら元気のいい声を出しながら部屋に入った。


「志緒理ちゃん。アロ――」

「澪、普段しないでしょ。そういう挨拶」


 私は澪の言葉を奪って、ドアを閉める。


「いいじゃん。たまにはこういう挨拶も。アロハー、志緒理ちゃん」

「……こんにちは」

「えー、そこはアロハでしょ」

「澪。挨拶はそれくらいにして座って」


 楽しそうな澪を宮城の向かい側へ座らせ、私は彼女のコートをハンガーにかけてから宮城の斜め前に腰を下ろした。


「志緒理ちゃんの部屋、隣?」

「あ、うん。隣」


 宮城が困ったような声で答える。

 次に澪が口にする言葉を警戒しているのだとわかるが、警戒してもどうにもならない。澪が口にする言葉は変わらないし、宮城が困る未来も変わらない。


「あとから志緒理ちゃんの部屋も見たい」


 澪が予想通りの言葉を口にする。

 だから、私が宮城の代わりに答える。


「見なくていいから、ここにいなよ」

「志緒理ちゃんに聞いてるのに」

「たぶん、同じ答えだから」

「そうなの?」

「うん、まあ」


 宮城が曖昧に答えて、澪と私の間くらいを見る。

 今日の彼女は借りてきた猫のようだと思う。


 私といるときの気まぐれな野良猫のような宮城とも、宇都宮といるときの柔らかな雰囲気の宮城とも違うから、私の想像以上に澪のことが苦手なのだとわかる。


「そっかあ、なら仕方ないか。今日は葉月の部屋だけで我慢しとこ」


 澪が明るい声で言う。

 デニムに包まれた足を崩した彼女は、宮城とは対照的に十年前からこの部屋に遊びに来ていると言ってもいいくらいリラックスしている。これではどちらがお客かわからない。


「そうだ。志緒理ちゃん、どら焼き好き?」

「うん、結構」


 宮城がどら焼きが好きだという話は聞いたことがないし、今までどら焼きを買ってきたこともない。だから、結構と言いながらも、嫌いではないくらいのもののはずだ。


 おそらく尋ねた人間が私だったら「あんまり好きじゃない」と言うに違いない


「だったら良かった。新商品らしいから買ってきた。あとチョコとか、ポテトチップスとか買って来たから」

「ありがと」


 余所行きの声が聞こえてくる。

 もしも、宮城の家へ行くことがないまま高校時代を過ごした私がここにいたら、澪と同じような反応をされるに違いない。私はきっと澪と同じ人種に分類されて、親しくなるチャンスは永遠に来ない。


 高校二年生のあの日。

 宮城が本屋で声をかけてくれて良かったと思う。


 あのときの五千円がなければ、宮城のルームメイトになっている私はいなかった。


「澪。飲み物、冷たいのでいい? 麦茶とサイダーとオレンジジュースあるけど」


 私は玄関で渡された白い袋の中身をテーブルに並べながら、問いかける。


「じゃあ、サイダー」

「宮城。悪いけど持ってきてくれる?」

「うん」


 宮城がほっとしたような顔で答えて、部屋を出て行く。


 本当なら私が持ってくるべきだということはわかっているが、私がここからいなくなるわけにはいかない。単純に宮城と澪を二人きりにしたくないという感情もあるけれど、それ以上に苦手なタイプと二人きりにして宮城を困らせたくないと思う。


 澪がもう少し宮城に受け入れられるタイプなら、宇都宮が来たときのようにパンケーキを作っても良かったが、今の状態で澪と長時間二人きりにしたら宮城の寿命が縮みそうだ。


「葉月の部屋って、あんまり葉月の部屋って感じしないね」


 宮城がいなくなった部屋を見回して澪が言う。


「そう?」

「そう。思ったより殺風景。そのくせ、ペンギンのぬいぐるみなんて可愛いものが置いてあったり、変なティッシュカバー使ってる」

「それ、カモノハシ」


 私は澪が“変”だと思っている生き物の名前を告げる。


「動物園行ったときの写真。あの変な鳥なんだっけ?」

「ハシビロコウ?」

「そう、それ。それの写真、いっぱい撮ってたよね。葉月って、いつの間に変な生き物好きになったの?」

「別に変な生き物好きになったわけじゃない」

「じゃあ、そのカモノハシは?」


 澪がティッシュカバーを指さす。


「宮城が好きなの。勝手に私の部屋に置いていった」


 私は半分ほどの事実を口にする。

 宮城がカモノハシを好きだと言ったことはないが、ティッシュカバーを私の部屋に置くことを決めたのは彼女だ。だから、全部嘘というわけではない。


「へえ。志緒理ちゃんの趣味か。なんか納得。でも、こういうのがなくても、葉月の部屋って感じしない。もっとキラキラした部屋ってイメージなんだけど」


 澪の言葉に、あはは、と笑う。

 似たようなことは宮城にも宇都宮にも言われたが、澪にまで言われるとは思わなかった。


 私はずっと、多くの人の中で生きやすい“仙台葉月”という人間を演じている。大学生になった今もそれは続いているけれど、高校の時ほど本当の私から乖離した私を演じているつもりはなかった。


 でも、澪にイメージが違うと言われるのだから相変わらず“本当の仙台葉月”から随分と離れた私を演じているのかもしれない。


「それ、どんな部屋?」


 澪に軽い声で問いかける。


「具体例を聞かれても困るけど、なんかイメージと違う。ていうかさ、志緒理ちゃんも、葉月のルームメイトってイメージじゃないじゃん? ギャップある。どういう友だちなわけ?」

「どういうって、前にも言ったけど高校の友だちだけど」


 ギャップがあるのはお互い様だと思いながら答える。


 前髪を作らないクラシカルなボブカットの彼女は、クールなイメージを持たれることが多いが、口を開いた途端そのイメージが変わり、サバサバどころか、バサバサだとかガサガサだとかいう言葉が似合う人間になる。


 澪のことを喋らなければ美人だと言う人もいるけれど、口を塞いでも念を送って脳内に直接語りかけてくるに違いないから、喋らない美人になることはできないだろう。


「そのときも言ったけど、グループ違う感じだよね。志緒理ちゃん、実は高校ではギャルだったとかない?」

「ない。あったら怖いから」


 確かに宮城がギャルだったら羽美奈と仲良くなっていそうだが、そういう事実はない。そうなりそうだったこともない。大体、宮城が羽美奈と似たタイプだったら、ルームシェアをしようと誘ったりはしなかった。


「ギャルだったりしてくれた方が納得できるけどね。志緒理ちゃん見てると、二人がルームシェアしてるって信じられない」

「信じられなくてもルームシェアしてるから」

「そのわりによそよそしくない?」

「よそよそしいって?」

「呼び方。なんで下の名前じゃなくて名字? 葉月だったら志緒理って呼びそうじゃん」


 澪があまり言われたくないことを言ってきて、私は鎖骨の下――宮城が印をつけた辺りを押さえる。


「ずっと宮城って呼んでるから」


 志緒理と呼べるものなら、もう呼んでいる。

 呼ばせてもらえないから宮城と呼ぶことになっている。


「葉月、いつも友だちのこと下の名前で呼ぶじゃん」

「まあ、そうだけど。高校の時、グループ違ったし、なんとなく宮城のままきちゃったから」


 なんとなく、を変えるチャンスが来ない。

 これから来るのかどうかすらわからない。

 澪のように志緒理ちゃんと呼ぶことすら許されない。


 私はため息を飲み込んでドアを見る。

 このまま澪とこの話を続けていたくない。


 すぐに戻って来られるようにと温かいものではなく冷たい飲み物を取りに行ってもらったのに、なかなか戻ってこない宮城を呼びに行くか迷う。


「葉月、どうかした?」


 私の視線に気がついたのか、澪がドアを見る。


「宮城、遅いなって」


 そう言って立ち上がりかけたところで、ドアが開く。すぐに三人分のグラスをのせたトレイを持った宮城が入ってきて、澪の前にサイダーを置いた。


「志緒理ちゃん、ありがと」


 明るい声が響いた後、宮城が「仙台さん、麦茶で良かった?」と普段なら聞いてはくれないようなことを聞いてくる。


「うん、ありがと」


 私の前に麦茶が置かれ、最後のグラスがサイダーを飲んでいる澪の向かい側に置かれる。


「志緒理ちゃん、葉月のこと名前で呼ばないの? 仙台さんって、一緒に住んでるにしてはよそよそしくない?」

「えっと、ずっと仙台さんって呼んでるからそっちの方が呼びやすいっていうか」


 澪の向かい側に座った宮城が、困ったような声で言う。そして、透明な液体、たぶん、サイダーを飲む。


「二人とも、この機会に下の名前で呼ぶことにしたら?」


 澪が言うようになったら嬉しいけれど、宮城は借りてきた猫のようなまま嫌だとも良いとも言わない。曖昧な表情を浮かべたまま座っている。


 名前では呼びたくない。


 さっきはっきりとは言わなかったが、宮城の「仙台さんの方が呼びやすい」という言葉はそういうことで、澪の言葉を聞いてもそれが変わることはないと私は知っている。


「急に呼び方変えるの難しいし、今のままでいいかな」


 私は言いたくはないけれど、言うしかない言葉を口にして麦茶を飲む。


「えー。志緒理ちゃんは?」

「澪。宮城のこと、あんまりいじめないであげて」

「いじめてないって。二人の仲をより良くしようとしただけなのに、葉月ママは過保護だなー」


 ふざけた調子で澪が言って、「ね、志緒理ちゃん」と続ける。


「馬鹿なこと言ってないでどら焼き食べなよ」

「はーい。ママ」

「澪を産んだ覚えはないから」

「そんなこと言わないで、ママになったらいいじゃん。あ、それで親子三人で仲良くルームシェアするっていうのはどう?」


 澪が同意を求めるように宮城を見る。

 だから、私は宮城が口を開く前に澪の言葉を全面的に否定した。


「勝手に親子三人にしないでよ。あとこの家に空き部屋ないから」


 親子はともかく、三人でルームシェアをするなんて言葉を宮城に肯定されたくない。冗談でも嫌だ。


 宮城のルームメイトは私だけでいい。

 今までも、これからも。

 私以外がルームメイトになってはいけない。


「今日の葉月、冷たい。もっと澪ちゃんに優しくしてよ」


 澪が涙を拭う真似をしながら言う。

 えーん、とわざとらしい声まで出すから、気が抜ける。本当にどこにいても澪は澪で、いつもと変わらない。


「優しくしてあげるから、どら焼き食べて」


 私はテーブルの上からどら焼きを取って澪に渡す。


「じゃあ、おやつタイムにしよっか」


 そう言うと、澪がにこりと笑った。

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