第277話
「今日、どこに行く?」
仙台さんが三毛猫の箸置きに箸を置いて言う。
私は数日前の自分を呪いながら、朝食のバターとジャムを塗ったトーストを囓る。そして、それをゆっくりと咀嚼して飲み込んでから、仙台さんを見ずに尋ねた。
「どこって?」
「今日、出かけるんでしょ?」
弾んだ声で質問に質問を返されるけれど、答えを返すことができない。
この前はどうかしていた。
私は仙台さんに向かって、日曜日にどこかへ一緒に行きたいと言うような人間じゃない。家にずっと一人でいたせいで、私のどこかが変になってしまって、おかしなことを言ってしまっただけだ。できれば、あの日の言葉をトーストのように飲み込んで、なかったことにしてしまいたいけれど、口に出した言葉は飲み込めないし、胃袋に消えたりはしない。
「宮城は行きたいところないの?」
仙台さんは、黙ってやり過ごすことを許してくれない。
「……ない」
仕方なく短く答えて、トーストを囓る。
相手が舞香なら行きたいところをいくつも挙げることができる。でも、仙台さんが相手だと行きたいところが頭に浮かばない。
「それ、私が決めていいってこと?」
煮え切らない私に怒りもせずに言う仙台さんの顔を見ると、バターとジャムを塗ったトーストを半分、サラダを半分食べた彼女がテーブルの向こう側で微笑んだ。
「仙台さんの行きたいところでいい」
私は今日の予定を彼女に丸投げする。
「そうだなー。動物園か水族館は?」
「なんでそんなところに行こうとするの?」
「朝から出かけるなら、それなりのところが良くない? あと、一緒に行こうって約束したじゃん」
「朝から行くって言ってないし、今日は行きたくない」
「だったら、動物園と水族館は行かなくてもいいけど。出かけるのはお昼からでいい?」
「……やっぱりどこにも行かない」
彼女に渡したはずの予定を決める権利を引き戻して、自分の意思を伝える。
朝からも昼からも関係ない。私のものを独占するバイトがないのだから、今日はここに一人きりになったりはしない。だから、家にいればいいと思う。
ここにいれば、私のものに触れたいときに触れることができる。
それに、自分から言いだしたことだけれど、私には動物園の代わりも、水族館の代わりも思い浮かばないし、仙台さんが行きたいと思うような場所も浮かばない。
「宮城が自分からどっか行くって言ったんだから、責任持ちなよ」
仙台さんが私の提案を否定して、オレンジジュースを飲む。
「行きたいところないもん」
「じゃあ、なんか食べに行こうよ。最近、二人でゆっくり食事できてないし」
どうやら彼女には“出かけない”という選択肢がないらしい。大学へ行くだけではなく、バイトもしているのだから、休みの日くらい家でのんびりすればいいのに外へ行こうとする。
あれから今日まで日曜日にどこへ行くかなんてことは口にしなかったくせに、出かけることを諦めてくれない。だから、私の方が諦めて「なんかってなに?」と尋ねてみる。
「ハンバーグ?」
曖昧に言って、仙台さんがトーストを囓る。
「仙台さん、食べたいの?」
「宮城が食べたいかと思って」
「仙台さんが食べたいものは?」
彼女はこういうとき、自分の食べたいものを言わない。
自分は後回しにして、私を優先する。
そういう彼女が嫌いではないけれど、ときどきでいいから自分の好きなものを答えてほしいと思う。でも、いつだって仙台さんは好きなものを言わない。
「んー、プリンとか、チーズケーキとか?」
「それ、仙台さんがほんとに食べたいものなの?」
彼女がチーズケーキを好きだと言ったことは覚えているが、今、それを食べたいようには見えない。
「宮城、好きでしょ」
思った通りの答えが返ってくる。
彼女は心の中にある言葉を口に出してくれない。尋ねても本当の言葉は口にしてくれないから、仙台さんのことを今以上に知ることができない。
私にインプットされているのは、仙台さんの唇の感触だとか、胸の柔らかさだとか、触れればわかるものばかりだ。
「私が食べたいものにしなくていい」
トーストを大きな口で囓る。
残った欠片も口に放り込んで、仙台さんがいなかったら知らなかった味を胃に落とす。
「日曜日にどっか行くって誘ってきたのは宮城なんだし、宮城の食べたいものがいいかな」
あまり面白くない答えが飛んできて、口の中にサラダを押し込む。レタスを咀嚼しながら、二人で食べるものに適した答えを探す。
頭の中にケーキやパフェが飛び交い、パンケーキがぐるぐると回る。
でも、どれもピンとこない。
私はサラダをもう一口食べてから、最後に浮かんだものを告げる。
「……フレンチトースト」
過去に仙台さんがわざわざ材料を買いに行ってまで作ったものだから、彼女が嫌いなものではない。
「じゃあ、フレンチトーストで決まりね。ついでに新しいマニキュア買うの、付き合って」
「え?」
「どうせ暇でしょ。それに宮城が“仙台さんの行きたいところでいい”って言ったんだからね」
「そうだけど」
「だったら、買い物ぐらい付き合いなよ」
私の予定を勝手に決めて、仙台さんがにこりと笑う。
「後出しするのずるいじゃん」
「先に言ったら家から出ないでしょ、宮城」
彼女の言葉に間違いはない。
でも、私が「絶対に嫌だ」と言えば仙台さんは従う。決まりかけた予定をなかったことにして、この家で一緒に過ごしてくれる。私は彼女がそういう人間だと知っているけれど、今日は言いにくい。
「……マニキュア買ったらすぐ帰るから」
誘ったのは私だ。
ついでの買い物に文句を言うのは大人げがない。
「それでいいよ」
仙台さんがにこりと笑う。
今日の彼女は機嫌がいい。
仙台さんの機嫌が悪いなんてことはほとんどないけれど、今日は機嫌が良すぎて気持ちが悪いくらいだ。
私はサラダが入ったお皿を空にして、オレンジ色の液体を胃に流し込む。グラスをテーブルの上に置いて向かい側を見ると、仙台さんも同じようにお皿を空にしていた。
「宮城」
さっきよりも明るい声が聞こえてきて、なんだか嫌な予感がする。まだ出かける前なのに、彼女の機嫌がさらに良くなるようなことなんて私にとってろくなことじゃないと思う。
「これ、片付け終わったら宮城の部屋行くね」
「……なんで?」
これから起こることが予想できるけれど、一応聞いてみる。
「宮城の服選んで、メイクする」
「やだ」
「いいじゃん」
「良くない。ご飯食べてちょっと買い物するだけだし、なにもしなくていい」
仙台さんはなにかあると、すぐにメイクをしたり、服を選ぼうとする。着飾るなら自分だけにしておけばいいのに、私にもなにかしようとする。
面倒くさい。
でも、こういうときの仙台さんは諦めてくれない。
本当に面倒くさい。
どうして私は、日曜日に一緒に出かけようなんて言ってしまったんだろう。
「せっかく出かけるんだし、大人しく着せ替えとメイクされなよ」
案の定、機嫌が良さそうに仙台さんが微笑む。
今日出かけようなんて言ったあの日の私は、地獄の釜に突き落としてぐつぐつ煮込まれて溶けてしまえばいいと思う。
私は仙台さんを見る。
彼女はやっぱり上機嫌で、美味しそうにオレンジジュースを飲んでいた。
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