第296話
「私史上一番付き合いが悪い仙台葉月さんに物申したいんですけど」
スマホから澪の不満そうな声が聞こえてくる。
彼女の声はいつもより少し低いが、家庭教師のバイトが終わって歩く夜道には不釣り合いなほど明るい色を持っている。人懐こい澪はどんなときも太陽のようで、不満を滲ませていてもそれは変わらない。
「そこまで悪くないと思うけど」
街灯に照らされながら、澪が口にした言葉を否定する。
「悪いって。せっかくの連休なのに全然会ってくれないじゃん」
「それについては本当にごめん。忙しかったから」
みんなと会うから葉月も来ない?
買い物付き合って。
なんて、澪から連休中に何度か誘われたけれど、彼女が言うようにそれは全部断った。私にとって優先すべきは宮城との時間だし、バイトもあったから仕方がないことだったが、澪に悪いことをしているのは事実だ。だから、断ることに胸の痛みを感じてはいる。
「ほんと、葉月って忙しい日多いよね。今から私が一緒にご飯食べに行こうって言っても断るでしょ」
大げさなくらい残念そうな声の後、ため息が付け加えられる。
「そういう電話なの、これ?」
暇だからとかかってきた電話は本当にただの暇つぶしかと思っていたけれど、用件があったらしい。
「そういう電話なんだけど、今から時間ある?」
「ごめん。今度でもいい? 今からっていうのは急すぎる」
これからの時間の使い道は決まっている。
私は足を速める。
五月の夜にしては生温かい風が頬を撫でる。
歩く速度を上げたことで、宮城が待つ家へ近づく速度も上がる。このまま歩けば、あと三分もしないうちに宮城に会えるはずだ。
「誘いっていうのは急なもんだって。たまには急な誘いにも乗ってよ」
「そのうちね。今日は宮城が風邪引いてるから無理」
「え? 志緒理ちゃん風邪引いてるの? そういうことは早く言ってよ」
「言うタイミングってここでしょ」
「そうだけどさ。志緒理ちゃん大丈夫なの? 熱は?」
澪がぽんぽんと質問を投げかけてきて、それに答えながら歩いていると宮城が待つ家が見えてくる。一歩を大きくして、歩道から建物の中へ向かう。
「そろそろ家に着くから――」
階段を上って三階、玄関が見えてきて、電話を切るための前置きを口にすると、澪がそれを阻止するように「そうだ、葉月」と弾んだ声をだした。
「お見舞い行こうか?」
いいことを思いついた。
続いて聞こえた声はそんな声色で、「今から行ってもいい?」なんてとんでもない言葉まで付け足してくる。
「お見舞いにくるほど悪くないから大丈夫。あと、風邪うつると良くないしさ」
澪を阻止する言葉を頭から引っ張り出しながら玄関を開け、中へ入って靴を脱ぐ。
どうしようかな。
廊下の壁に背中をつける。
連休の前も連休に入ってからも澪の誘いを断ってばかりだから、電話が切りにくい。かといって、このままここで話しているわけにもいかない。朝、宮城は熱があった。今だってあるかもしれない。
電話を切る良いタイミングがいつ来るかなんてわからない。
私は澪と話しながら移動することに決めて共用スペースへ行く。すると、いつもの席に宮城が座っていて思わず声がでた。
「えっ」
「えっ?」
澪が私の口から出た言葉を繰り返す。
「宮城が」
「志緒理ちゃんがどうかした?」
「ラーメン食べてる」
「元気じゃん」
スマホから安心したような声が聞こえてくるが、私はまったく安心できない。
「ごめん、澪。また連絡する」
切るタイミングが掴めないままだった電話を問答無用で切り、スウェット姿で座っている宮城の側へ行く。
「なんでラーメン食べてるの?」
寝ている。
起きていても飲み物を飲んでいるくらい。
私がいない間の宮城について、そんなことしか考えていなかった。
まさかカップラーメンを食べているなんて。
私を待たずに一人で夕飯を食べているのは想定外過ぎる。
「お腹空いたから。仙台さん、澪さんと話してたんじゃないの?」
「そうだけど、それはどうでもいいから」
「どうでもいいって、友だちでしょ?」
宮城がカップラーメンを食べる手を止めて、私を見る。
「そうだけど、今は宮城がラーメン食べてることのほうが問題。なんでラーメン?」
「ご飯作るの面倒くさかったから」
「ご飯なら私が作るから待っててくれれば良かったのに。待てないくらいお腹空いてたの?」
責めたいわけではないけれど、責めるような口調になってしまう。
「そうじゃないけど。……仙台さんバイトだし、自分でできることは自分でしようかなって思っただけ」
「病人は自分でしなくていい」
食欲があるのはいいことだと思う。
たくさん食べて、早く元気になってほしい。
そう思っている。
でも、私を待っていてほしかった。
待っていてくれたら、カップラーメンよりも栄養があるものを作って宮城に食べさせた。仙台さんは私のもの、なんて言うのなら、こういうときは私に命令でもなんでもしてすべてやらせるべきだ。
「もう熱下がったし、病人じゃない」
「本当に?」
宮城のおでこに手のひらをくっつけてみる。
よくわからないが、熱いというほどではない。
でも、手のひらだけでは正しいことはわからない。
「それ食べ終わったら熱計って」
カップラーメンにはどれだけ文句を言っても言い足りないほどの文句があるが、宮城が食べているものを取り上げるほど子どもではないし、カップラーメンに罪はない。
まともな食事は明日から、いや、今から簡単なおかずを作って食べさせたほうがいいかもしれない。
もちろん、宮城のお腹に余裕があればの話だけれど。
「……計らなくていい」
「駄目、計って。ちゃんと風邪治さないと澪が来るよ」
「澪さん、私の風邪と関係ないじゃん」
「ある。お見舞い来たがってた」
「お見舞いって、私の?」
宮城が不思議そうな顔をする。
「そう、宮城の。澪に見舞われたくなかったら、早く風邪治して」
「仙台さん、私が風邪引いたこと澪さんに喋ったの?」
「言うつもりなかったけど、今から会おうって言うから」
「……今から会うんだ?」
宮城が眉間に皺を寄せ、私の足を踏んでくる。
「断ったからここにいるんだけど」
私の答えに満足したのか、すぐに宮城の足がどけられる。けれど、私を見ていた視線は床へ落ち、戻って来ない。
「澪さんの電話って、今から遊びに行こうって電話?」
「ご飯一緒に食べようって電話」
「ふうん」
床を見つめたまま宮城が言い、静かに言葉を続けた。
「――澪さんって、仙台さんが風邪引いてもお見舞いに来るんだよね?」
「来ないよ」
「なんで?」
宮城が顔を上げて私を見る。
「宮城がいるから来させない。……宮城は宇都宮のこと呼ぶの?」
私は宮城がいればそれでいいし、宮城が私の側にいられないと言っても宮城以外はいらない。
でも、宮城のことはわからない。
今日、私がいない間に宇都宮がお見舞いに来ていても驚かない。宮城と宇都宮の友情の深さを考えれば、そんなことがあっても当然だと思うし、それを邪魔することもできないと思う。
ただ、二人の関係を認めてはいても、それを受け入れられるかどうかは別だ。
もし宇都宮が今日ここに来ていたとしたら、私は宇都宮に良くない感情を向けるし、それを止めることができない。弱っている宮城を見るのは私だけでいい。宇都宮だけではなくほかの誰にもそんな宮城を見せたくないと思う。
「わざわざ呼んだりしない。舞香、バイトで忙しいみたいだし」
宮城が素っ気ない声で答える。
それは今日、宇都宮がこの家に来ていないと察することができる言葉だが、面白くない答えでもある。
バイトで忙しくなかったら?
前提の条件が変わったら、違う答えがでてくるのかもしれない。
「宇都宮、高校の時はお見舞いに来たりしなかったの?」
「高校の時は風邪引かなかったし」
「じゃあ、引いてたら呼んだ?」
「仙台さんは? 風邪引いたときに茨木さん呼んだりしたの?」
「質問してるの、私なんだけど」
質問に質問を返してくるのは反則だ。
こういうことを許すときもあるけれど、今日は許せない。先に私の質問に答えてもらう。
「……わざわざ舞香を呼んだりしない」
宮城が低い声で不満そうに言う。
「今は?」
「仙台さんいるじゃん」
「それは私がいるから呼べないってこと?」
「むかつく。そんなこと言ってない」
結構な勢いで宮城が私の足を蹴ってから、「今度は仙台さんの番。茨木さんの話は?」と聞いてくる。
「呼んでないよ。お見舞いに来たのは宮城だけ。家に人を呼びたくなかったし」
高校時代、何度か風邪を引いて学校を休んだことがあるけれど、友だちは呼ばなかった。お見舞いに行くと言われたこともあったが、私の家であって私の家ではないようなあの家を知ってほしくなかった私はすべて断った。
お見舞いに来たのは、予告もなしにやってきた宮城だけだ。
「仙台さん」
私の足を軽く踏みながら宮城が小さな声で私を呼ぶ。
「なに?」
「……茨木さんと澪さんって同じ友だち?」
「同じ友だちってどういうこと?」
「わかんないならいい」
どういう意図の質問か明かされないまま話が打ち切られ、今度はさっきよりも大きな声で「仙台さん」と呼ばれる。
「なに?」
「風邪引いたら大学行かない?」
また意図がわからない質問が投げかけられる。
「熱出たらいけないと思うけど」
なにを考えているのかわからない質問に当たり前としか言えない答えを口にすると、宮城が立ち上がって私の服を掴んだ。
「ラーメンはもういいの?」
食べかけで放置されているカップラーメンに視線をやると、宮城が私に一歩近づいた。
掴まれたままの服を引っ張られる。
カップラーメンに向かっていた視線を宮城に向ける。
また彼女が私に近づいて、唇が重なる。
でも、キスは一瞬で唇はすぐに離れた。
「……大学行くなってこと?」
こんな短いキスで風邪がうつるとは思わないけれど、風邪をうつしたいとしか思えないタイミングのキスだった。
「わかんない」
宮城が掴み続けていた私の服を離す。そして、椅子に座ると、カップラーメンの横に置いてあった麦茶を飲んだ。
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