第104話
目覚まし時計はかけ忘れた。
スマホのアラームもセットした記憶がない。
けれど、目が勝手に覚めて体を動かすと、仙台さんが隣にいた。
「……なんで」
私は、一度目を閉じてから思いっきり開く。
目に、すやすやと眠っている仙台さんの顔がはっきりと映る。
ぼんやりとした頭で記憶を辿る。
昨日、仙台さんが家に来て、一緒にご飯を食べて。
彼女はそのまま泊まっていった。
何故なら、私が仙台さんに泊まっていけばと言ったからだ。
この記憶は正しい。
そして、正しいと認めたくない記憶も見つかる。
――仙台さんが私の隣で眠っている理由。
それは、彼女のために敷いた布団に私が自ら入って眠ったからだ。
「体、痛いじゃん」
二人で眠るには狭い布団に並んで寝たせいか、関節がギシギシと音を立てそうになっている。
私は小さく息を吐いてから手を伸ばして、すぐ側にある前髪を軽く引っ張ってみる。
「んー」
むにゅむにゅと口が動いて、言葉にならない声が聞こえてくる。
けれど、仙台さんは起きない。
指先で頬に触れて、顎の先まで撫でる。
ぐっすりと眠っているのか、彼女は身じろぎひとつしなかった。
「……葉月」
そっと名前を呼んでみるけれど、なにも言わないから長い髪を一房手に取る。手元に引き寄せて、校則に違反しているにもかかわらず決して怒られない少し茶色い髪に唇で触れる。
昨日は気がつかなかったけれど、手触りの良い髪から私と同じ匂いがする。
唇を離して、少しだけ仙台さんに近づく。
髪だけじゃなく、体からも私と同じ匂いがする。
私の服を着て、私と同じ匂いがするこの仙台さんは、私だけしか知らない。私だけの仙台さんと言ってもいいと思う。でも、こういう仙台さんが眠っている姿を見ることはきっともうない。
私は手を伸ばして、スウェットの首元からネックレスのチェーンに触れる。
約束の日が近づいている。
冬休みはすぐに終わるし、受験だってすぐに終わる。カレンダーを数枚破れば、あっという間に卒業式だ。
その日がくれば高校生活が終わって、嫌でも新しい生活が始まる。
小さく息を吐く。
チェーンの上、指先を這わせると仙台さんがぴくりと動いて、心臓が止まりそうになる。慌ててネックレスから手を離して、静かに布団から抜け出す。
音を立てないように着替えてから、キッチンへ向かう。
冷蔵庫の中身は開けるまでもなくわかっているけれど、一応開けて確かめる。やっぱり、ほとんどなにも入っていない。
私は冷凍庫から食パンを出して、そのままトースターに突っ込む。お皿とグラスを用意して冷蔵庫からオレンジジュースを出すと、呼びに行く前に仙台さんがやってきた。
「おはよ。なにやってるの?」
眠そうな声で言って、スウェットを着たままの仙台さんがトースターに視線を向ける。
「おはよ。見たらわかると思うけど」
「もしかして、朝ご飯の用意?」
「もしかしなくても朝ご飯」
「……宮城。私、午後から予備校あるから雪降ったら困るんだけど」
「食べたくないなら、そう言いなよ」
私は失礼なことを口にした仙台さんの足を軽く蹴ってから、パンを取り出してお皿にのせる。
「冗談だって。着替えてきていい?」
仙台さんがスウェットの裾を引っ張りながら言う。
「駄目。もうパン焼けた」
カウンターテーブルにお皿を置いて、オレンジジュースとバターを取りに戻る。どういうわけか仙台さんもついてきて、冷蔵庫の中を覗き込んでくる。
「ジャム、あったよね?」
耳もとで声が聞こえて、私は仙台さんの額を押した。
「あるけど、賞味期限切れてるかも」
「マジで?」
「バターあるし、いいじゃん」
冷蔵庫の奥から取り出した容器を渡すと、仙台さんが必要以上に残念そうな顔をする。
「一緒に塗ったら美味しいのに」
「太るよ」
「まあ、そうだけど。で、賞味期限は?」
問われて、瓶に書かれた数字を確かめる。
「ギリギリいける」
そう言って、ジャムも渡して冷蔵庫を閉める。オレンジジュースをグラスに注いでいる間に、仙台さんがバターとジャムをカウンターテーブルの上へ置く。グラスを持って行くと、彼女は椅子に座って待っていた。
豪華とは言えない朝食に向かって「いただきます」と声を揃えて言ってから、パンにバターを塗る。一口囓ると、バターの上にジャムを塗り終えた仙台さんが私を見た。
「宮城も塗ったら」
ジャムの瓶がテーブルの上を滑って私の元にやってくる。
お店ではバターとジャムを一緒に塗ったパンをよく見るけれど、私には二つを同時に塗る習慣はない。
バターはバター、ジャムはジャム。
別々に塗ったパンで十分だと思う。
けれど、仙台さんが期待に満ちた目で私を見てくるから、バターの上から控え目にジャムを塗って囓る。
パンの耳がサクリと音を立て、ミルクの風味と苺の味が口の中に広がる。サクサクと食べ進めていくと、バターの塩気とジャムの甘さが程よく混じり合う。
「美味しい?」
「思ったより」
今度食べるときはもう少しジャムを塗ってもいい。
そんなことを考えながら答える。
「良かった」
仙台さんがにこりと笑って、オレンジジュースを飲む。
そう言えば、夏休みはフレンチトーストを一緒に作って食べた。それ以外にも、この場所で仙台さんが料理を作って、一緒に食べるということを何度もしている。振り返れば、食事と仙台さんは深く結びついている。
一緒に食べることが当たり前のことになっていて、仙台さんと会わなくなったら食事がつまらないものになりそうだと思う。
朝も夜も一人で食事をする。
何年もそうしてきたのに、仙台さんのせいで昔に戻りたくないなんて思いが強くなっている。
私は、グラスを空にする。
残っているトーストもすべて胃の中に収めてしまう。バターとジャムに少し焦げたパンが混じり合って、体のどこかに開きかけた穴を塞いでいく。
「洗っておくから、着替えたら」
お皿を片付けながら仙台さんに告げる。
「今日、絶対に雪降るでしょ」
「着替えたくないなら、その格好で今すぐ帰れば」
「予備校までまだ時間あるし、着替えてくる」
仙台さんが欠片になったトーストを一口でぱくりと食べて、立ち上がる。そして、彼女は部屋に戻り、私は一人になる。
仙台さんが使ったお皿とグラスを下げて、お湯を出す。
泡だらけのスポンジで食器を洗いながら、時計を見る。
あと数時間。
昨日、仙台さんがこの家に来てからそれほど時間が経っていないような気がするけれど、あと数時間もすれば私はまた一人になる。なんとなく寂しいような気持ちになっているのは、一晩中側にいた誰かが今晩はいないとわかっているからだ。
仙台さんが予備校へ行くことは昨日よりもずっと前から決まっていることだし、今晩も泊まっていくなんてありえない。わかっているけれど、彼女が帰ってしまうことはとても面白くないことのような気がする。
私は食器を全て洗って、お湯を止める。
部屋に戻ると、メイクまで終えた仙台さんが待っていた。
「時間あるし、勉強しよっか」
テーブルの上に参考書を広げながら、仙台さんが言う。
「するけど……」
「けど?」
「今日の分のキスはなしだから」
隣に座って答えると、仙台さんが怪訝そうな顔をした。
「なんで?」
たぶん、わかっていて聞いている。
昨日、勉強を教えた対価だと言ってあれだけキスをして、今日も対価を要求するなんて強欲すぎると思う。
「回数制限。昨日、今日の分もした」
「回数、聞いてないんだけど。その回数って何回なわけ?」
「仙台さんには教えない」
「なにそれ。わからなかったら、回数以内にできないじゃん」
「私がダメって言ったら終わり」
参考書を広げて、並んだ文字に視線を落とす。
何回なんて決めていないから答えられないし、決めたところで仙台さんはその約束をすぐに破るから意味がいない。それに昨日みたいにキスをされたら、なにかが起こりそうで絶対にしたくない。
「ほんと、宮城って自分勝手だよね」
「仙台さんだってそうでしょ」
顔を見ずに答えると、「まあ、否定はしないけど」と隣から聞こえてきて会話がぷつりと途切れる。
そのままなにか喋るわけでもなく静かに勉強をしていると、あっという間に午後になって二人でお昼を食べる。すぐに仙台さんが帰る時間になって、そろそろ行かないとという声が聞こえてくる。
「下まで送る」
コートと鞄を持った仙台さんに告げる。
「寒いからいいよ」
「大丈夫。すぐ戻るから」
クローゼットからダウンジャケットを出して羽織ると、仙台さんが「じゃあ、下まで」と言った。
二人で玄関を出て鍵を閉める。
マンションの廊下を歩いて、エレベーターに乗る。
エントランスを通って外へ続く扉を開けると、びゅうっと風が吹き込んでくる。思わず首を縮こめると、後ろから声が聞こえてきた。
「さむっ」
一歩外に出ると、確かに思っていた以上に寒い。
吐き出す息が白かったりはしないけれど、太陽も雲も遠くに見える。空は氷山の色に似た薄い青で染まっていて、見ているだけで体が震える。
「ここでいいから。泊めてくれてありがと」
仙台さんが寒そうにコートのポケットに手を入れてから、「じゃあね」と付け加える。
いつもならこのまま別れて、私はマンションの中に戻る。
けれど、今日は歩き出そうとしている仙台さんの腕を掴んだ。
「宮城?」
言い忘れたことがあるわけでも、言わなければならないことがあるわけでもない。勝手に手が動いて仙台さんの腕を掴んだだけだから、口にする言葉が思い浮かばない。そのくせ手を離すこともできないまま、私は仙台さんをじっと見る。
「予備校、遅刻する」
そう言って、仙台さんがポケットから手を出す。そして、彼女を離せずにいる私の手を掴んだ。
「遅刻するんじゃないの?」
「うん、だからもう行く」
今にも歩き出しそうなことを言うけれど、仙台さんは歩き出さないし、手も離さない。
「宮城、次は来年?」
仙台さんが掴んだ手をぎゅっと握ってくる。
「そのつもり。勉強教えてほしい日決めたら連絡する」
「わかった」
握られた手が離される。
仙台さんは優しくない。
よく知っていることだけれど、仙台さんは勉強が大事で、予備校が大事で、私のことなんてそれほど大切には思っていない。だから、私はまたあの家に一人きりになる。
「じゃあね」
仙台さんが歩きだす。
「またね」
私の声に応えて手が振られる。
仙台さんの背中が小さくなっていく。
一人でいることには慣れているのに、仙台さんがずっといた部屋にこれから一人で戻ると思うと酷く憂鬱な気分になった。
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