第22話
「昨日はごめん」
部屋に入ってくるなり、仙台さんが謝った。
「そういう約束だし、いいよ」
予備校がある日は来られないという彼女に、そういうときは次の日に来てと言ったのは私だ。
昨日送ったメッセージはその日のうちに来られないとわかって送ったものだし、仙台さんは約束通り翌日にこの家にやってきた。ルールは守られているから、何の問題もない。
「はい」
私は、机の上に用意しておいた五千円を渡す。
「ありがと」
仙台さんは短く答えると、鞄の中から財布を出して薄い紙一枚をしまう。そして、私の隣にやってくると、机の上のカレンダーを見ながら言った。
「もうすぐゴールデンウィークだ」
「この間、春休みが終わったばっかりなのに」
「宮城って、休みが嫌いなの? 春休み前も機嫌悪かったけど」
仙台さんは、機嫌が悪かったと感じた理由は口にしなかった。けれど、彼女の頭の中には、私がサイダーをかけた日のことが浮かんでいるに違いない。
「休みになってもそんなにすることないし、つまんないだけ」
私は機嫌が悪かった理由ではなく、休みを歓迎できない理由を告げた。
「休み、良いじゃん。どこか遊びに行けば」
ゴールデンウィークの予定ならある。
舞香と亜美、私の三人で出かける約束をしている。でも、わざわざそれを仙台さんに教える必要はない。私はカレンダーを倒して、彼女の腕をつついた。
「仙台さん。腕、見せて」
命令したわけではないけれど、仙台さんが素直に腕を出す。でも、差し出された腕は制服に覆われたままだった。
わかってるくせに。
私は、何を求められているのかわかっていながら、それをしようとしない彼女に強く告げる。
「袖、まくってよ」
「はいはい」
仙台さんが心のこもっていない声で言い、ブラウスの袖を留めているボタンを外してブレザーごとまくりあげた。
私は、その腕を掴む。
手首と肘の真ん中辺り。
腕の内側をじっと見ると、仙台さんが言った。
「思ったより早く消えた。宮城は?」
言葉通り、私がつけた赤い跡は見当たらない。
「すぐに消えた」
「膝のあざも?」
「消えた」
仙台さんがつけたキスマークとは違い、膝を強打してできた内出血は腕にできた跡よりも消えるまでに時間がかかったけれど、今はもうない。腕も足も、跡がついていたなんて信じられないほど綺麗に内出血が消えている。
仙台さんの腕も私と同じだ。
先週あった出来事がなかったみたいになっている。
掴んだままの仙台さんの腕を撫でる。
すべすべとしていて、気持ちが良い。
――この腕にまた唇をつけたら。
腕を動かすなと命令をすれば、キスマークをもう一度付けることができる。
私は、キスマークがあった辺りをぎゅっと押す。
当然、跡はつかない。
指先に力を込めてもう一度同じ場所を押すと、手を掴まれた。
「また跡つけるつもり?」
頭の中を覗いたかのように仙台さんが言う。
「違う」
短く答えると手が解放されて、私は彼女の肘の内側に触れた。
骨か、筋か何か。
硬いものがある。
感触を確かめるように触って、ゆっくりと撫で下ろす。
手首で折り返して血管を辿るように撫で上げていく。
「あんまり触られると、くすぐったい」
ぴくりと指先を動かして仙台さんが言った。それでも腕を引いたりはしなかったから、私は彼女の柔らかな皮膚に指を走らせ続ける。
こうしていると、仙台さんをなんで呼び出したのかわからなくなっていく。
私の知らないことを舞香の口から聞いて、喉がきゅっと締まるような息苦しさを感じた。腹が立つというほどではなかったけれど、気分が悪かった。
今は?
私は、視線を上げる。
目の前には、学校と同じ優しそうな顔をした仙台さんがいた。
私が見たいのは、こういう仙台さんじゃない。
滑らかな彼女の腕に爪を立てる。
ぎゅっと力を入れると、皮膚に指先が埋もれていく。
「爪、痛い」
そう言いながらも、仙台さんは私の手を払い除けたりしなかった。
「男バスの人、格好いい?」
聞きたかったわけじゃないけれど、舞香たちの話が頭に残っていたせいかつまらない質問が口から飛び出る。
「なんで男バス?」
「告られたって」
「宮城が?」
「……わかってて言ってるでしょ」
仙台さんがこういう人だということは知っている。
私には少し意地悪で、命令しないと思った通りに動いてくれないことがある。
指先にもう少し力をいれる。
仙台さんがわずかに顔を歪めて、私の手を無理矢理剥がす。
「断った」
告白をされたということは否定せずに、ぼそりと結果だけを告げられる。
「なんで?」
「なんでって。別に好きじゃないし、付き合っても会う時間ないから」
「会う時間なんて、いくらでも作れるじゃん」
「予備校あるし、ここにくる時間もあるんだけど」
仙台さんが面倒くさそうに言って、細く残った爪痕を撫でた。
「時間があって、予備校がなくて、ここにくる時間がなければ付き合うの?」
「いや、好きじゃないって言ってるじゃん。それに、心配しなくても宮城を優先してあげる」
「そんなこと頼んでない」
私は、目の前でわざとらしい微笑みを浮かべる仙台さんの足を軽く蹴る。
「うわ、行儀悪い」
「仙台さんほどじゃない」
ブラウスのボタンを外して、ネクタイを緩めて。
今は寝転がっていないけれど、スカートの中身が見えそうになるくらいだらしなく人のベッドに横になったりする人に言われたくない。
「男バスの子に嫉妬してるんでしょ。わかってるって」
羽が生えたみたいに軽く言って、仙台さんが袖を下ろして腕を隠す。そして、ベッドに腰をかけた。
「馬鹿じゃないの」
からかうような口調に、本気で言っているわけじゃないとわかった。けれど、文句を言わなければ気がすまない。
私の知らないことを舞香が知っていたから、なんだか少し嫌な気持ちになっただけだ。
これは、嫉妬じゃない。
私は床に座って、ベッドを背もたれにする。
春休みが終わって仙台さんに足を舐めさせたあの日から、私はどこかおかしい。舌先から流れ込んできた仙台さんの体温が私の中に溜まったまま、消えずにいる。
だから、友だちのように接した。仙台さんとゲームをしたり、たわいもない話をしていたら、体に残るおかしな感覚がなくなるかもしれない。そう思ったけれど、友だちみたいに接することに無理があった。
今だって、そうだ。
友だちみたいに話すことなんてできない。
私は、仙台さんをどうしたいんだろう。
一緒に過ごす時間が長くなるほど、わからなくなっていく。
命令をするだけという当初の目的は、失われつつある。
仙台さんといると、体に張り付く見えない何かが増えていって胸の奥がぞわぞわとする。落ち着かないし、自分が自分じゃないみたいになる。
テーブルの上にあるサイダーのように、すっきりとしない気持ちが全部ぱちぱちと弾けて消えればいいのにと思う。
ふう、と息を吐いてから窓の外を見る。
青かった空は、いつの間にか薄暗くなっていた。
私は鞄の中から現代文の教科書を出して、仙台さんに押しつける。
「命令。ベッドから下りて、これ読んでよ」
「教科書?」
不思議そうな顔をしながら、仙台さんが私の隣に座る。
「そう」
少し疲れた。
私はブレザーとソックスを脱いでネクタイを外すと、ベッドにごろりと寝転がった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます