第333話

 澪さんは優しいし、頼りになる。


 苦手なタイプだけれど、いい人であることは間違いない。

 今日のバイトでも、急にオーダーを取りに行くことになった私をフォローしてくれた。


 三日働いてもバイトを楽しいとは思えないけれど、澪さんのおかげで一ヶ月を乗り越えることはできそうだと思える。


 問題は仙台さんだ。


 彼女は、相変わらずバイト中も私の頭の中に居座っている。

 そして、相変わらず朝から機嫌が悪い。

 明日は仙台さんがほしいと言った日曜日で、私があげた日曜日だというのに、機嫌が良くならない。


 仙台さんがバイトを始めた頃の私も、こんな風だったのかもしれない。そう考えると仙台さんはなにも悪くないように思えるし、私は彼女に優しくするべきだと思うけれど、機嫌が悪い彼女というのはつまらない。


 自分勝手であることはわかっているが、仙台さんは私に機嫌良く接するべきだし、駄目と言ってもキスしてくるくらいが丁度良いはずだ。


 私がバイトから帰ってきたら、言いつけ通りにちゃんと夕飯を食べたあとで、部屋から出てこない仙台さんというのはあまりにもつまらなくて、面白くない。こんな仙台さんを許してはいけないと思う。


 私が帰ってきたら共用スペースにいてほしいし、私のバイトに文句を言ってきてほしい。


 バイトを始める前だって共用スペースに仙台さんがいないことはあったし、文句を言わない仙台さんもキスをしてこない仙台さんも当たり前に存在していたけれど、今はその当たり前を受け入れたくない。


 身勝手な自分を嫌悪せずにはいられないけれど、私は私の前に仙台さんがいないことに不満がある。


 これは仙台さんが悪い。


 いつも飄々としていて捉えどころがないくせに急に弱った犬のようになるから、気になって仕方がない。


 だから、私は用事がなくても目の前にあるドアをノックしてもいい。慣れないバイトで疲れているし、仙台さんに明日をあげなければならないから今日はゆっくりしたいと思っているけれど、迷わずにドアをノックしてもいい。


 用事がなくても、話すことがなくても、今日は関係がない。 


 私は小さく息を吸って吐いてから、ドアを小さく一回叩く。


「仙台さん、開けて」


 一言添えると、ドアは開かずに「入っていいよ」と返ってくる。命令ではないからドアが開かなかったことに文句を言う権利はないが、不満ではある。


 けれど、部屋に入るという目的を達することは出来るから自分でドアを開けると、仙台さんはテーブルに置いた参考書らしきものとにらめっこをしていた。


 私は彼女に近づき、テーブルの上の本を見る。


「……それって家庭教師用?」


 視線の先にある本は、記憶を探るまでもなく私が高校時代に見たことがあるようなもので、だから、きっと、仙台さんは今、私のためじゃないことをしている。


「桔梗ちゃん用の資料作ってた」


 予想通りの答えが返ってきて、「宮城の用事は?」と平坦な声が付け足される。


「別にないけど、なくてもいいじゃん」


 私は仙台さんの隣に座って、テーブルの上の本を閉じる。


「まだ終わってないんだけど」


 不満そうな声が聞こえてきて「今やらなくても間に合うよね?」と返す。


「間に合うけど、やってる途中」

「……じゃあ、続きやれば」

「私が続きしてる間、宮城はなにするの?」


 私はベッドの上でくつろいでいるペンギンのぬいぐるみを引きずり降ろして、抱える。


「これとお喋りする」


 クレーンゲームの景品で、仙台さんが取ろうとして取れなくて、私が取って彼女にあげたペンギンなら話し相手になるくらい簡単にできるはずだ。でも、私がペンギンと話をする前に仙台さんが話しかけてくる。


「ペンちゃんと話すくらいなら、私と話しなよ。バイトどうだった?」

「忙しい」

「それだけ?」

「澪さんが思ってたよりいい人」


 そう答えると、仙台さんが眉間に皺を寄せた。


 まただ、と思う。


 バイトを始めてから澪さんの話を何回かしたが、仙台さんはあまりいい顔をしない。けれど、仙台さんにとって澪さんは、私にとっての舞香のような存在になる人だ。澪さんが“いい人”であることは重要なことで、眉間に皺を寄せるようなことじゃない。


 本当に、本当にむかつくことではあるけれど。


「まあ、澪は結構頼りになるしね。一緒にいて面白いし」


 仙台さんが軽い声で言って、私が抱えているペンギンの頭をぽんっと叩く。


 こういう仙台さんは面白くない。


 家庭教師の話をしないでほしいと思うように、澪さんの話はしないでほしいと思う。


 澪さんと仲良くするように言ったのは私だけれど、澪さんと会わないでほしいと考えている私がまだいる。澪さんがいい人かどうかは関係なく、仙台さんが澪さんと会うことを私は快く思わない。思えない。思いたくない。


 仙台さんがまともになればいいなんて思わなければ良かったのかもしれない。


 これはずっと消えないもので、抜けない棘のようなものだと思う。


「バイトの話、もう終わり」


 私は楽しくない方向へ向かおうとする話を打ち切る。


 カフェの話をすると、どうしても澪さんが混じり込んでくる。これはあまり良くないことで、こういう話は早く終わらせてしまったほうがいい。


「終わりでもいいけど、もう一つだけ」


 いいよ、というつもりはない。

 でも、いやだ、と言う前に仙台さんが「……能登先輩って来てる?」と付け加える。


「来てる」

「喋った?」

「喋らない。私、キッチンだし。それに澪さんと喋りに来てるって感じだから、キッチンじゃなくても能登さんと話したりしないと思う」

「そっか。前にも言ったけど、もし話す機会があっても先輩の言うこと真に受けないほうがいいよ。あの人、変なことばっかり言ってるから」


 感情の読めない声で仙台さんが言い、私からペンギンを奪う。そして、私がしていたように抱えた。


「……仙台さんって、能登さんとよく喋るの?」

「バイトしてたときはよく話してたけど、大学ではあまり話す機会ないかな」

「よく話してたんだ」


 抱えるものがなくなった私は膝を抱える。


「話しかけてくるから」

「ふうん」


 ぎゅっと手を握って、開く。

 床にぺたりと手をつける。


 このままここにいると、床が抜けて私だけ三階から下へ落ちて、這い上がれない場所に埋まってしまいそうな気がする。


「今日はもう部屋に戻る」


 話したいことがあって仙台さんのところへ来たわけじゃない。用事だってなかったから、ずっとここにいても仕方がない。


 床に置いた手に力を入れ、立ち上がろうとする。

 けれど、仙台さんに手首を掴まれる。


「今日、泊まっていきなよ。宮城の明日、私にくれるんでしょ」


 静かに言って、仙台さんが私の手首を掴む手に力を入れる。


「前にも言ったと思うけど、同じ家で泊まるとかないから。あとあげるのは明日で今日の夜じゃない」

「あとちょっとで明日になるんだし、いいでしょ」

「良くない。明日まで二時間くらいあるじゃん。それに、仙台さんエロ魔人だし」

「宮城、私がなにかすると思ってるの?」

「しそうでやだ」

「……宮城はしてほしくない?」


 仙台さんが腹立たしいくらい真面目な声でつまらないことを言い、私はそんな彼女を睨む。


「してほしいなんて言うわけないじゃん」


 私は手首に張り付いた彼女の手を剥がして、肩を思いっきり押す。


「宮城、痛い」

「痛くしてる。もう部屋に戻るから、変なこと言わないで」

「待ちなよ。どうしたら泊まってくれるのか教えて」

「どんなことしても泊まらない。大体、どうしてそんなに泊まってほしいの」

「一人で寝るのって寂しいじゃん」

「いつも一人で寝てるのに?」

「そういう日ってあるでしょ」


 心当たりがないわけじゃない。

 寂しいというほどではないけれど、過去に何度も一人でいたくない夜があった。


 そのほとんどはここに来る前のことで、仙台さんとルームシェアをするようになってからそんなことを考えることが少なくなったが、部屋がやけに広く感じる日がたまにある。


 私以外誰もいない部屋。

 静かすぎる夜。

 考えたくないことばかりが頭に浮かぶ夜。

 記憶から剥がしたラベルや貼らなかったラベルを探し集めたくなる夜。


 仙台さんの言葉はそういう夜を思い出させるもので、彼女を否定できなくなる。


「……私のほう向かないで壁見て、黙って寝てくれるならそれでいい」


 床を見ながら最大限譲歩した言葉を告げると、隣から文句が飛んでくる。


「壁見てたら目が開きっぱなしになるし、眠れないじゃん」

「……揚げ足とるなら自分の部屋で寝る」

「はいはい。壁見て目を開けながら寝ればいいんでしょ」

「むかつく」

「大丈夫。ちゃんと大人しく寝る」


 仙台さんが静かに言って、私の明日だけではなく明日になるまでの時間も彼女にあげることが決定する。


「お風呂入ってくるから待ってて」

「早くね」


 何分で、と時間を区切ったりはしなかったけれど急かすように仙台さんが言って、抱えていたペンギンを床へ置いた。

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