第334話
「宮城、髪ちゃんと乾かした?」
部屋に入るなり、仙台さんの声が飛んでくる。
ここは仙台さんの部屋だから、彼女の声がするのはおかしくないけれど、私を小さな子どものように扱うのは間違っていると思う。
私の過去の行いが、仙台さんに今の台詞を言わせたということはわかっているが心配しすぎだ。
「乾かしてきた」
「本当に?」
「ほんと」
私は今年に入って風邪を引いた。
正確に言えばゴールデンウィーク中に風邪を引いた。
その理由の一つが髪をちゃんと乾かさなかったことだったせいか、彼女はお風呂上がりの私の髪を気にするようになっている。
けれど、人は簡単に風邪を引いたりしない。
それにあのときのことは反省しているから、髪は断言できるほどドライヤーでしっかりと乾かしている。だから、確かめる必要なんてないのに、仙台さんがわざわざ私が立っているドアの近くまでやってきて髪を触った。
「乾いてるかどうかなんて、見たらわかるじゃん」
「乾いて見えるだけかもしれないでしょ」
私がお風呂に入っている間にパジャマ代わりのスウェットに着替えた仙台さんが、似たようなスウェットを着た私の髪を優しく梳く。
その手は心地が良くて、ずっと触れていてほしくなる。でも、していいと言っていないことをする仙台さんをずっと許していると、ろくでもないことになる。
「仙台さん、親みたいなこと言うからやだ」
私に近づきすぎている仙台さんの足を軽く蹴ると、髪を梳く手が止まった。
「宮城って、髪乾かしたかどうか親によく聞かれてたの?」
「……聞かれてないけど」
親に聞かれた記憶はないけれど、テレビの中でそういう親が出てくるシーンを見た記憶がある。
「じゃあ、親みたいなこと言ってないじゃん」
「仙台さん、うるさい。これ置くからそこどいて」
自分の部屋から持ってきた枕で仙台さんのお腹を押す。
「私が置いてあげるから貸して」
「やだ。仙台さん、奥に枕置きそうだもん」
この部屋に予備の布団はないし、私も自分の部屋から布団までは持って来ていないから、一つのベッドで眠ることは確定している。だからこそ、絶対に枕を渡したくない。
壁際は仙台さん。
そう決まっている。
彼女に枕を渡して私が壁際である奥で寝ることになったら、身動きが取れないようなことをされそうで嫌だ。
「寝る場所なんてどこでもいいでしょ」
「よくない。お風呂に入る前に約束したよね? 仙台さんは壁見て黙って寝るって。だから、仙台さんが壁際。奥に寝て」
「そんなに言わなくても覚えてる」
諦めたようにそう言うと、仙台さんが大人しくベッドへ行く。そして、置いてあった枕を奥へ移動させ、ペンギンのぬいぐるみを床へ座らせた。
「これでいい?」
問われて、私もベッドまで行く。
「枕の位置はそれでいいけど、なるべく壁際に行って寝て」
「はいはい」
仙台さんがおざなりな返事をしてベッドに横になる。私はそんな仙台さんの隣に枕を置いて、彼女をつつく。
「もっと向こう行って」
「狭いんだけど」
「狭くても」
「はいはい」
「体の向きも変えてよ。ちゃんと壁見て」
なぜか私のほうを見ている仙台さんに文句を言う。
「宮城、壁ってあっちにもあるって知ってる?」
ベッドがぴたりとくっついている壁ではなく、私の背中側の壁を指さして、仙台さんがにこりと笑う。
こういうときの彼女は性格が悪い。
私が見てほしいと望んでいる壁と、指さしている壁が違うとわかってやっている。
「普通、言わなくても見てほしい壁がどれかわかるよね?」
「わからないから、見てほしい壁があるなら最初に指定しなよ」
「仙台さん、ほんとむかつく」
わかってはいるけれど、仙台さんは意地悪だ。いつも重箱の隅をつつくようなことを言ってくる。
でも、今日はそういう仙台さんを許してあげてもいい。
一人で寝るのって寂しいじゃん。
そんなことを言ってくるような仙台さんを邪険にするほど、私は酷い人間じゃない。
「なにも見えなくてもいいなら、こっち見てれば」
布団に潜り込んで仙台さんに背を向け、電気を消すと言わずに部屋を真っ暗にする。
「常夜灯つけなよ。あと、こっち向いて」
「どっちもやだ」
「寝るときは宮城が見てほしい壁のほう見るからさ、少しの間こっち見てよ。……寂しいじゃん」
今日の彼女はずるい。
寂しいなんて、過去の私を思い出させるようなことばかり言ってくるから否定できなくなる。
「五分だけだから」
制限時間を決めて、体の向きを変える。
二人で眠るには狭いベッドの上、目を開けて前を見る。
暗闇の中、仙台さんの輪郭がぼんやりと浮かび上がる。
ぴたり、と頬に手が触れて仙台さんの体温が流れ込んでくる。
ぎしり、とベッドが鳴って仙台さんの体温が頬以外からも流れ込んでくる。
「ちょっと仙台さん、近づいてこないでよ」
足が触れあうような距離は近すぎる。
ベッドの上でこういう距離になっていいとは言っていない。
「宮城、いい匂いするなって思って」
「同じ匂いじゃん」
私と仙台さんは同じシャンプーを使っている。
いい匂いがするとしたら、それ以外にない。
「違うよ。宮城のほうがいい匂いする」
「気のせいだから」
「気のせいじゃない」
「絶対に気のせい」
私は近づきすぎている仙台さんの肩を押す。でも、彼女は離れるどころか私を腕の中に閉じ込めて「やっぱりいい匂いする」と言った。
「仙台さんの変態」
「宮城が足りないからしょうがないじゃん」
「なにそれ」
「……家に帰って来ても、宮城がバイトでいないから寂しいって言ってる」
仙台さんがぼそりと言って、私を閉じ込めている腕に力を入れる。
彼女からこういう言葉を聞いた記憶がない。
今、仙台さんがどんな顔をしているのか知りたいと思うけれど、知ることはできない。この部屋は暗いし、私たちは密着しすぎている。
「仙台さんだって、私を置いてバイトに行くじゃん」
家庭教師のバイトもカフェのバイトも、私のしてほしいことじゃない。やめてほしいと言ったこともある。
それなのに仙台さんは家庭教師のバイトを続けているし、今はしていないカフェのバイトだって突然またやる可能性がある。
バイトに関することは決して譲らない彼女に、私のバイトに口を出す権利はない。
「そうだね」
仙台さんが感情のない声で言う。
「バイト、やめないんでしょ」
「そうだね」
聞きたくない言葉が繰り返されて耳を塞ぎたくなるけれど、塞ぐ前に次の言葉が流れ込んでくる。
「……宮城は寂しいって思う?」
その声は消えてしまいそうで、頼りなくて、私は彼女の肩におでこをくっつける。
「前に、誰もいない家好きじゃないって言った」
「ごめん」
謝ってほしいわけじゃないのに仙台さんが謝る。
ごめん、なんて言うくらいならバイトをやめてほしいと思う。
私は今でも彼女のバイトに対して良い感情を持てずにいる。
「もう離して。五分経った」
必要以上にくっついている仙台さんの体を押す。
「時間計ってないでしょ」
「計ってなくても大体わかる」
制限時間なんて建前だ。
五分経っていてもいなくても関係がない。
そもそも仙台さんのほうから約束を破って決められた壁を見ずに私に触れてきたのだから、私も同じように約束を破る権利があるはずだ。
「こうしてるだけだから」
耳もとで仙台さんが囁く。
「……いつまで?」
建前であっても、私たちにはまだ制限時間が必要だ。
無制限に触れあうのは間違っている。
「朝まで」
「やだ。あと五分」
「じゃあ、宮城が寝るまで」
「私の話、聞くつもりないよね?」
「今日は許してよ」
本当に仙台さんはずるい。
ずるいけれど、今日は許すしかない。
そう思う。
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