第23話

「漫画でも小説でもなくて、教科書の理由ってなに?」


 ぺらぺらと現代文の教科書をめくりながら、仙台さんが言う。


「子守歌のかわり。眠くなるから」


 起きているといらないことばかり言ってしまうし、後悔する。


 昨日、仙台さんが来てくれたら呼び出した勢いで話ができただろうけれど、一日置いてしまった今日は言葉を上手く紡ぐことができない。


 大体、仙台さんが誰かから告白されたからって、家に呼び出す必要なんかなかった。


「教科書が子守歌って、先生が聞いたら泣くよ」


 そう言うと仙台さんが振り向き、先生がするように教科書の角で寝転がった私の頭をこつんと叩いた。


「面白い授業しない方が悪い」


 べしんと彼女の腕を叩き返すと、からかうような声が返ってくる。


「人のせいにするの、良くないよ」

「うるさい。早く読んで」

「読むけどさ。宮城が寝たら、私はどうすればいいの?」

「寝ても読んでて」

「えー。こっちまで眠たくなりそうな気がする」


 やる気のない声で仙台さんが言って、ベッドに突っ伏す。

 彼女の手が私の体に触れる。

 脇腹の上。

 ちょこんと乗った手がくすぐったくて、私は体を起こして仙台さんの前髪を引っ張った。


「仙台さんは寝ちゃだめ。起きてて」

「はいはい」


 はい、は一回。

 そう言っても、仙台さんは二回言うから一回でとは命令しない。そのかわり、早く読んでと催促する。


「わかったって」


 短い返事が一つ。

 そして、聞こえてくる心地の良い声。

 同じクラスだった二年生のときは、彼女の声をよく聞いた。


 授業中、淀みなく教科書を読む声が羨ましくて、私も同じように教科書を読んでみたいと思った。今日も、澄んだ声が読み間違えることなく教科書の文字を音にしていく。


 お気に入りのタオルケットにくるまっているみたいに落ち着く声に目を閉じると、明るかった部屋から闇色の世界に隔離される。何も見えない闇の中に仙台さんの声だけが響く。


 まるで春休み前の教室にいるような気がする。


 教科書に書かれた文字の羅列が、仙台さんの声で流れ込んでくる。先生よりも柔らかな声に睡魔が吸い寄せられて、意識が遠くなっていく。

 気がつけば、私はうたた寝どころじゃないくらい深く眠っていた。


 夢は見なかった。


 ただ、何時間も眠ってしまったような感覚があって目が覚めた。

 静かな部屋、少しずつ頭がはっきりとしてくる。


 何時だろう。


 時計を見ようと、ゆっくりと起き上がる。けれど、時計を見るよりも先に仙台さんの顔を見ることになった。


「寝たらだめって言ったのに」


 いつ眠ったのかは知らないが、彼女は私の隣で寝息を立てていた。

 くっつくほど近くにはいない。

 仙台さんがベッドの端にいるから、私と彼女の間には隙間があった。


 彼女はブレザーを脱いで、靴下をはいたまま眠っている。ネクタイは緩められ、ブラウスのボタンがいつも通り二つ開いていた。


 薄くメイクをした顔は整っている。

 綺麗だと言っても良いと思う。


 私は、仙台さんの頬に触れる。起きていたらメイクが崩れると怒られそうだけれど、今は何も言わない。指先を滑らせて、口の端で手を止める。


 この指は、彼女の唇に触れたことがある。

 その中にも触れた。


 頬よりも柔らかな舌の感触が蘇る。

 仙台さんの湿った舌が私の血を舐め取ったことを思い出す。


 ズキズキと痛む傷に押し当てられた舌は、温かかった。もちろん、仙台さんが傷口を舐めたからと言って、痛みが引いたりはしなかった。でも、私の命令通りに血を啜り、飲み込んだ彼女があまりいい顔をしていなかったから、それが私には気持ちが良かった。


 さすがに傷口を噛まれたときは、気持ちの良さなんかすぐに消えて痛みの方が強くなったけれど。


 唇の端から指を滑らせて、真ん中辺りを触る。

 あのときは感じなかったけれど、マシュマロみたいに柔らかい。

 私はふにふにと唇を押す。

 仙台さんは反応しない。


「なんか言いなよ」


 声が聞きたいと思う。

 私を否定する声を聞きたい。

 いつもなら、やめて、とか、馬鹿じゃないの、とか私を止めてくれるはずの声が今は聞こえない。


 だから、手が止まらない。

 唇から顎へ。

 さらにその下へ。

 指は首筋を撫で、鎖骨へ辿り着く。

 けれど、仙台さんが目を覚ます気配はない。


 指をもう少し下にやれば、キスマークを付けるなと言われた辺りに直接触れることができる。


 私は迷ってから、鎖骨の上、骨を辿って肩へと指を向かわせる。

 ブラウスの中に隠れていたブラのストラップに手のひらをぴたりとくっつけると、眠っているせいか彼女の体は熱かった。


 そろそろ目が覚めてもいいはずなのに、仙台さんはぴくりとも動かない。


 首筋に目が行く。

 彼女がキスマークをつけるなと言ったもう一つの場所。

 私は、そこから目が離せない。


 肩から手を離す。

 ブラウスのボタンを外さずに首筋に顔を近づけると、シャンプーの匂いなのか甘い香りがする。

 初めて嗅いだ香りじゃない。

 仙台さんが来た夜、枕からする匂いと同じだ。


 顔をもう少し近づけると匂いが強くなって、心臓の動きが少し速くなる。

 耳の少し下辺り。

 ゆっくりと唇で触れると、心臓の音が頭の中に響いた。


 どくん、どくんと聞こえてくる音を誤魔化すみたいに、唇を強く押しつける。歯を軽く立てると柔らかな肉の感触がして、私は慌てて顔を離した。


 唇を拭う。

 ごしごしと。

 今あったことをなかったことにするみたいに拭っていると、ブラウスを引っ張られた。


「なにしてんの?」


 ぼんやりとした声に隣を見ると、仙台さんが薄く目を開けていた。


「なにも」


 素っ気なく言って、仙台さんと距離を取ろうとする。けれど、後ろには壁があって思ったほど彼女から離れることができなかった。


「あ、エロいことしようとしたでしょ」


 気がついてないと思う。

 仙台さんは寝ていた。

 今起きたばかりだから、私が何をしたかなんて知らない。

 ――はずだ。


「してない」


 仙台さんの笑いを含んだ声に、はっきりと答える。


「顔、赤いよ」


 そう言って、仙台さんが手を伸ばした。

 頬は熱くない。

 心臓はまだ少しうるさいけれど、きっと、顔は赤くない。

 彼女の手が私の頬に触れる。いつもより温かい手に思わず後ずさろうとして、私は壁にぶつかる。


 ごんっ。


「いたっ」


 部屋に響いたのは鈍い音で、私は頭を押さえる。

 後ろに壁があることを忘れていた。

 でも、頭をぶつけたショックで心臓が落ち着きを取り戻す。


「赤いって嘘でしょ、それ」


 頭を撫でながら、寝転がっている仙台さんに文句を言う。


「騙されないか」

「そんなことより、なんで寝てるの」


 私は仙台さんの足を軽く蹴飛ばして、本を読み続けるという命令に違反した彼女を咎める。


「宮城が寝てるの見てたら眠たくなって、気がついたら寝てた。今、何時?」


 問いかけられて時計を見れば、随分と時間が経っていた。


「もうすぐ八時」

「もっと寝たい」

「起きてよ」


 私は、もう一度仙台さんの足を蹴る。すると、彼女がのろのろと起き上がり、背中があった辺りに現代文の教科書が見えた。


「仙台さん」

「ん? なに?」

「折れてる」


 仙台さんに下敷きにされていた教科書を手にして、彼女に見せる。背中でプレスされたらしい表紙には、綺麗な折り目がついていた。


「あー、ごめん。読みながら寝ちゃったから。ほんと、ごめんね」


 仙台さんが申し訳なさそうな顔をして謝る。


「いいよ、別に。教科書なんて」


 綺麗な方が良いけれど、表紙が折れていてもかまわない。

 付き合いは一年と決まっている。

 でも、仙台さんは気になるらしい。

 ごめんね、という言葉がまた聞こえてくる。


「どうせ、すぐに使わなくなるし」


 私は折れた部分を丁寧に戻してから、教科書を枕の上に置いた。

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