第329話
不満がある。
そんな顔をしている宮城が隣にいる。
「……仙台さん、約束して」
宮城がバイトをしてるときに私がカフェに行かないこと。
約束はそれを確実なものにするためのものだ。
私がこの部屋に来てから、宮城は面白くないことばかり言う。少しくらいは楽しい言葉を聞きたいと思うけれど、この状況では聞けないだろうから私が言うべき言葉は決まっている。
「約束する。バイトしてる宮城に会いに行ったりしない」
――澪に会いに行くことはあるかもしれないけれど。
心の中で付け加えて、宮城のピアスにキスをする。
「仙台さん、絶対だからね」
念を押す宮城に大丈夫と答える代わりに微笑むと、彼女の表情が少し和らいだ。と言っても信用してもいいかなくらいの顔で、まだ疑われている。おそらく、バイトが絡むと私の信用が著しく低下するのだと思う。
「宮城。私も一つ約束してもらいたいことがあるんだけど、いい?」
こういうのは良くない。
信用を犠牲にして宮城のバイト先へ行っても、さらに信用がなくなるだけでいいことは一つもないのに、私は心の中で付け加えたことを訂正するつもりがない。その上、新しい約束もほしいと思っている。
「それって交換条件?」
「そう」
「……一応話はきく。約束ってどんな?」
宮城が探るような声で言い、私をじっと見る。
「バイトの日、宮城に印つけさせて」
「――印?」
「宮城も私につけたでしょ。それと同じことさせて」
覚えていないとは言わせない。
宮城は、カフェのバイトへ行くようになった私に印をつけた。
わかりやすく言えば“印”というのは“キスマーク”のことで、彼女はカフェのバイトに合わせて私の体に跡をいくつも残した。
「やだ」
宮城が短く答える。
でも、納得できない。
けれど、納得できる。
彼女は私にそういうことをさせない。
わかっているが、今日は文句を言いたくなる。
「宮城ばっかりずるくない?」
「ずるくない」
「ずるいでしょ。印つけさせてよ」
「やだ」
「嫌な理由は?」
「バイト行くのにそういうのついてたら困るじゃん」
「私も同じだったけど、宮城はつけたでしょ」
「……そうだけど」
困ったように宮城が視線をそらし、ワニのティッシュカバーを引き寄せてその手を握る。
「じゃあ、宮城が私に印つけてよ。私がバイトに行ってたときみたいに。それならいいでしょ」
「……仙台さんって、なんでときどき変態みたいなこと言うの?」
宮城がぼそぼそと低い声で言う。
視線はワニに向かっていて、私には向けられない。
「宮城が変態みたいなことを私に言わせてるんだと思うけど」
ワニを宮城から奪ってベッドの上へ置く。
今日、そこには黒猫のぬいぐるみであるろろちゃんはいない。私は、どういう条件でろろちゃんがベッドの上に置かれるのか知らない。
「宮城、約束しなよ」
私のピアスに宮城の手が触れる。
軽く耳たぶを引っ張ってから、唇をくっつけてくる。でも、すぐに歯を立て、それなりの力で耳を噛んだ。
「痛い」
そう言って肩を押すと耳たぶをさらに強く噛んでから、宮城が私から離れる。
「今の、約束したってこと?」
「仙台さん、交換条件って言ったじゃん」
不機嫌そうな声とともに、宮城がバイトに行く日は私の体に彼女の跡が残ることが決定する。
「ついでにもう一つ。宮城がバイトする日は私のいうこと一つきいてよ」
「ついでなんて許可してないし、大体なんで私がバイトする日は仙台さんのいうこときかなきゃいけないの」
「私が澪に会う日は宮城のいうこときくんだし、宮城がバイトで澪に会う日は私のいうこときいてくれてもいいと思うけど」
澪と出かける日は宮城のいうことをきく。
私はそういう約束を宮城としているけれど、対になる約束を宮城としていない。
「澪さん、私のバイトの日に必ずいるわけじゃないって言ってた」
「じゃあ、いる日だけでいいから、私のいうこときいて」
どうしてもいうことをきいてほしいわけではない。
それなのに私のいうことをきいてなんて言ってしまうのは、否定する宮城も、澪の紹介でバイトをする宮城も気に入らないからだ。もっと言うならば、こんなことを思う原因を作った澪も気に入らない。
澪は校庭を百周くらい走って反省すべきだと思う。
「仙台さん、なんなの」
あからさまに不機嫌な声が聞こえてくる。
「なんなのって?」
「いつもと違う。いつもそういうこと言わないじゃん」
宮城といると、いつもの私ではいられない。私は宮城によって随分と変えられて、これからも変えられていく。
そして、私は宮城ももっと変わってくれたらいいと思っている。ほかの人には見せない宮城を私にだけもっと見せてほしい。
「さっきも言ったけど、宮城が言わせてる」
ぼそりと言うと、宮城が眉間に皺を寄せた。
「どういうこと?」
「わからないならそれでいいし、いうことききたくないなら、お願い一つききなよ」
「……お願いって?」
「能登先輩。カフェの常連だから宮城がバイトしてるときも来ると思うけど、先輩の言うこと真に受けないで」
「なにそれ」
私は宮城のピアスに触れ、そのまま頬を撫でる。
宮城は表情を変えない。
私を真っ直ぐに見ている。
「能登先輩って適当なことしか言わないからさ、話すことがあったら適当に相手してってこと」
宮城がバイトをするカフェには、能登先輩がやってくる。しかも、彼女はあのお店の常連客だ。
「能登さんと話すことないと思うけど」
「絶対にないとは言えないから」
宮城の担当はキッチンらしいけれど、どこかで顔を合わせる可能性がある。
能登先輩は悪い人ではないけれど、厄介な人だ。
宮城に関わらないでほしいと言った私に、控えておくとか、悪いことはしないだとか言って関わらないと断言しなかったから、なにをするかわからない。
「会っても話すことないから、適当に相手することもないと思う」
そう言うと、宮城が頬に触れている私の手をべりべりと剥がした。
「相手をすることもないって、それ約束だから」
「お願いじゃなかったの?」
「お願いも約束みたいなものでしょ」
私は宮城のピアスにキスをする。
先輩は私に断りもなく宮城に関わり、なにかを吹き込んだ。そのおかげで私たちの関係は変わったけれど、そういう変わり方は望んでいない。
だから、宮城と能登先輩が会うことがなければいいと思う。
「あと変な人に声かけられてもついていったりしちゃ駄目だから。ちゃんと断って」
「仙台さん、私のこと子どもだと思ってるでしょ。そんなこと心配しなくても大丈夫だから」
「変な人の意味わかってる?」
「変な人は変な人でしょ」
「ナンパされないでってこと」
「私が?」
「宮城が」
「そんなの、絶対に心配いらない」
宮城が断言して、「ねえ、仙台さん」と続けた。
「なに?」
「……仙台さんはついていったりしてないんだよね?」
「ついてくわけないでしょ」
「ならいい」
そう言うと、宮城がベッドの上に置いたワニを引き寄せて抱きかかえた。
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