第171話
昨日決めた通り、いつもよりも早く起きた。
と言うよりも、よく眠れなかった。
私は欠伸を噛み殺しながら、冷蔵庫を開ける。
チーズが目に入って、野菜室にミニトマトが置いてあることを思い出す。いつもと同じようにトーストにジャムとバターを塗ってもいいけれど、今日は違うものが食べたい。
「ピザトーストにしようかな」
私はお皿を二枚だして、食パンを一枚ずつのせる。
用意する朝食は二人分で、今日、宮城はちゃんと家にいる。
家出はしなかったらしく、玄関に靴があったし、ドアの向こうに気配も感じる。まだおはようの挨拶はしていないけれど、待っていればおはようと言うことができる。
「――おはよう」
予行練習というわけではないが小さく呟いてから、食パンにケチャップを塗って、チーズと半分に切ったミニトマト、ハムをのせる。下準備ができたパンをトースターに入れてから、サラダを作るべくキャベツを千切りにして、きゅうりを切る。ピザトーストに使ったミニトマトの残りと一緒にキャベツときゅうりを深皿に盛り付けていると、トースターが甲高い音を立てた。
そろそろ食事の用意ができるけれど、宮城はまだ部屋から出て来ない。
ドアを叩いて宮城を呼ぶか迷ってから、チーズが溶けた食パンをトースターから出してお皿の上に置く。バジルがあれば良かったけれど買っていないものをのせることはできないから、オリーブオイルと胡椒をピザトーストにかける。
宮城の部屋のドアに視線をやるが、ドアが開いたりはしない。
テーブルの上にサラダとピザトーストを運んで、冷蔵庫からオレンジジュースを出す。グラスにみかん色の液体を注いでから、私は小さく息を吐いた。
食事は一人で食べるために作ったわけではない。
ピザトーストもサラダも宮城と一緒に食べるためのもので、私は彼女の部屋の前に立つ。
深呼吸を三回。
手を握って開いてから、ぎゅうっと握ってグーを作る。
宮城の部屋のドアを初めてノックするわけでもないのに緊張する。
トン、と一回ドアを叩く。
中からはなにも聞こえてこない。
今度は大きめにトン、トンと二回ドアをノックすると「なに?」と声がした。
「宮城、朝食の用意できた」
意識していつもと同じ声で言う。
十秒か、十五秒か。
それ以上かもしれないけれど、しばらく待っていると中から宮城が出てくる。でも、下を向いていて視線が合わない。私は、顔を上げてはくれないが、ようやく部屋の外に出てきた宮城に「おはよう」と声をかける。
「……おはよ」
小さな声が返ってきて、ドアがバタンと閉められる音が響く。
宮城は下を向いたままで、私を見ない。気まずい、とは言わないが、顔を上げようとしない彼女からそう思っていることが伝わってくる。
「こっち向きなよ」
私は、床をじっと見ている宮城に声をかける。
「向かなくてもいいじゃん」
「向きなよ」
「なんで?」
「それはこっちの台詞。なんで宮城は私を見ないわけ?」
答えが返ってくることを期待せずに問いかける。
宮城が私を見ない理由は予想できるし、それほど重要なことではない。
どんな理由であっても私を見てくれないと胸の奥が痛くなるし、理由がなければもっと胸の奥が痛くなるだけのことで、どちらにしても痛みを伴うから面白くない。それはじくじくと膿んだ傷の痛みに似ていて、ずっとその痛みが続くと思うと憂鬱になる。
「わかんない」
宮城が視線を上げずにぼそぼそと答える。
おはようは言ったし、これから一緒にご飯を食べる。
昨日、考えたことは全部叶う。
でも、それだけでは満足できそうにない。
「宮城」
小さく呼んで、手を伸ばす。
髪を耳にかけて、私が選んで贈ったプルメリアのピアスに触れる。小さな花の感触を親指で確かめてから、宮城、ともう一度呼んでピアスにキスをすると、Tシャツの裾を掴まれた。
唇を離して宮城を見ると目が合う。
頬にキスをしてから「おはよう」と言うと、さっきよりもはっきりとした声で「おはよう」と返ってきたけれど、宮城はまた下を向いてしまう。
「今日、夢見た?」
私と目を合わせたくないらしい彼女に問いかける。
「見てない」
「私は見たよ。宮城が私のこと抱きしめてくる夢」
見てもいない夢の内容を告げると、宮城が顔を上げて私を見た。
「それ、嘘でしょ」
「嘘だよ。ほんとは見てない」
正確に言えば、うとうととしたくらいで夢を見るほど眠れなかった。
「仙台さん、すぐ嘘つく」
宮城が不機嫌な声で言って、また下を向こうとする。だから、私は彼女が下を向いてしまう前に唇を奪う。
柔らかさの向こうにある硬いものの感触がわかるほど強く唇を合わせて、離す。でも、宮城が息を吸う前にもう一度キスをして、グミみたいに弾力のある下唇に歯を立てた。
宮城をこのまま押し倒してしまいたい。
ベッドの上じゃなくても、宮城に触れて唇以外にもキスしたい。
そんなことができるわけがないことはわかっているが、そう思う。
柔らかな唇を噛んで、舐める。
息ができなくなるくらい唇をくっつけて、宮城の腰に手を回す。そのまま体を引き寄せると、宮城が無理矢理唇を離した。
「今、なんでキスしたの?」
平坦な声で言って、宮城が私の体を押し離す。
「したかったから」
「それだけ?」
「それだけ」
私を見てはいるけれど、宮城が不満そうな顔をしているから「理由がいるなら作るけど」と付け加える。
「作るってなに」
「宮城が可愛かったから、とかどう?」
にこりと笑いかけると、結構な力で足を蹴られる。
「本気で蹴るのやめなよ」
昨日、好きだと言わなくて良かったと思う。
言ってしまっていたら、宮城がここにいてくれたかわからない。いてくれたとしても、今よりももっと気まずくて、キスすることもできなかったし、上手く笑うこともできなかったはずだ。
「変なこと言う仙台さんが悪い」
「可愛いって変なことじゃないでしょ」
「じゃあ、思ってもないこと言う仙台さんが悪い」
「宮城のこと可愛いって思ってるよ、ちゃんと」
そう言って髪に手を伸ばすと、足をまた蹴られた。これ以上、可愛いと言い続けると足に青あざを作ることになりそうで、私は宮城の手を引っ張ってテーブルの前へ連れて行く。
「ピザトースト作ったし、食べよ。冷めちゃうし」
私の声に宮城が定位置に座る。
私も椅子に座って、二人で「いただきます」と声を合わせてからピザトーストに齧り付く。
「仙台さんが変なことするから冷めてる」
「キスしただけじゃん」
オレンジジュースを飲んでから、またピザトーストを囓る。宮城が言う通りピザトーストは熱々という状態を過ぎているが、初めて作ったせいか美味しく感じる。
もう一口ピザトーストを囓ってごくんと飲み込むと、宮城が遠慮がちな声で言った。
「仙台さん、なんで平気なの?」
「平気って?」
「……恥ずかしくないの?」
宮城の口からぼそりと出てきた言葉にはいろいろと足りないものがあるけれど、昨日の出来事を指しているとわかる。
「宮城はこの前、恥ずかしかったから家出したの?」
「質問してるの、私なんだけど」
少し低い声が聞こえて、私は真面目に答えることにする。
「恥ずかしいとは思うけど、行くところないし」
体を触られて、普段出さないような声を聞かれて、答えなくてもいいような質問にまで答えさせられた。宮城の声も普段の声とは違ったけれど、総合的に考えると私の方が恥ずかしかったはずだ。自分の身に起きたことを考えると、この前、宮城が私の前から逃げ出したくなった気持ちがよくわかる。
でも、私は恥ずかしくても宮城といたい。
「泊めてくれる友だちくらいいるでしょ」
「いるけど、ここの方が落ち着くから。宮城は私がいない方が良かった?」
「そんなことは言ってない」
「じゃあ、もう少し楽しそうな顔しなよ」
笑えとか、愛想を良くしろとか言うつもりはないが、顔に張り付いている不機嫌という文字くらい剥がしてほしい。
「私がどういう顔してても関係ないじゃん」
「どういう顔しててもいいけど、少しくらい楽しそうな顔してる方が美味しくご飯が食べられると思うけど」
私は不機嫌そうな宮城を見ながら、ピザトーストを囓る。
宮城は楽しそうな顔をしない。
それどころか下を向いてしまう。
あまりにも非協力的な宮城に文句を言いたくなって口を開くと、私が喋る前に向かい側から小さな声が聞こえてくる。
「……一人で食べるより、二人で食べた方がいいと思ってる」
「え?」
「さっきの答え。いない方が良かった? って聞いたじゃん」
そう言うと、宮城がオレンジジュースを飲んだ。
「あ、うん。聞いた」
急に宮城が素直になるから気持ちが悪い。
でも、今なら私がほしかった返事がもらえそうで、昨日聞いたことをもう一度聞く。
「ねえ、宮城。夏休み、二人でどこか行こうよ」
向かい側、宮城が顔を上げて私を見た。
ほんの少しの間があってから、静かな声が聞こえてくる。
「行き先決めるの、仙台さんだから」
「わかった」
短く答えると、宮城が冷えたピザトーストを囓った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます