第48話

 急がずに歩く。

 家から五分のコンビニへ寄って、ペットボトルのお茶とサイダーを買う。


 寄り道をした理由は単純なものだ。

 家族に誰かを連れてきたことを知られたくない。

 二人分のグラスを持っているところを見られたくない。

 でも、日陰の少ない街を歩いた後になにも出さないというわけにはいかない。

 ただそれだけの理由で、私はコンビニの袋を持っている。


「ここ」


 汗を吸ったTシャツが背中に張り付いて気持ちが悪いと思いながら、家の前で立ち止まる。宮城を見ると、何も言わずに珍しいものでも見るように何の変哲もない家を眺めていた。


 私は鞄から鍵を出す。

 けれど、鍵を使う前にドアが開く。


 間が悪い。

 運が悪い。

 日が悪い。


 どれが正しいかわからないが、玄関から愛想のない母親が出てくる。


「こんにちは」


 宮城が緊張しているとわかるよそいきの声を出し、ぺこりと頭を下げた。


 こういうとき、普通の母親ならこんにちはと挨拶を返したり、ゆっくりしていってとかそういうことを言うんだろう。でも、彼女は何も言わず、形だけ頭を下げて私たちの前を通り過ぎていく。


 挨拶をしてくれた宮城に悪いと思うけれど、私には何もできない。


「ごめん。気にしないで」


 母親の後ろ姿を見送ってから謝ると、宮城が困ったような顔をして頷いた。


 親とばったり会うことがあるかもしれない。


 そういう可能性は考えていたけれど本当にばったり会うとは思っていなかったから、ここに来たいと言った宮城に文句を言いたくなってくる。でも、それはただの八つ当たりだし、連れてくると決めたのは私だ。


「入って」


 空気が重くなる前に玄関のドアを開けると、小さな声が追いかけてくる。


「お邪魔します」


 二人で靴を脱いで階段を上がって、廊下に並ぶ二つの扉のうち手前で足を止める。


「ちょっと待ってて。部屋片付ける」

「部屋散らかってるタイプなの?」

「違うけど、一応」


 掃除はそれほど好きではないが、部屋が散らかっているということはない。それでも人が来ることを想定していない部屋に宮城を入れるのだから、チェックはしておきたかった。


 私は、宮城を待たせて部屋へ入る。

 ぐるりと見ると、チェストの上に置いた貯金箱が目に入った。


 あの中には宮城からもらった五千円が入っている。別に見られて困るものではないが、中身を考えると見せたくないと思う。


 とりあえず、エアコンのスイッチを入れる。

 袋からペットボトルをとりだしてテーブルの上にそれを置いてから、貯金箱をクローゼットの中にしまって宮城を迎え入れた。


「適当に座って」

「広いね」


 宮城が部屋の中を確かめるように言ってから、ベッドに腰掛ける。


「宮城の部屋だって広いじゃん」


 私の部屋も広い方だが、おそらく宮城の部屋の方が広い。


「さっきのお母さん?」

「そう」

「じゃあ、もう誰もいないの?」


 面倒だな。


 自分のテリトリーに人を入れることに付随するあれこれ。

 それが煩わしいものだとわかっていて宮城を呼んだものの、やっぱり面倒くさいと思ってしまうし、私は宮城にこんなことを聞いたりしないのにと思ってしまう。


 だから、嫌なんだ。


 こういう自分も面倒で、私は宮城の声を聞き流してテーブルの上へ手を伸ばす。サイダーが入ったペットボトルを取って宮城に手渡してから、ベッドを背もたれにして座る。お茶のペットボトルの蓋を開けると、宮城が催促するように「仙台さん」と呼んだ。


「たぶん、いるはず」

「いるって誰?」


 まるで自分の部屋にいるみたいにベッドに座っているけれど、落ち着かないのか宮城が足をゆらゆらと揺らす。


「出来の良い姉が一人」


 大学生の彼女は、夏休みに入ってすぐに帰ってきた。今日は姿を見ていないが、きっと部屋にいるだろう。


「隣の部屋?」

「そう」

「いくつ離れてるの?」


 宮城に悪気がないことはわかる。

 聞きたいというよりは、なんとなく思いついたことを口にして沈黙を埋めようとしているだけだ。でも、あまり良い質問じゃない。


「宮城、うるさい」


 お茶を一口飲んでからペットボトルをテーブルの上に戻して、揺れる右足を捕まえる。ショートパンツから伸びた足は膝が見えていて、私はそこに唇をつけた。そして、そのまま舌を這わせる。


「そういうことしてって、言ってない」


 聞こえないふりをして、靴下を脱がす。

 入れたばかりのエアコンはまだ効いていない。

 暑いせいか、命令をされてもいないことを平気でできる。


 足の甲に舌を付けて足首まで舐めると、柔らかな肌はいつもよりもしっとりとしていて汗の味がした。


「やめてよ」


 宮城が強い口調で言って、ペットボトルで頭を押してくる。私はひんやりとしたそれを奪って、床へ置く。ふくらはぎを撫でて脛に柔らかく唇をつけると、また文句が降ってきた。


「足舐めてなんて命令してない」

「これからするんでしょ」

「しない。足、離して」

「離さない」


 命令だと付け足すこともできたのに、宮城は命令だとは言わなかった。お願いでしかない言葉は私を止めるには不十分で、彼女の足首を強く掴んで親指を噛む。


「仙台さん、痛い」


 宮城が別の意味でうるさいけれど、いらないことは聞いてはこない。そして、やめろと命令してくることもない。

 こんな風にしていると、私も宮城もこうすることを望んでいるように思えてくる。


 くだらないことを追求されるよりはマシ。


 ただそれだけだった行為が違う行為にすり替わってしまいそうで、私は親指を噛む力を強くする。


「痛いってばっ」

「あんまり騒がないでよ。隣に聞こえる」


 壁はそれほど薄くはないし、隣に聞こえるような声ではないが、聞こえては困る内容だから釘を刺しておく。


「仙台さんのせいでしょ。やめたら騒がない」

「じゃあ、何か命令してよ」


 そう言って宮城を見ると、不機嫌そうな目で私を見返してくる。けれど、なにも言わずにいるから、噛んだ跡に舌を這わせて唇を何度か足の甲に押しつける。足首から骨の上を舐めて膝の下にキスをすると、宮城が足を引いた。


「こっちきて」


 小さな声が聞こえてくる。


「それが命令?」

「そう」


 言われた通りに隣に座って宮城を見ると、彼女の指先が唇に触れた。でも、輪郭をなぞるように撫でると指がすぐに離れようとして、その手を捕まえる。


 触れることを躊躇う理由はよくわからないが、宮城はこういうことを時々する。私はそれが気に入らない。


「他に命令したいことがあるんでしょ。ちゃんと言いなよ」

「手を離してくれたら言う」

「わかった」


 掴んだ手を開放すると、宮城が腕を引く。そして、少し迷ってからゆっくりと人差し指がもう一度私の唇に触れた。


「……舐めて」


 きっと、本当に命令したいことじゃない。けれど、何も聞かずに宮城の指先に舌をつけると、口の中に指を押し込まれた。指先が舌に触れて、第二関節辺りに軽く歯を立てる。口内を探ろうとする指に舌を絡めて、動きを止める。柔らかく舌を押しつけると、指が引き抜かれた。


 追いかけるように指の先を舐めて、舌を押しつけるように付け根まで這わせる。手の甲に唇をつけて、手首からその上へ緩やかに柔らかく宮城の腕を舐める。


「その舐め方、気持ち悪い」


 そう言って宮城が手を引こうとするけれど、唇をつけて手首と肘の間辺りに強く舌先を押し当てた。


「仙台さんってばっ」


 声とともに、強引に腕が引かれる。


「騒がないでって言ったの忘れた?」


 問いかけると、宮城が「騒いでない」と不満そうに答えて立ち上がろうとして、私は彼女の腕を掴む。


 油断をすると、宮城は私から逃げようとする。

 そして、そんな宮城を捕まえるのは私の役目だ。

 今日も、それは変わらない。

 

 私は、宮城をどこにも行けないようにベッドに押し倒す。


「どいてよ」


 当たり前だが、宮城が怒ったように言う。


「少し黙ってなよ」


 キスで唇を塞ぐなんて馬鹿みたいな考えが浮かんで、すぐに打ち消す。


 宮城が読む漫画に毒されすぎている。

 でも、それは何度も彼女の家に通って何度も彼女の本を読んだということの証で、ため息が出そうになる。


 一年前ならこんなことは絶対に考えなかったし、宮城を押し倒したりしなかった。大体、人を押し倒すのはいつも宮城で私じゃない。


「こういうのってルール違反なんじゃなかった?」


 また宮城がうるさいことを言い出す。

 私は、彼女がごちゃごちゃと文句を言い出す前に黙って首筋に噛みつく。


 強く歯を立てると、宮城が一瞬黙る。

 でも、それは本当に短い間ですぐに騒ぎ出す。


「仙台さん、痛い」


 宮城が私の肩を押して抗議する。

 けれど、止めたりはしない。


「ねえ、痛いって言ってるじゃん。やめてよ」


 本気で嫌がっている。

 そうわかるほど、私の肩を押す手には力が入っていた。


「自分だってこういうことするくせに」


 顔を上げて、宮城の首筋を見る。

 噛んだ場所が赤くなっていて悪かったと思うけれど、宮城だって悪い。


 場所は違うけれど、過去に似たようなことを何度もされている。私もしたことがあるが、宮城は手加減をしないから彼女の方が酷い。


 痛みや跡が増えるたび、宮城のことを考える時間が増える。


 宮城も少しは私の気持ちがわかればいいと思う。


「……そうだけど」


 歯切れ悪く言って、宮城が首を押さえた。

 まだ痛いのか、さするように手を動かしている。


 私は、彼女の隣に寝転がる。

 ベッドの上に宮城と二人。

 前にもそんなことがあったけれど、あれは宮城の家だった。私のベッドの上に宮城がいるというのは、不思議な感じがする。


「仙台さん、狭い」


 宮城が不満だらけの声とともに、私をぐいぐい押してくる。


「これ、私のベッド。押さないで、痛いから」

「私の方が痛い」


 そう言うと、宮城が起き上がって私の足を蹴った。


「知ってる」


 何度も宮城に跡をつけられたし、噛まれた。それがどれだけ痛いかは私が一番よく知っている。


 一応、後悔はしている。


 こんなことをするために宮城を部屋に入れたわけではないのに、こんなことになってしまった。この先、このベッドの上に宮城がいたことを思い出す私がいたら、きっと今の私を呪うはずだ。


「来週から真面目に勉強しよっか」


 あらぬ方向に向かいつつあった感情を修復するように告げると、宮城が「その方がいいと思う」と静かに答えた。

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