上手くいかないのは仙台さんのせいだ

第261話

 目が覚めたら、地球が爆発している。


 そんなことを考えていたけれど、地球は爆発したりしない。いや、いつかはするかもしれないけれど、今ではないことは確かだ。


 そもそも寝ていないのだから、目が覚めたら、なんて仮定に意味はない。そういう話をするならば、まず眠る必要がある。


 だから、だから。

 早く眠りたい。

 でも、眠れない。


 今日は最低の一日だったから、眠ってすべてを忘れたいと思う。


 舞香と会うのは楽しい。

 でも、そこに仙台さんが加わると、楽しいよりも他の気持ちが大きくなる。今日が楽しい日になるとは思っていなかったけれど、想像していた以上に良くない日になった。


 こういう一日は眠って忘れてしまうのが一番なのに、一時間経っても二時間経っても眠れない。ずっとベッドに横になっているのに睡魔は遙か遠くにいて、目が冴えている。


「……仙台さんのせいじゃん」


 ぼんやりと部屋を照らす常夜灯を睨んで、はあ、と大きなため息をつく。


 むかつく。

 すごく、ひたすら、むかつく。

 あんなこと、言わなきゃ良かった。


 ――嫉妬した、なんて。


 仙台さんが言いたいことを言えとしつこくしてくるから、考えなくてもいいことがいくつも頭に浮かんで、言わなくてもいいことを言うことになった。渋々言ったような雰囲気になってしまったから、まるで深い意味があるみたいに聞こえた気がする。嫉妬したという言葉に嘘はなかったが、そこに言葉以上の意味を付加したかったわけじゃない。


 嫉妬なんて、誰でもする。

 その言葉にたいした意味はない。

 大げさに考えられても困る。


 ルームメイトが嫉妬したっておかしくはないし、隠しておくようなことではないから、言っただけだ。


 特別なものじゃなかった。


 なのに、変なタイミングで口にしてしまったから、たいしたことのない、誰でもするようなことを、大げさに言ったみたいになってしまった。


 全部、全部、仙台さんが悪い。


 彼女がしつこくしてきたから、頭の中がぐるぐるして眠れなくなっている。


 私は小さく息を吐いて、ゆっくりと吸う。

 ベッドに横になったまま深呼吸をして、頭の中にある余計なことをすべて吐き出す努力をする。


 嫉妬という言葉は、機嫌が良い、悪いの延長くらいの重さしかない言葉に過ぎない。気にするから気になるだけで、忘れてしまえばなんということのない過去になる。


 私はオレンジ色の光が落ちるベッドの上、仙台さんが勝手に“ろろ”と名付けたぬいぐるみを捕まえて頭をぽんと叩く。


「仙台さんの夢の中に入って、記憶消してきてよ」


 黒猫を壁際に置いて、頼んだから、と念を押して目を閉じる。


 影も形も見えない睡魔には頼らず、ただひたすら目を閉じ続けて、闇をまぶたに閉じ込め続けることで眠ろうとするけれど、眠くならない。それでも目を開かずに時間が過ぎるのを待って、待って、待ち続ける。


 何十分か、何時間かわからない時間が過ぎて、スマホを確認すると、たいして時間は経っていなかった。また目を閉じて、しばらく経ってからスマホを見る。


 そんなことを何度も繰り返していると、眠れないまま朝と言える時間になっていた。

 カーテンを開けると、すっきりとしない空が見える。


 青が見えないくらい雲に覆われている。


 灰色の空にため息をついて、ごろりと横になる。

 ベッドの上で時間を潰そうとするけれど、することがない。私は仕方なく体を起こしてそっとドアを開け、共用スペースを見た。


 誰もいない。

 洗面所へ行き、歯を磨いて顔を洗う。

 部屋へ戻って着替えてから、もう一度共用スペースへ行く。


 仙台さんはいない。

 いつになったら起きてくるのかわからないけれど、姿が見えない。彼女の分も朝ご飯を作るべきか迷いながら冷蔵庫を開ける。カチャリ、と小さな音が聞こえて振り向くと、仙台さんが部屋の前に立っていた。


「……おはよ」


 大きくも小さくもない声をかけてから、冷蔵庫を閉める。


「あ、うん。おはよ」


 歯切れの悪い挨拶が返ってくる。


「ご飯は?」

「んー、いらないかな」

「なんで? いつも朝ご飯食べるじゃん」

「まあ、そうなんだけど」


 仙台さんが部屋の前に立ったまま曖昧に笑う。いつもなら呼ばなくても勝手に近寄ってくるくせに、今日の彼女は近寄ってこない。

 どうやらろろは、頼んだ仕事をしてくれなかったようだ。


「具合でも悪いの?」


 眠そうな目をしているけれど、彼女の顔色は悪くない。服もパジャマ代わりのスウェットではなく、大きめのプルオーバーとスカートに着替えている。それでも一応、尋ねてみたら「悪くないよ」と返ってくる。けれど、仙台さんは部屋の前から動かない。代わりに私が動くことにして、冷蔵庫から離れる。


「宮城。どこ行くの?」


 玄関へ行く前に声をかけられる。


「散歩」

「散歩? コートも着ないで?」

「悪い?」

「ご飯は?」

「仙台さん、食べないんでしょ」

「私は食べないけど、宮城は食べたらいいじゃん」

「いらない」


 ご飯は一人で食べても美味しくない。散歩は行きたいわけではないけれど、よそよそしい仙台さんとここにいたくない。


「雨降りそうだけど」

「降ってもいい」


 部屋で見た窓の向こうが灰色の雲に覆われていたから、言われなくてもわかっている。


「風邪引くよ。散歩に行くなら、もっと天気がいい日にしたら?」

「仙台さんとは違うから風邪引かない」


 ただ、コートは着た方が良さそうだと思う。

 もうすぐ三月になると言っても、暖かいわけじゃない。


「……一応、コートは持ってくけど」


 さして行きたくもない散歩のために一言告げてから部屋へ戻ろうとすると、仙台さんと目が合った。


「宮城」


 小さな声が聞こえて、仙台さんが私に一歩近づく。

 でも、彼女の足はすぐに止まってしまう。

 今日の仙台さんは、青が見えない空よりもぐずついている。


 こういう彼女は面白くない。


 私は手を伸ばせば届くくらい仙台さんに近づいて、彼女の首筋に目をやる。

 視線の先、私が昨日つけた印がはっきりと残っている。


 ほんと、むかつく。


 今日は隠しておいてほしかったと思う。

 見れば、昨日の自分を思い出す。


「見えてるけどいいの?」


 なにが、とは言わずに昨日付けた印に触れる。


「いいよ。宮城しかいないし」

「今日、どこにも行かないの?」

「宮城は本当に散歩行くの?」


 質問に質問が返ってきて、私は仙台さんの足を蹴る。そして、くっきりと残っている跡から目をそらして、自分の部屋のドアを開けようとすると声が聞こえた。


「一緒に行くから、私もコート持ってくる」

「雨降りそうなのに?」


 なにが気に入らないのか自分からは近づいてこない仙台さんとは一緒に行きたくない。


「傘持ってくから」

「首、隠さなくていいの?」

「宮城が隠してほしいなら隠す」

「隠さないでって言ったら?」

「このまま行く」


 仙台さんは嘘ばかりつく。


 私の「隠さないで」なんて言葉を受け入れるつもりは、絶対にないはずだ。コートを取ってくるついでにタートルネックの服に着替えてくるはずだから、部屋から出てきた時には私がつけた印は見えなくなっているに違いない。


 今日は印を隠しておいてほしいけれど、隠すなと言って隠されたらそれはそれで腹が立つ。

 私は自分の部屋ではなく、仙台さんの前に立つ。


 指先で印をなぞって、首筋に噛みつく。

 強く、しっかりと、一生消えない跡が付くくらい首筋に歯を埋める。手入れの行き届いた髪から甘い匂いがする。私と同じ香りのはずなのに違う香りに感じられる。


 仙台さんの服を掴んで引き寄せる。

 強くなった甘い香りに負けないように、皮膚を裂くつもりで柔らかな肉にぎりぎりと強く歯を立てる。


 いつもなら痛いと言うくらい噛んでいるのに、仙台さんはなにも言わない。代わりに私の腕に彼女の指が食い込んでいる。

 私は仙台さんの足を踏んで、首筋から唇を離した。


「痛いなら痛いって言えばいいじゃん。……なんなの、今日」

「別になにもないけど」

「なにもないなら、普通にしててよ」

「……普通にしてる」

「してない。なんか変。……昨日、私がすごいこと言ったみたいになってるじゃん」


 いつもと違う仙台さんを見ていると、言わなくても良かった私の言葉を彼女が必要以上に重く受け止めて、深い意味を付加したのではないかと疑いたくなる。


「え、だって」

「今日も、え、って言う。別にたいしたこと言ってないし、普通にしててよ。変な態度取られたら、むかつく」

「ごめん。どうしたらいい?」

「散歩行かないからご飯作って。私、今日は作りたくないから」

「うん」

「そしたら一緒に食べて、あとは好きにしたら」


 いつも通り。

 なにも変わらない一日を過ごしてくれたらそれでいい。そうしてくれたら、昨日のことはなんでもなかったことになる。これから先は、舞香に嫉妬するようなことがあっても、家庭教師の生徒に嫉妬するようなことがあっても、それを仙台さんに言ったりはしない。


「好きにって? 一緒に出かけるとかでもいいの?」

「仙台さんだけ行けば」

「宮城はどこにも行かないの?」

「行かない。あと仙台さんと一緒に映画も見ない。今日は部屋に一人でいる。仙台さんは入ってこないで」


 彼女が調子に乗る前に釘を刺しておく。


「ごはん、お昼と夜は?」

「一緒に食べる」

「わかった。――キスは?」

「しなくていい」

「宮城は、私に普通にしててほしいんでしょ?」

「……そうだけど」


 確かに、キスは珍しいものではなくなっている。

 でも、普通になったキスはいつ普通になったのだろう。

 わからない。

 気がついたら、普通にするものになっていた。


「宮城」


 思考を遮るように、仙台さんの指先が唇に触れてくる。そして、目を閉じる前に唇を塞がれた。

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