第320話

 首筋を跡が付かない程度に吸われる。

 ボタンを外したブラウスの前は開かれ、宮城の手が鎖骨を撫でる。


 水族館へ行った日も、ルームメイトではなくなった宮城にこんなことをされた。あのときと同じように今日も感情が追いつかない。


 唇が離れ、耳たぶに柔らかくキスをされる。

 宮城の手がキャミソールを捲り上げ、脇腹を撫でてくる。


 くすぐったくて、気持ちがいい。


「宮城」


 小さく名前を呼ぶと、首筋に歯を立てられる。


 痛くではなく、優しく。

 跡が付かない程度の強さで。


 ルームメイトだった頃もルームメイトではなくなった今も、気持ちの良さは変わらない。でも、ルームメイトには戻りたくないと思う。


 宮城に“大事なもの”を聞かれて、私は“この場所”だと答えた。あれから彼女の中で、この家が私にとって大事なもので、私が帰って来る場所になって、私たちは“大事なものに住んでる人”という関係になった。


 それは物足りない関係ではあるけれど、私は宮城にとって“大事なものに住んでる人”であることを気に入っている。


 唇が存在を確かめるように首筋を這う。

 舌先が押し当てられて、強く舐められる。


 どうしよう。


 今日は、宮城が楽しいと思い、私に触れたいと思ってくれた水族館へ行った日とは違う。彼女の今日はそれほど楽しいものではなさそうだった。私に触れたいと思っているのは間違いがないだろうけれど、触れ方も違う。


 それでもこのまま続けると、触れあう熱に押し流されるように好きだと言ってしまいそうだ。だったら、そんなことになる前に、心の奥底に沈めてある気持ちをきちんと宮城に伝えたいと思う。


 でも、今日もあの日と同じように、宮城が私から逃げないタイミングではないし、宮城が私の気持ちを確実に理解してくれるタイミングではない。


 わかっている。


 タイミングなんて待っていたら宮城に気持ちを伝えることなんて一生できない。

 それでも言いたくて、言いたくない。


「宮城……」


 好きと続けられたらいいけれど、私が言葉を紡ぐタイミングは宮城によって奪われる。


「仙台さん、静かにして」


 宮城が耳元で囁いて、また首筋を噛む。


 今、好きだと伝えても好きだと返ってくるとは思えない。彼女が私に興味を持ってくれているとわかる言動が増えているけれど、自分の気持ちが受け入れられる想像はできない。


 宮城は簡単に関係を断ち切ろうとする。


 彼女は五千円で繋がっていた関係を卒業で区切り、大学生になって五千円がなくなっても卒業で区切ろうとしている。タイムリミットは今も卒業のままで変わっていない。ルームメイトではなくなっても撤回されることはなかった。


 昔に比べれば繋がりが深くなったけれど、宮城にとっては私の感情ごと埋めてしまえるくらいの深さだと思う。


「いつまで黙ってればいいの?」


 心の奥底に沈めてある気持ちを口にするか決められないまま問いかける。

 卒業までというタイムリミットを早めるようなことはしたくない。


「いいって言うまで」


 理不尽な言葉とともに、脇腹を這っていた手が強く押しつけられる。


 触れている部分が熱くて、理性を留めているネジが溶けて落ちる。肩を押されて、体が傾く。このまま流されてどこまでも行きたくなるけれど、往生際が悪い私の口が勝手に動く。


「順番は?」


 ただの時間稼ぎでしかない言葉を告げる。

 決められない気持ちを整理できるとは思っていない。


「……順番ってなんの?」

「私も宮城に触りたい。順番で言ったら今日は私じゃない?」


 初めてしたときは私から宮城に触れた。

 次は宮城が私に触れた。

 そういう順番でお互いに触れて、最後に宮城とこういうことをしたときは彼女から私に触れた。


「こういうのって順番関係ないと思う。仙台さんがこの前言った通り日を改めたんだし、それでいいじゃん」


 宮城が不機嫌そうに言う。


「順番関係なくても触りたい」


 これは本当で、でも、偽りの言葉だ。

 感情を並べて吟味して、タイミングを計って気持ちを伝えるよりも、私は宮城に触りたくて、触られたい。


「やだ。私がする」


 私の肩を押す宮城の手に力が入る。

 順番と口にしたものの、それにこだわっているわけでもなければ、宮城を拒絶したいわけでもない私の体が床に近づく。


「ちょっと待って」


 柔らかくなった理性を言葉で留めて、宮城を押し返す。


「宮城。私、まだいいって言ってない」

「……やなの?」


 さっきまで強引過ぎるほど強引だった宮城が縋るように言う。


 宮城をじっと見る。


 彼女は捨てられた猫のような目をしていて、「嫌なわけじゃないけど」としか言えない。


「じゃあ、仙台さんはもう喋っちゃ駄目」


 野良猫が断言する。


「なんで」

「澪さんのこと嘘ついたから罰ゲーム」

「嘘?」

「水族館で、澪さんと仲いいじゃんって私が言ったとき、仙台さん“普通”って言ったから。あれ嘘じゃん」


 確かにあの場所でそう言った。

 でも、それは事実で宮城に嘘だと言われるようなことではない。


「嘘じゃない。澪との仲は“普通”だよ」

「普通じゃないと思う。仙台さんは洋服を選ぶのが好きで、家庭教師のバイトも好き。チーズケーキも好きだって言った。青と三毛猫も。……今言ったの、仙台さんがほんとに全部好きなのかわかんないけど。あと、仲がいいのは澪さん。これは間違ってないと思う」


 珍しく宮城が一気に喋って、私のブラウスをぎゅっと握った。そして、小さく息を吐き出すと、強い意志を感じる瞳で私を見つめてくる。


「だから、罰ゲーム。仙台さんはしばらく黙ってて」


 宮城が黙れと言うなら黙るし、宮城がしたいというならそれでいい。


 私は宮城に触れたいと思っていて、触れることを気持ちのいいことだと思っているけれど、宮城に触れられることも好きだし、それを気持ちのいいことだとも思っている。宮城という存在といつも以上に近づけるなら、どちらでもいい。


 でも、嘘をついたと言われることは納得できない。


「宮城はなんで澪と私の仲がいいと思うの?」

「本当にわからないの?」

「わからない」

「仙台さん、高校のときは茨木さんに合わせて雑誌読んだり、笑ってたりしてたじゃん。……でも、澪さんといるときはあんまり合わせてないもん」


 不満そうに宮城が言って、ぼそりと「ああいうの、むかつく」と付け加える。


「じゃあ、澪に合わせればいいってこと?」

「仙台さん、わかってない。嫌だけど、澪さんとは今日みたいにしてればいいと思う。できれば私も仙台さんのほんとの友だちと仲良くしたかったけど、今日澪さんと会って無理だってわかった」


 ブラウスの裾を握った拳が私のお腹をぎゅっと押す。


 強くではないけれど、彼女の中にある不満が伝わってくるだけの力があって、私はその手を掴んだ。


「宮城は澪と仲良くしなくてもいいよ」

「仙台さんは澪さんと仲良くして」


 宮城と話が噛み合わない。


 これまでも話が合わないことはあったが、今日はいつも以上に合わない。それはおそらく宮城が私に合わせるつもりがないからで、私にも譲るつもりがないからだ。


「宮城が嫌だって思ってるのに?」


 掴んだ手に力を入れる。

 ぎゅっと宮城の手を握って、頬に口づける。けれど、宮城はそれが気に入らなかったのか、私の手をべりべりと剥がした。


「私が嫌だと思ってても仲良くしてよ。仙台さんが澪さんと仲良くするの、今もすごく嫌でむかついてるけど、仙台さんは澪さんと仲良くしたほうがいいと思ってる。仙台さんにはそういうことが必要だと思う。あと、さっき言った好きなものも、もっと好きなものができたら教えて。嫌いなものも。仙台さんは私だけのものなんだから、全部ちゃんと報告して」

「……澪と仲良くして、今よりも好きなものと嫌いなものができたら報告すればいいの?」

「そう。ちゃんと人間っぽいことして。そうしたら仙台さんのこと、もっと信用できると思うから。でも、そういう仙台さんにむかつくから、私に“私だけの仙台さん”を見せてよ」


 宮城がまるで今の私が人間ではないもののように言う。


 ただ、彼女が私を信用したいと思っていることは嬉しい。


 それは宮城の信用を完全には得られていないという証拠でもあるけれど、信用を得るために必要なものがわかったのだからそれほど悪いことではない。


 信用を得ようとすると、宮城をむかつかせることになることは大きな問題だし、この流れに納得しているわけではないけれど、この状況で私が選ぶ答えは一つだ。


「……いいよ」


 そう言うと、宮城の手がブラウスに触れた。そして、私の言葉を待っていたようにブラウスを脱がせる。


「宮城が言った通りにする。でも、ここだと体痛いし、ベッドでもいい?」

「うん」


 小さく答えて宮城が立ち上がり、ベッドの上に転がっているペンギンを床に置く。そして、布団をめくってベッドの上にちょこんと座った。私もベッドの上に上がろうとすると、「仙台さんは脱いでから」と文句が飛んでくる。


「もうブラウス脱いでるけど」

「まだ脱ぐものあるじゃん」


 宮城はすぐに私を脱がそうとする。


 こんなことはずっと前から知っていたことで、今さら躊躇うことではない。私は過去に何度も彼女の前で服を脱いでいる。


 だから、今日も言われた通りに脱ぐ。


 キャミソールを。

 スカートを。


 心臓がドクドクとうるさいけれど、脱いで畳まずに床の上へ置く。でも、私を覆うものの一部がなくなったくらいでは宮城が満足しないことも知っている。


「下着も」


 予想通りの言葉が飛んでくる。


「……恥ずかしいんだけど」

「知ってる。仙台さん、顔赤いもん」


 灯りは消していない。

 宮城の顔がよく見える。


 それは宮城からも私の顔がよく見えているということで、彼女の言葉が嘘ではないとわかる。自分でも頬が熱いと感じているから、赤くなっていないのならおかしいくらいだ。


 新しい関係になってから宮城が近くて、こういうときに平常心ではいられない。もちろん、今までだって平気だったわけではないけれど、今日は心臓が体から飛び出して逃げ出しそうなくらい勢いよく動いている。


「仙台さん、早く脱いで」


 当然のように命じられ、私はベッドの上に座る。


「脱いでほしいなら、宮城が脱がせなよ」


 自分の手を上手く動かせる気がしないし、どうせ脱がなければいけないのなら宮城に脱がされたい。


 ベッドを軋ませ、宮城が距離を詰めてくる。

 抱きしめるみたいに私に手を回し、静かにブラのホックを外して胸を覆っている布をベッドに落とす。


 自分だけ脱がされるというのは何度経験しても落ち着かない。


「宮城は?」

「脱がない」

「電気は?」

「消したら、仙台さんのほかの人に見せない顔が見られないから駄目」


 そう言いながらも、宮城の視線は私の顔ではなく覆うものがなくなった胸に向かっている。遠慮なく見るものではないと思うが、宮城は遠慮なんてしてくれない。


「すけべ」


 罰ゲームは喋らないことだけれど、宮城の視線が気になって喋らずにはいられない。文句のついでに肩を押すと、彼女の手が私の首に触れた。


「……あと、ほかの人に聞かせない声出して」


 喉の上をゆっくりと指先が滑る。


「喋っちゃいけないのに?」

「そういう声は出していい」

「……宮城ってほんとに変態だよね」

「そういう罰ゲームだから」

「まあ、いいけど。でも、その罰ゲーム受け入れる代わりに、今だけでいいから私のこと葉月って呼んでよ」

「気が向いたら」

「宮城はほんとずるい」


 でも、ずるいから彼女を受け入れられる。


 私はずっと宮城とこういうことをしたかった。

 宮城に触れたかったし、宮城に触れられたかった。そのどちらかが叶う日を待っていた。


 今日のような強引さがなかったら、こうはならなかったと思う。


「……黙るから、して」


 小さく告げて宮城の腕を引っ張り、何度も宮城を夢に見たベッドに横になる。


 ずるいのは私も同じだと思う。


 罰ゲームに甘えて黙っていれば気持ちを整理して伝える必要がないし、宇都宮のバイト先で能登先輩となにを話したか聞く必要もない。言いたいことを飲み込んだまま、宮城が友だちとはしないことで、私としかしないことができる。


 都合のいい解釈でしかないことはわかっている。

 今は宮城に流されたい。


「仙台さん」


 葉月と呼んでほしいと言ったのに呼んでくれない宮城が私に覆い被さり、キスをする。


 唇に。

 首筋に。

 鎖骨に。


 触れるだけのキスをいくつも落として甘噛みしてくる。


 何度も、何度も、何度も。

 繰り返される。


 今日の野良猫は随分と行儀がいい。ときどき確かめるように指先で私の顔に触れてくる以外はキスと甘噛みしかしてこない。


 こういうのは困る。

 キスは嫌いではないけれど、キスだけされたいわけではない。


 宮城の黒い髪を指で梳いて軽く引っ張ると、首筋に歯が立てられる。でも、跡が残るほど噛んだりはしない。澪がキスマークの話をしていたから気にしているのかもしれないが、こんなときに所有権を主張しない宮城は物足りない。


「宮城」


 黒髪を撫でて、小さく呼ぶ。

 罰ゲームは受け入れたけれどピアスに誓ってはいないから、ほんの少し喋るくらいは許されると思う。


 宮城の手が脇腹を撫でる。

 口を開いたことへの文句はない。

 唇が首筋から滑り降り、心臓の上辺りに押しつけられて跡が残りそうなほど強く吸われる。


 たぶん、三つ。


 跡を付けられ、胸の上に手が置かれる。

 体が勝手にびくりと動き、無意識のうちに宮城の肩を掴む。ただ触れられただけなのに大げさな反応をした自分の体に小さく息を吐くと、宮城が顔を上げた。


 視線が合う。

 掴んだ肩を離すと、宮城が私の腰の上辺りに座る。


 手が胸に伸び、柔らかく触れてくる。


 彼女は私が選んだ可愛い服を着ている。カットソーの裾を掴むと宮城の手が胸に強く押し当てられて、体が震える。たいした刺激ではないけれど、宮城に見られているせいか体が過剰に反応してしまう。


 あまり面白いことではない。

 彼女の目から逃れたくて顔を隠そうとすると、腕を掴まれた。


「仙台さん。顔、隠さないで」

「無理」

「見せて」


 そう言うと、宮城が私に目を合わせてくる。


 恥ずかしいとか、気まずいとか。


 そういう私の気持ちなんておかまいなしで見つめてくるから、身の置き所がない。のぼせているみたいに体が熱くなる。


 宮城の手が胸の上を這う。

 指先が胸の中心で止まる。


 明らかに感触が違うであろうそこを撫でてきて声が漏れそうになり、唇を噛む。宮城の視線は私に絡みついている。


 私がほかの人に見せない顔を見たいというようなことを言っていたが、こんな風に見るのは話が違うと思う。彼女が今していることは“見る”ではなく“観察”に近い。


「……見るの、やめて」


 宮城に見られて困るものはないけれど、体を触られている様子を観察されるのは困る。彼女の手や視線に反応しようとする私をすべて隠してしまいたくなる。


「やだ」


 はっきりとそう言うと、宮城が緩やかに手を動かす。

 皮膚の下にある骨を確かめるように脇腹を撫で上げ、肩に触れる。


「仙台さん、気持ちいいところ教えて」


 耳の裏に手を這わせながら、宮城が馬鹿みたいなことを言う。


「しゃべるの、駄目じゃなかった?」

「私が聞いたことには答えて」

「へんたい。わがまますぎるでしょ」

「仙台さんが気持ちがいいところってどこ? 言って」


 人の話を聞くつもりのない宮城が私を見ながら聞いてくるけれど、答えるにはこの部屋は明るすぎる。天井から降り注ぐ光が理性を照らし、外へ出ようとする言葉を押しとどめる。


「ここは?」


 宮城が視線を私の顔から外さずに、鎖骨に指を這わせてくる。答えずにいると、指先を胸まで滑らせて「じゃあ、ここは?」と尋ねてくる。


「……近くにきてくれたら答える」


 宮城は答えるまで聞いてくるし、私には答えないという選択肢はない。だったら、せめてなにかと引き換えにしたい。


 灯りが付いていることも、見られていることも、許せるけれど、宮城の体温が遠いことは許せない。こういうときはお互いの体温が混じるくらい近くにいるべきだ。


 私は宮城の腕を掴んで引っ張る。

 視界の大部分を占めていた天井が消え、宮城の顔が近づく。


 背中に腕を回して宮城を掴まえる。

 首筋に噛みつくと「仙台さん」と呼ばれて、魔法のように喉に引っかかっていた言葉がするりと出てくる。


「宮城が触ったところ全部気持ちいい」

「それじゃわかんない。一個ずつ教えて。……ここはどう?」


 宮城が酷いことを言って、耳に歯を立ててくる。


「……きもちいい」

「なら、ここは」


 鎖骨の上を指が滑り、唇が押し当てられる。

 指が滑った後を舌がなぞり、強く唇が吸い付く。


「きもちいいよ」


 小さく答えると、宮城の唇が心臓の上に印をつける。そして、一度唇が離れ、今度は胸の中心を吸われる。


「んっ」


 思わず声が漏れる。

 宮城は顔を上げない。

 それどころか、唇がくっついたところに歯を当ててくる。


「そういう、の、していいって、いってない」


 理性を舐め取るように舌先が硬くなった部分に何度も触れ、反射的に宮城の額を押す。


「気持ちよくないの?」


 唇が触れていた部分に指先が這う。


「いわな、くても、わかるでしょ」

「言って」


 短いけれど、強い口調で言われて「きもちいい」と答える。


 肋骨の上に唇がくっつく。

 跡を付けるように吸われる。

 脇腹に歯を立てられる。

 また胸に舌が這う。


 合間に気持ちがいいか尋ねられる。


 そこも、そこも、全部。

 気持ちがいい。


 繰り返される質問に同じ答えを返し、宮城の印が増えていく。呼吸が浅くなり、返す声が掠れ、途切れる。宮城以外の誰にも聞かせられないような声が漏れ出る。心臓だけが駆けだして私を置いていく。息苦しくて、宮城を掴む。


 体を這う指が気持ちいい。

 押し当てられる舌が気持ちいい。

 体温が気持ちいい。


 私の中に宮城の熱が入り込んで体の奥に向かっていく。


「もっと、して、志緒理」


 名前、と宮城が言いかけて、私の肩を強く噛む。

 文句は聞こえてこない。


 宮城の手が腰を撫で、足の間に向かう。


 下着の中に彼女の手が入り込み、体に張り付いた布が剥がされ、ほかの誰にも触ってほしくない部分に辿り着く。


 でも、指は止まったまま動かない。


「……大丈夫?」


 宮城が何度も繰り返した質問ではなく、違うことを聞いてくる。

 たぶん、それは彼女が触れている部分のせいで、そこは大丈夫ではないことになっている。


「つづけて」


 宮城を引き寄せて抱きしめる。


 ――大丈夫じゃないから続けてほしい。


「うん」


 小さな声が聞こえて、指先が押し当てられる。

 いつもより高い声が出て、宮城の耳を噛む。


 ゆるゆると指が動かされ、体の奥から宮城と私の熱が混じり合ったドロドロとしたものが溢れ出る。緩やかに動く指が宮城しか知らない場所を撫でさすり、吐き出す息が熱を持つ。


「仙台さん、声聞きたい」


 宮城の言葉に不規則だった呼吸が整えられないほど乱れて、唇をきつく噛む。


 聞かせたくない。


 今の私から出る声は自分の声とは思えないもので、できることならずっと唇を噛んでいたい。


「仙台さん」


 ねだるように言われて、「しおり」と呼ぶ。


 熱に浮かされたような声は聞くに堪えないもので、宮城の耳を塞ぎたくなる。でも、彼女はねだるように「仙台さん」と私を呼ぶ。


「……はづきって、よんで」


 宮城の指先が滑らかに動き、私を強く擦る。

 けれど、声は聞こえてこない。


「しお、り」


 小さく呼ぶ。

 宮城はなにも言わない。

 だから、もう一度「しおり」と呼ぶ。


「……葉月」


 私の友だちは誰でも当たり前に呼ぶ名前。

 でも、宮城が口にすると違うものに聞こえる名前。


 ほかの誰ともしないことをしているときに呼ばれる名前は、私の心に焼き付く。


「葉月、気持ちいい?」


 口にしなければ不安だと言わんばかりの声で尋ねられ、「きもちいい」と答える。


「はづき」


 野良猫が私に体をすり寄せて囁く。


 何度も、何度も。


 八月を意味する名前は、宮城に呼ばれるたびに体の奥底に刻まれて、消せないものになっていく。私に刻まれた名前は宮城だけのもので、ほかの誰のものでもない。宮城の声で書かれて、くっきりと跡になって残り続ける。


 これは名前に特別な意味を付加する行為だ。


 私を表す名前を誰とも違う呼び方で呼ぶ宮城に、私はこの先ずっと囚われ続ける。


「はづき」


 誰にも消せない、消させたくない印が刻まれる。


 呼ばれるたびにドロドロしたものが溢れ、宮城を汚す。私と宮城が混じり合って離れられなくなるほど、彼女に纏わり付く。


「しおり、もっ、と」


 友だちが呼ぶ“葉月”はいらない。

 でも、宮城が呼ぶ“葉月”はずっとほしい。


 友だちがいらないわけではないけれど、今の私には宮城がいればそれでいい。


 今まで友だちと呼べる人は何人もいたけれど、友だちはその場を上手く収めるためのもので、それなりに楽しく暮らすためのものでしかなかった。けれど、それで良かった私を宮城が変えた。


 私は宮城が“友だちを作る私”を望むなら、それに近づく努力はする。


 だから、もっと――。


「はづきって、よんで」


 宮城の耳に噛みつく。


「はづき」

「も、っと」

「はづき」


 宮城の声が体の奥に隠れている理性を引きずり出して砕き、粉々にする。名前を呼ばれた数だけ、理性が消えて、私の全身が宮城に向かう。


 目が、耳が、腕が、手が、声が。


 宮城を求めて、べたべたとしたもので宮城をくるむ。


 もっと宮城を汚したい。

 私がどれだけ宮城を好きか伝えたい。

 伝えても信じないだろうけれど、伝えたい。


 その勇気が今は出ないけれど、いつか、どこかで、飽きるほど好きだと言いたい。


「はづき」


 指が強く押し当てられ、動く速度が上がる。

 私の熱が宮城にまとわりついて溶かそうとする。


「……し、おり。そのこえ、好き」


 自由に喋ることは許されていないけれど、想いの一端だけを口にする。そして、伝えた想いを誤魔化す言葉を付け加える。


「だから、もっと、よ、んで」

「はづき」


 触れあっていた時間はそれほど長くはなかった。


 それでも宮城に触れたくて触れられたくて仕方がなかった時間が長すぎて、体は性急に上り詰めていく。


 宮城が汚れれば汚れるほど、苦しくなる。

 息を吸っているのか吐いているのかわからない。

 酸素が足りなくて、宮城を呼ぶ。


 志緒理、志緒理、志緒理。


 意識が飛びそうになって、宮城の背中に爪を立てる。

 そのくせ、触れあっている部分から感じる熱は鮮明で、宮城が私を溶かし、宮城の輪郭が私に溶ける。


 熱くて、苦しくて、熱い。


 全部が一緒になって私を覆う。


「はづき」


 縋るように耳元で囁かれ、ただひたすら気持ちが良くて、視界が白く塗られて、私は宮城に噛みついた。



 体から力は抜けている。

 呼吸はすぐには整わない。

 視界がぼんやりしている。

 服も脱ぎっぱなしで着ていない。


 私は隣で横になっている宮城に手を伸ばして、頬を撫でる。


 じっと私を見ている彼女と目が合う。


「もっと、してもいいよ」


 掠れた声で告げると、「もういい」と返ってくる。


「私が触るのも駄目?」

「……今度でいい」


 予想していなかった答えに思わず「え?」と聞き返しそうになって、出かかった言葉を飲み込む。


 聞き返せば今の言葉はなかったことになる。

 約束を強要すれば逃げる。


 私の大事な場所、宮城がいる場所で。


 ほかの誰ともできないことをする日は今日である必要はない。

 十日後でも一ヶ月後でもかまわない。

 今度がくればそれでいい。


 でも、今度がきた後も私は宮城と一緒にいたい。


「じゃあさ、今はお願い一つ聞いて」

「お願い?」

「そう」

「なに?」

「志緒理にここにいてほしい」

「志緒理って――」


 文句を言いかけた宮城の手を掴む。


「いいでしょ、これくらいのお願い。もうしばらくでいいからここにいなよ」


 宮城の手は逃げない。

 だから、私は私で汚れた宮城の指先にキスをした。

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