第150話
減らない麦茶と水滴のついたグラス。
ほしいと言った二杯目の麦茶を飲まない宮城はなにも言わない。
私たちはいつもと同じようで、どこか違う日曜日を過ごしている。
「そうだ、ピアス。いつ買いに行く?」
私は当たり障りのない話題で、木曜日から宙ぶらりんになっている約束を口にする。
宇都宮のことは気になるが、気持ちを少しでも違う方向へ持って行きたい。
「まだ決めてない」
宮城がグラスについた水滴を指先で拭いながら言う。
「そっか」
「いつでもいいんでしょ」
「いいよ。宮城はほしいピアスある?」
「仙台さんが選ぶんじゃないの?」
「選ぶつもりだけど、一応本人の希望も聞いておこうと思って」
ピアスは宮城との約束を思い出させるもので、私にとって特別なものだ。
私が穴を開けてつけたことで宮城が私のものだという印のようにも見えるそれは、そのときにつけたものではなくなっても私にとって特別な意味を持つものであってほしい。
だから、親が
宮城は私のバイト代で買えないほど高いものを本気で欲しがるようなタイプではないが、そういうものを言われても渡したいくらい宮城の耳に私が買ったピアスをつけたいと思っているから、ほしいピアスがあるならあらかじめ知っておきたい。
バイト代を使うと言ったら買わなくていいと言うに決まっているから、そのことを伝えるつもりはないけれど。
「……特にないし、仙台さんの好きにすれば」
宮城が素っ気なく言う。
「じゃあ、ピアス見せて」
「なんで見せなきゃいけないの」
「選ぶときの参考にしようかと思って」
今日も宮城のピアスは髪に隠れて見えない。どんなピアスをしているのかわかってはいるけれど、見たいと思う。
「買いに行ったときに見せる」
いい返事を期待していたわけではないが、あまりにもつまらない答えだ。
私は少し迷ってから、立ち上がって宮城に手を伸ばす。
けれど、手が髪に触れる前に宮城が体を引いた。椅子の脚がガタリと音を立て、私は彼女に触れる前に手を止める。行き場を失った手はテーブルの上に着地することになり、私は小さく息を吐いた。
宇都宮なら、簡単にピアスを見せてもらえるのだろうか。
そんなことが気になると同時に、心の中でくすぶっていた気持ちが大きくなる。
宮城に触れたい。
少し前までの私ならもう宮城に触れて、髪を耳にかけ、ピアスを見ている。でも、あまりにも先週の記憶が鮮明で迷いが生じた。そして、宮城も過剰に思えるほどの反応をした。
「そんなに驚くことないじゃん」
軽く言って、にこりと笑う。
穏やかそうに見えている空気を重くしたくない。
でも、このままだとずっと宮城に触ることができないような気がする。
「変なことしようと思ったわけじゃないから」
今度はゆっくりと手を伸ばす。
宮城は逃げない。
私の手は、触れたいという意思を持って一週間ぶりに彼女に触れる。宇都宮の家で宮城の腕を掴んだけれど、あのときは連れて帰りたいという気持ちだけしかなかった。
ただ髪に触れただけなのに、心臓の音が宮城にまで聞こえそうなほど大きくなる。
こんな些細なことで緊張している自分に驚く。
柔らかな髪を梳いてそれを耳にかける。ピアスを撫でて銀色のそれの硬さを感じてから、耳たぶに指を這わせた。
宮城が私の手を掴みかけてやめる。
目が合って、でも、文句は言われない。
掴まれて当然の手が掴まれないことに、不機嫌な声で拒まれないことに、何度も繰り返してきた触れるという行為が今までとは違う意味を持つものに思えてくる。
宮城が抵抗しないことをいいことに私の手は大胆になっていく。
耳たぶに触れていた手を首筋に滑らせる。
強く喉に指を押し当てて、下へと這わせる。滑らかな肌は触れているだけで心地が良く、先週の記憶が蘇る。あのときの宮城の声を思い出すと胸が苦しくなって、頭の中に居座っていた宇都宮が消えていく。
ゆっくりと鎖骨に触れる。
骨の上を撫でると、宮城の体が小さく震えて私の手はついに捕まった。
「耳じゃないところ触らないでよ」
ぎゅっと腕を掴まれる。
「わかってる」
宮城に引っ張られるまま手を離す。
私は大人しく椅子に座って宮城を見た。
彼女は立ち上がったりしないし、私を睨んだりもしない。
そして、私の鼓動は明らかに速い。
小さなことだけれどいつもとは違う。
私たちは夜から朝へと空が色を変えるように少しずつ色を変えている。でも、その変化を追い越すくらい劇的に変わってほしいと思う気持ちもある。
あんなことがあってもなにも変わらなかったら、変わるきっかけなんてどこにもない。けれど、変わらずにいれば宮城はルームメイトとして大学生の間はここにいてくれる。無理に変えようとすれば、また宮城が逃げ出してもう戻って来ないかもしれない。
「そろそろ部屋に戻るから」
気持ちが定まらないうちに、宮城が愛想のない声で言う。
「待ってよ」
「待たない」
「なんで?」
「仙台さん、なんか変なことしそうだもん」
宮城が立ち上がる。
私は彼女が部屋へ戻る前に腕を掴む。
「変なことってどんなこと?」
「自分の胸に手を当てて考えれば」
宮城の胸に手を当ててならじっくりと考えてもいい。
そんな馬鹿なことを考えていると、宮城の不機嫌な声が聞こえてくる。
「仙台さん、離してよ」
私は宮城の腕を離して、彼女の手を掴む。
「そういうことじゃない」
わかっているが、宮城をこのまま部屋に帰したくない。
私の気持ちと宮城の気持ちは重ならない。
それでも一緒にいられるのは日曜日にルームメイトという言葉を残したおかげだ。私にとって窮屈な言葉であるそれはいつかなくしたいものではあるけれど、今すぐなくしてしまうことに躊躇いがある。ただ、今までしていたことができる関係には戻りたいと思っている。はっきり言えば、キスくらいはしたい。でも、それを今するには見知らぬ人に声をかけるくらいの勇気がいる。
私は少し考えてから、今の宮城でも許してくれそうないくつかの行為の中から一つ選んで、彼女の指先に唇をつけた。
宮城の手が強ばる。
「宮城、これは変なこと?」
返事はないが、逃げ出したりもしない。
私は宮城が目の前にいてくれることに安心して、第二関節の上にキスをする。
指がぴくりと動く。
皮膚の柔らかさよりも骨の硬さを感じるほど強く唇を押しつけると、宮城が「仙台さん」と骨よりも硬い声を出した。
これ以上のことはしない方がいい。
唇ではなくてもキスをしたことで満足して終わりにするべきだ。
そう思うけれど、自分を止めることができずに指の上に舌を這わせると、宮城が私の髪に触れた。
いつもなら髪を掴んだり、引っ張ったりしてくる手は動かない。私は用心深く手の甲に唇を押しつける。
こんなことは宮城に命令されて過去に何度もしている。
私たちにとってたいしたことではない。
唇を一度離して、もう一度くっつける。
舌先で滑らかな肌を舐めると、宮城が腕を引こうとした。
散々命令して、何度もこんなことをさせてきたのに、今日は駄目だなんて言わせたくない。私は彼女の手を強く掴んで、指先を甘噛みする。
声は聞こえない。
先週の日曜日みたいに、小さな声でもいいから出せばいいのにと思う。
皮膚に食い込ませるように歯を立てて、指の腹に舌先を押しつける。傷口から溢れる血を吸うみたいに指を軽く吸うと、宮城が私の足を蹴った。
「もういいでしょ」
低い声が聞こえて、宮城の指を解放する。顔を上げると、眉間に皺を寄せた宮城が見えた。
「やっぱり変なことするんじゃん。仙台さん、すぐエロいことする」
「今のエロいって思うんだ?」
「思ったらいけない?」
「宮城が何度も命令して、私にさせてきたことだけど」
命令されて私がしただけではなく、宮城の方から同じようなことをしてきたことだってある。そういう今まで散々してきたことを今日この場面で宮城が“エロい”と言うとは思わなかった。
こういう言葉は過去に何度か聞いているけれど今日のような日に聞くと、私が先週の日曜日と今の行為を繋げたように、宮城もそうしたのだと言っているように聞こえる。
「なんかむかつく」
宮城が不機嫌な声を出して、私の足の先を踏んだ。
ピンポイントで力が伝わってくるから結構痛い。
「もうしない方がいい?」
踏まれている足を彼女の足の下から引っ張り出しながら尋ねる。
「ちゃんと反省してくれたらそれでいい」
そう言うと、宮城は私を見ずに部屋へ戻った。
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