第332話

「手、離して」


 そう言って、仙台さんに掴まれたままの手を引く。

 でも、引っ張り返される。


「仙台さん、ご飯食べるんでしょ?」


 バイトから帰ってきたら共用スペースでテーブルに突っ伏していた仙台さんは、なにを考えているのかまったくわからない。


 彼女は夕飯を食べていなかったし、機嫌が悪い。そのくせ、私の手を掴んできたり、手を離してくれなかったりする。


「食べる」

「だったら、離してよ。仙台さん、片手でご飯食べるつもり?」

「宮城が言うなら食べてもいい」


 本気でそう思っているのか、手を離してくれない。手が磁石になっていると言われたら信じてしまうくらい、彼女の手は私の手にくっついている。


「片手でご飯食べるとか行儀悪いし、手を離してそっちに座って。夕飯、カップラーメンでいい?」

「宮城、一緒に食べてくれるの?」

「私にご飯食べるところ見ててって言ったの、仙台さんじゃん」


 さっき言ったばかりのことを忘れたかのように聞いてくる彼女の足をむぎゅりと踏むと、くっついていた手が離れる。


 夕飯がカップラーメンでいいかどうかの返事はないけれど、私は彼女に背を向けて電気ケトルに水を入れ、お湯を沸かす。


 カップラーメンを仙台さんの前に置き、箸と黒猫の箸置きも一緒に並べる。


 彼女に容器の蓋を開けるように指示していると、お湯が沸く。電気ケトルを持ってきてカップラーメンにお湯を注いで、キッチンタイマーをセットして仙台さんに渡す。


「ピッって鳴ったら食べて」


 言わなくてもわかっていることを伝えて、キッチンタイマーをじっと見ている彼女の向かい側に座る。


 本当になにを考えているのかわからない。


 三分経って、キッチンタイマーがピッと鳴って、私が言った通りにカップラーメンを食べ始めた仙台さんをじっと見ていてもわからない。


 ただ、いつもよりも元気がなさそうだと思う。


 濡れた犬みたい。


 しょぼんとしたとまではいかないけれど、いつもに比べると情けない顔をしている。


「美味しい」


 私の視線に気がついたのか、仙台さんが笑顔で言う。


「ただのカップラーメンじゃん」

「人が用意してくれるものって、どんなものでも美味しいと思わない?」

「……そうだけど」


 彼女がなにを考えているのかわからなくても、言っていることはわかる。どんなものも自分ではない誰かが用意してくれると美味しく感じる。カップラーメンにお湯を入れるなんて簡単なことでも、人にやってもらうと味が変わる。


 気がつけば、そうなっていた。

 仙台さんといると、いつも食べているものが美味しくなった。


 彼女もそうなのかもしれない。


 私がここにいることで、なんの変哲もないカップラーメンが美味しくなる。そういうことなら、私はもう少しここにいるべきなのだと思う。


「宮城。バイトって、一ヶ月だっけ」


 仙台さんがぼそりと言う。


「それくらいのつもり。澪さんに夏休み終わるまでバイトしてほしいって言われたけど」

「……するの?」


 カップラーメンを食べていた彼女が手を止めて、顔を上げる。


「しない」

「そっか」


 仙台さんがほっとしたような声を出す。

 今日の彼女は、飼い主の帰りを待つ犬のようだと思う。


 こういう仙台さんは嫌いじゃない。


 私のことだけを見て、私のことだけを考えている。


 ずっとそういう仙台さんであってほしいと思っている。でも、そういう仙台さんを見ていると不安にもなる。


 私は仙台さんをここに閉じ込めて、ほかのなにも見ないでほしいと思っているけれど、ここ以外の場所からちゃんとここに帰ってくる彼女であってほしいとも思っている。


「仙台さん。私がバイトの日、待たなくていいから先にご飯食べてて」

「なんで? また今日みたいに食べるところ見ててよ」


 向かい側から、少し低い声が聞こえてくる。


「今は見てるから、早く食べて」


 私がそう言うと、仙台さんはむすっとしながら手を動かし始めた。


 本当に今日の彼女はいつもと違う。


 仙台さんは、私よりも大人で、綺麗で、いつだって余裕があるのに、今日はそんなことがない。


 視線の先の彼女は、美味しいと言ったカップラーメンを不満そうに食べている。見ていて飽きない。ずっとこうして仙台さんを見ていたいと思う。


 けれど、カップラーメンなんてものはあっという間になくなってしまうもので、仙台さんは空になった容器を片付け、箸と箸置きも洗ってしまった。


「宮城、これからどうするの?」


 仙台さんが席に戻らずに、私の隣へやってくる。

 だから、私は彼女のほうへ体を向けた。


「……お手」


 それほど大きな声で言ったわけではないけれど、私が手を出すと仙台さんが文句も言わずに犬がするように“お手”をした。


「宮城。次は?」


 お喋りをする犬が、当然のように次の命令を要求してくる。


「仙台さん、犬になりたいの?」

「私、ボルゾイなんでしょ」


 確かに仙台さんにそう言ったことがある。

 顔と体が細くて、毛並みが良くて、綺麗な大型犬。

 彼女はそういう犬に似ている。

 でも、すべてが似ているわけじゃない。


「仙台さんよりボルゾイのほうが頭良さそう」

「そうかもね」


 あまり良いとは思えない私の言葉を、仙台さんが平然と受け入れる。だから、私はくだらないことを聞きたくなる。


「……仙台さん。私が待てって言ったら、犬みたいにここでずっとご飯食べないで待ってるの?」

「宮城がそうしろって言うなら。――犬じゃなくてペンギンとかハシビロコウになれって言うならそっちになってもいいけど」

「仙台さん、ペンギンみたいに可愛くないじゃん」

「それ、酷くない?」

「酷くない。あと、ハシビロコウみたいに面白くもない」

「やっぱり酷いじゃん。可愛くないし、面白くもないってことでしょ」

「そうじゃない」


 仙台さんは“可愛い”じゃなくて“綺麗”だし、私は彼女に面白さを求めているわけでもない。


「じゃあ、なんなの」


「面倒くさいから人間になって、私がバイトの日は私を待たずにご飯食べててよ。ご飯食べずに待ってる人がいると思ったら、バイト中、気になるし」


 仙台さんがこの家にいて私を待っていることは、今までもあった。でも、バイトがある日に今日みたいに待っているのは違う。


 バイトは必ず遅くなるものだし、一緒にご飯が食べられないことはあらかじめ伝えてある。それでも私を待ってご飯を食べずにいる人が家にいると思うと、バイトをしていても集中できそうにない。


 今日以上に仙台さんのことばかり考えてしまいそうだと思う。


「バイト中、私のこと気にしてなよ」


 やけに真面目な声で言って、仙台さんが私をじっと見た。


「失敗しそうでやだ」

「私は宮城が失敗してバイトやめてもいい」


 仙台さんの口から良いとは言えない言葉が飛び出てきて、私は彼女の足を踏んだ。


「そういうこと言わないで。私がバイトの日は、一人でご飯を食べるって約束してよ」

「しなかったら?」

「むかつく」


 仙台さんを睨む。

 ついでに彼女のお腹も押す。


「……わかった。約束するから、宮城ここに立って」


 諦めたような声とともに腕を引っ張られる。

 仕方なく立ち上がって仙台さんを見ると、彼女は私の髪を耳にかけた。仙台さんの唇がプルメリアのピアスにくっついて離れる。


「宮城がバイトの日は、一人でご飯を食べるって約束する」


 そう言うと、またピアスにキスをして、仙台さんが私を抱きしめた。


「ピアスに約束するのはいいけど、こういうことしていいって言ってない」

「宮城にマーキングしてる」


 仙台さんがくだらないことを真面目に言う。


「犬はもういいから、人間に戻ってよ」

「宮城が私に日曜日くれたら、人間に戻れるかも。今週の日曜日、バイトないんだよね?」

「バイトないけど、日曜日あげたらなにするの?」

「……デートって言ったら?」


 私を抱きしめたまま、頭がどうかしているとしか思えないことを仙台さんが言う。

 本当に彼女は馬鹿みたいなことしか言わない。


「あげない」


 きっぱり言って仙台さんの体を押すと、私を抱きしめる腕に力が入った。


「じゃあ、家でお喋りは?」

「仙台さんが話すならいい」

「じゃあ、そういうことで」


 そう言うと、仙台さんが私のピアスにまたキスをした。



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