第276話

 一人には慣れている。

 でも、一人はつまらない。

 ご飯が美味しくないし、美味しくないからまともなものを作ろうと思えない。


 私は共用スペースで一人、小さく息を吐く。


 レトルトのカレーとカップラーメン。

 ご飯は炊いてあるけれど、カレーを食べると洗い物が面倒だ。


「カップラーメンでいいや」


 買い置きしてあったカップラーメンを一つ取ってテーブルに置く。仙台さんと買いに行った電気ケトルでお湯を沸かす。


 大学が終わると、舞香と朝倉さんはバイト先へと消えていった。家へ帰ってきても仙台さんはいないし、すぐには帰ってこない。私にあるのは高校生の頃と同じ一人の時間で、こういう時間の潰し方はよく知っている。


 本を読んだり、ゲームをしたり。

 その気になれば勉強をしたっていい。

 一人でできることはそこそこある。

 実際、さっきまでそういう時間の潰し方をしていた。


 私は冷蔵庫から麦茶を出してグラスに注ぐ。一口飲んでテーブルの上に置いて、箸と黒猫の箸置きを用意する。


 お腹なんか空かなきゃいいのに。


 カップラーメンは食べたいものじゃない。

 そういう気持ちは私の中の仙台さんを強く意識させるもので、私に彼女がなくてはならないものだと強く思わせる。


 駄目だ。


 ぎゅっと手を握りしめて、開く。

 麦茶を半分飲む。


 こんな風に誰もいない家で彼女のことを考えていると、頭の奥が痛くなる。食事なんてどうでも良かったものが、どうでも良くなくなっている自分を私はまだ持て余している。


 電気ケトルを見るとお湯が沸いていて、カップラーメンのシュリンクフィルムを剥がして蓋も半分剥ぐ。お湯をカップラーメンの容器に注ぎ、キッチンタイマーをセットして椅子に座る。


 向かい側にいるべき仙台さんは家庭教師のバイトで遅くなるから、いつもなら見えないものが見える。彼女と話がしたいわけではないけれど、一人でいると三分の待ち時間が長い。


 長くなりかけた爪を撫でる。

 そのまま人差し指を引っ張る。

 中指も引っ張ってみる。

 ぎゅっと指を押して、息を吐く。


 黒猫の箸置きに視線を落とす。


 いつもいる三毛猫がいないから寂しいかもしれないなんて思っていると、キッチンタイマーが鳴ってカップラーメンを食べる。


 美味しくないと思う。

 胃が満たされるだけの食事はやっぱりつまらない。


 あっという間にカップラーメンの容器の中がスープだけになって、洗い物を済ませて部屋へ戻る。


 一人でいると本当にすることがない。


 電気を点けて、部屋の中をぐるりと回って、ベッドを背もたれにして床に座る。暇すぎて仕方がないから、仙台さんが選んだリップを塗る。唇に触れるとべたりとしたものが手につく。指先を舐めると、仙台さんとは違う味がした。


 ワニの背中からティッシュを一枚取る。

 唇を拭おうとして、やめる。


 手に取った薄っぺらい紙をくるくると丸めてゴミ箱に放り投げると、手前に落ちてため息が出た。根性のない紙屑を拾ってゴミ箱に捨てて、本棚から漫画を三冊取る。そして、仙台さんの部屋にずっといたワニを捕まえてベッドへ飛び込んだ。


 一人の時間を上手く過ごせない。

 時間を消費することができない。


 冷蔵庫に入っていた麦茶は胃の中に簡単に消えていったのに、一人の時間はなかなか消えてくれない。いついかなるときも一時間は六十分のはずなのに、三十分になったり、九十分になったりする。今日は一時間が九十分になる日で仙台さんがなかなか帰ってこない。


 わかっている。


 彼女がいないだけで一時間が九十分になったりしないことくらいわかっている。今日も一時間は六十分で、明日もそうだ。それでも誰かを待つ時間は長い。いや、他の誰かを待つ時間は変わらない。


 だから、むかつく。

 仙台さんだけが私の時間を引き延ばしたり、縮めたりする。


 私はワニの頭を叩いて、ティッシュを引き抜く。


 くるくると丸めてゴミ箱に投げるけれど、白い塊はゴミ箱まで飛んでいかない。さっきと同じで、飛ぶ羽を持っていない紙屑はベッドからほんの少し離れた場所にぽとりと落ちている。


「根性なし」


 私はワニをお腹の上に乗せて、目を閉じる。

 ゴミをゴミ箱に捨てに行きたいと思えない。

 ごろりと寝返りを打つ。


 仙台さんのバイトが増えたことはたいしたことじゃない。生徒が一人増えても別にいい。ただ、これからもっと増えるかもしれないと思うと、どうしていいのかわからなくなる。


 見たこともない生徒とかいう人間が増えて、仙台さんの時間を独占する人間が増える。私のものにならない仙台さんの時間を使う人間が増えることには、どこまでいっても釈然としない思いがある。


 布団をかぶって、丸くなる。

 うとうととすらできないまま時間が過ぎて、トン、トンとドアをノックする音が二回聞こえてくる。


「宮城」


 心地良い声が私を呼ぶ。

 でも、布団から出たくない。


「いないの?」


 いるに決まっている。

 いないわけがない。


「宮城、開けるよ?」


 そう言いながら、彼女はドアを開けない。

 仙台さんは私がいいと言わなければ入ってこない。


「ご飯食べたの?」


 またドアの外から問いかけられる。

 行儀の良い仙台さんがドアの前で私に声をかけ続けるから、彼女を放っておけなくなる。ワニを床へ置いて、落ちているゴミをゴミ箱に捨ててから「はいって」と告げると、ドアが開いた。


「ご飯はもう食べたから」


 ベッドに腰掛けて答えると、仙台さんが当然のように隣に座った。


「なに食べたの?」

「……カップラーメン」

「昨日もそんなこと言ってなかった? 適当でもいいから作って食べた方がいいよ」

「いいじゃん。カップラーメンで」

「良くない。体に悪い。もう少しまともなもの食べなよ」

「一人だし、わざわざ作るの面倒くさい」

「だったら、私が帰ってくるまで待ってなよ。なにか作ってあげるから」

「仙台さん帰ってくるの遅いし、お腹空くもん」


 バイトをしている仙台さんにわざわざ夕飯を作らせるほど私は酷い人間ではないし、カップラーメンでもお腹は膨れるのだから私のことは放っておいてほしいと思う。それに、そんなに私の食事が気になるのならバイトなんてしなければいい。


「そっか」


 仙台さんが小さく言って、私をじっと見る。


「宮城」


 柔らかな声で私を呼んで、にこりと笑う。ついでに手を伸ばしてくるから、その手をぺしんと叩くと「リップ塗ってるんだ」と嬉しそうに言うから「だったらなに?」と冷たく返す。


「可愛い」


 仙台さんはこういうとき、私が言われたくないことしか言わない。思い通りにならない彼女が腹立たしくて、服を掴んで引き寄せる。彼女の唇に私の唇を押しつけて、傷つけない程度に噛む。


「痛い」


 顔を離すと、仙台さんがわざとらしく言う。そして、そうすることがルールみたいに唇を寄せてくるから、私は彼女の体を押した。


「もう一回したい」


 私との距離を詰めて、仙台さんが囁くように言う。


「やだ」

「けち」


 聞こえてきた言葉を否定するように、仙台さんの足を蹴る。

 私が彼女から聞きたいのは、可愛いという言葉でもこういう台詞でもない。


「……日曜日」


 ぼそりと言って、もう一度足を蹴る。


「日曜日?」

「バイトないんだよね?」


 問いかけながら、問いかけたことを後悔する。


「ないよ」


 仙台さんの青いピアスに触れる。

 後悔は消えない。

 それでも飲み込んでおきたかった言葉が外へ出てくる。


「……一緒にどっか行く」


 ぼそりと告げて仙台さんを見ると「どこに?」と言いだしそうな顔をしていて、私は彼女の唇にキスをした。

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