今日の仙台さんは私だけしか知らない
第321話
仙台さんはいつも綺麗だ。
今日、この部屋で澪さんと喋っていた仙台さんも綺麗だった。
でも、私だけの仙台さんが私だけとしかしないことをしているときや、私の隣で私だけを見ている今のほうがもっと綺麗だと思う。
電気を消さなくて良かった。
ベッドに横になった仙台さんが良く見える。
鎖骨も、胸も、お腹も。
灯りに照らされた彼女は本当に綺麗だと思う。
私の顔も見えていることは気になるけれど、彼女が見えているほうが大事だ。ここにいる仙台さんは私だけのもので、私だけしか知らない仙台さんだから、全部、全部、しっかりと目に映しておかなけばいけない。
そして、せっかく隣にいるのだから、彼女の声を聞いて、体温を感じなければいけない。
「……仙台さん」
葉月。
そう呼ぶべきかもしれないけれど、葉月と呼ぶ時間は終わった。もうどうでもいいことかもしれないが、私が仙台さんのことを“葉月”と呼んだら、舞香も“葉月”と呼ぶことになる。それはやっぱり許せない。
澪さんも仙台さんのことを葉月と呼ぶけれど、彼女は私が会ったときから仙台さんを葉月と呼んでいた。舞香とは明確に違う。
「仙台さんじゃなくて、葉月」
不満そうな声で仙台さんが訂正してくる。
「呼ばない」
舞香の前では葉月と呼ばないという方法もあるけれど、日常的に葉月と呼んでいたらいつか舞香の前でも呼んでしまうに違いない。だから、特別なときにしか呼びたくない。
「仙台さん。手、はなして」
私の手は、仙台さんにずっと掴まれたままになっている。
「なんで?」
「手を拭いてきたいから」
ついさっき酷く濡れて、今は乾きかけてきた手に視線をやる。
私に纏わり付いた仙台さんの名残は、慌てて拭き取らなければいけないものじゃない。汚いとは思わないし、ずっとこのままでもいい。でも、この手で仙台さんに触れると綺麗な彼女を汚してしまう。
「仙台さん」
掴まれたままの手を自分のほうへ引く。
でも、仙台さんの手が離れない。
「はなさない」
小さな声が聞こえてくる。
こういう彼女は珍しくて、可愛い。
「なんで?」
「志緒理が私に触ったって証拠だから」
私に目を合わせ、仙台さんが羞恥心の存在を忘れたようなことを言う。彼女からしたら「宮城が聞いたから答えた」だけのことかもしれないけれど、心の中にしまっておいたほうがいいこともある。
「もう志緒理って呼ぶのなしだから。……あとそういうこと言うの、恥ずかしくないの?」
「恥ずかしいけど、言わないと拭いちゃうでしょ。気持ち悪いなら拭いてきてもいいけど」
「気持ちは悪くないけど、このままだと仙台さんに触れない」
「そのまま触られたい」
留守がちな彼女の羞恥心は、どこかへ出かけたまま帰ってきていない。たぶん、理性も出かけたままだ。
「拭いてからにする」
「……宮城、そのまま触りなよ」
志緒理と呼ぶことを禁じたのは私だ。
でも、宮城と呼ばれると胸に小さな傷ができたみたいに痛い。放っておくと膿んで、腐って、痛みも感じなくなるくらい悪くなりそうで心の中で「葉月」と呼ぶ。
私は、私だけの仙台さんを見て、聞いて、感じたのにまだ足りないと思っている。
「じゃあ、じゃんけん。宮城が勝ったら手を拭いてきていいよ」
「じゃんけんはしない」
「じゃんけんしないなら、もう少しだけ大人しくここにいて」
じゃんけんは面白いものじゃない。
仙台さんは正当じゃない手段を使って、私を裏切る。
だから、彼女を信じることができなくなる。
「ここにいるから手をはなして」
そう言って仙台さんの足をちょこんと蹴ると、掴まれていた手が自由になる。
手を伸ばして、彼女の心臓の上にそっと置く。
私の心臓がどくんと鳴る。
でも、仙台さんの心臓の音は聞こえない。
胸に耳をつけたら聞こえるのかもしれないけれど甘えているみたいになりそうで、代わりに強く手を押しつけてみる。
「またする?」
仙台さんが優しく微笑む。
「しない」
「宮城のけち」
心臓の上に置いた手を這わせて、喉に触れる。小さく「仙台さん」と呼ぶと、「なに」と返ってきて喉が震える。指先に感じる声が気持ちが良くてまた「仙台さん」と呼ぶと「宮城」と手が震えて、彼女の喉を撫でる。
「宮城、くすぐったい」
「触られたくない?」
「触って。宮城に触られるの好きだから」
仙台さんが私を見てはっきりと言う。
彼女のこういう“好き”は好ましいものだけれど、不安にもなる。彼女の好きは大抵が曖昧で、本当にそう思っているのか疑わしい。
「仙台さん、なにか喋って」
「なにかってなに?」
「なんでもいい」
「なんでもいいが一番困るから、なにか指定しなよ」
「……なら、ハンバーグの作り方とか」
「宮城、本当にハンバーグ好きだよね」
「仙台さんは?」
「美味しいし、好きだよ。ハンバーグ」
仙台さんは私が好きなものを好きだと言い、どこへ行っても私しか見ていない。水族館では魚を見ないし、動物園では動物を見ない。言えば見てくれるけれど、あんなのは見ているうちに入らないと思う。どんなものにも興味があるようには見えなくて、ときどき怖くなる。
仙台さんはどこにいても、そこにあるものにはそれほど興味を持たない。私だけのものであることを証明するように、私を見る。
私はそういう仙台さんであることを望んでいるけれど、そういう仙台さんであり続けてはいけないと思っている。
「仙台さん。ハンバーグの作り方、話して」
静かに喉に指を這わせると、仙台さんが「まずは材料からね」と言ってハンバーグの作り方を話しだす。
指先に仙台さんの声が伝わってくる。
私のためだけに震える喉が気持ちいい。
仙台さんは、たくさんのものの中から私だけのものになるべきだと思う。
好きと嫌いがあって。
友だちがいて。
いくつもの選択肢の中から、私だけを選ぶべきだ。
そうでなければ怖い。
私が彼女にとって興味のないどうでもいいものになった日のことを考えて、不安になる。
仙台さんとお母さんは違う。
わかっているけれど、置いていってもいいものになってしまう日が怖い。
私は仙台さんから手を離して、乾きかけた指を舐める。
「ちょっ、宮城。汚いからやめなよ」
ハンバーグの作り方が途切れ、文句が飛んでくる。
「いいじゃん、別に」
「良くない」
そう言うと、仙台さんが私の手をぎゅっと握った。
「はなして」
「駄目」
小さな声とともに、仙台さんが私の指先に唇をくっつける。
彼女はもう少し“まとも”になったほうがいい。
選択肢を作ることは、仙台さんを作ることでもある。
「仙台さん、すぐ変なことする」
「宮城もでしょ」
私と同じように、彼女にも好きと嫌いがあって、友だちくらいいたほうがいい。
私は舞香がいることで随分と救われている。そして、仙台さんにとってのそういう存在を許すべきだと思っている。
でも、まともになったら私のことなんでどうでも良くなって、私だけの仙台さんではなくなってしまいそうだとも思う。
私は私だけしか見ない私だけの仙台さんを望んで否定しながら、まともな仙台さんも否定している。
「仙台さん、目閉じて」
「閉じなくてもキスできるでしょ」
「キスするって言ってないんだけど」
「違うの?」
「いいから閉じて」
仙台さんが大人しく目を閉じる。
私は心の中の不都合をねじ伏せて、仙台さんに唇をくっつけた。
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