第274話

「で、仙台ちゃん。春休みどこか行った?」


 スマホから、能登先輩の楽しそうな声が聞こえてくる。


 珍しい。


 家庭教師のバイトのことで先輩から電話がかかってきたが、目的を果たしたのに話が終わらない。いつもなら用件のみで切られる電話に雑談がくっついてくる。


 会って話せば長話になることもあるが、スマホという道具を介したときの先輩は、必要のない話をほとんどせずに電話を切ってしまうからこういうことは稀だ。


「洋服を買いに行ったくらいですね」


 私は椅子代わりにしていたベッドから立ち上がり、床へ座る。

 春休みは先輩に言えないようなことも含めて、いろいろなことがあった。でも、予定を立ててどこかへ行ったのは宇都宮との買い物くらいだ。


「バイト代で、ぱーっと旅行に行ったりしなかったの?」


 夕飯はまだ先だし、時間はある。宮城も自分の部屋にいるから長話になってもかまわないが、この流れは良くない。


「特にどこにも」

「これから旅行の予定があったりは?」


 もう三月が終わる。

 そして、春休みももうすぐ終わる。

 だから、そんな予定がないことくらい先輩もわかっているはずだが、「ないです」と伝える。


「宮城ちゃんと旅行行ったり、行く予定ないんだ?」


 聞かれると思った。

 話の流れから、先輩が宮城のことを持ち出してきそうなことは予想できた。


 宮城と旅行。


 そういうことがあればいいなと考えることがある。でも、近くても遠くてもいいからいつか二人で旅行へ行きたい、なんて考えるのは私だけだ。わかっているから、あまり考えないようにしていたのに、先輩が変なことを言うから思考が良くない方へ向かいそうになっている。


 中身のないワニのティッシュカバーを引き寄せ、背中をぽんっと叩く。


「ないです。っていうか、なんで宮城限定なんですか?」

「同棲してるくらいなんだし、旅行くらい行くでしょ」


 先輩は、当たり前のように同棲と言う。

 過去に何度かルームメイトだと伝えているが、それでも同棲と言ってくるからもう否定はしないでいる。 


「宮城と旅行に行ってたとしても、私と宮城の旅行話なんて聞きたいですか?」


 水族館と動物園には一緒に行ったけれど、宮城は誘えばいつでも一緒に出かけてくれるわけではないし、どこにでも行ってくれるわけではない。彼女の中でどういう線引きをしているのかわからないが、一緒に行ってもいい“時”と“場所”があることはわかる。


 それでも先輩と話をしていると、先輩が同棲という言葉を口にするような気軽さで、宮城が旅行に行ってくれたらと思わずにはいられない。


「面白そうだし、聞きたいかな。澪から仙台ちゃんの家に遊びに行った話聞いたけど、宮城ちゃんかなり面白かったんだってね。だったら、旅行話も面白そうだし、行ったなら話をしてもらわないと」

「それ、澪が話を盛ってるだけです。澪って、いつも大げさじゃないですか」

「確かに。まあ、でも、一緒に暮らすほど仲がいいなら、二人で遠出するのもいいかもよ」

「考えておきます」

「じゃあ、旅行したら報告よろしく」

「先輩が期待するような面白い報告はできないと思いますけど」

「面白いよ、絶対。じゃ、澪が呼んでるし、そろそろ切るから」


 先輩がどこにいるのかはわからないが、言葉通り澪の声が遠くからする。彼女は相変わらず騒がしく、誰と話をしているのとか、あたしも話をしたいとか言いだしていて、先輩は慌ただしく「家庭教師の話、考えといて」と私に告げると電話を切った。


 私は誰の声も聞こえなくなったスマホを見ながら、ため息を一つつく。行けない旅行のことは心の奥に戻し、やらなければならないことを考える。


 四月からも、桔梗ちゃんの家庭教師を続けることになっている。


 結構前に決まっていたこの話を宮城にいい加減しなければと思っていたところに、先輩が家庭教師のバイトを増やさないかと誘ってきて、私はそれを引き受けようと思っている。


 言わなくちゃ。


 ずっとそう思っていた家庭教師の話に新しい家庭教師の話が加わったから、頭が痛い。バイトの話をすると、宮城が嫌な顔をすることがわかっていたから、言わずにいたら伝えることが倍になってしまった。


 嫌なことは先送りにする宮城の悪い癖がうつったのかもしれない。


「一つも二つも同じ、同じ。どっちにしてもバイトの話だし」


 自分を励まして、立ち上がる。

 バイトのことは許可を取らなくてもいいと言われているけれど、食事の時間が合わなくなるから言わないわけにはいかない。


 気が重い。


 言えば、彼女の気分を害する。どうせなら宮城もバイトをすればいいと思うが、彼女が私の知らない誰かと会って、交流が増えていくのは面白くない。心は思うように動いてくれない。

 私は、ふう、と息を吐く。


「そろそろお家に帰ろっか」


 中身のないワニを抱えて、部屋を出る。宮城の部屋の前に立ち、深呼吸を二回する。ドアを軽く三回叩くと、中から「入って」という声が聞こえた。


「これ、返しに来た。カバーなくて風邪引いたら可哀想だし」


 部屋に入り、ベッドに寝転がって漫画を読んでいる宮城の隣にワニを置く。


「風邪って、ティッシュの箱が?」


 宮城が漫画を閉じて、怪訝な顔を私に向ける。


「そう」

「……仙台さんって、エロ魔神のくせに乙女なところあるよね。ぬいぐるみに名前付けたりするし」

「エロ魔神は余計だと思うけど」

「乙女とエロ魔神どっちか選ぶなら、絶対にエロ魔神じゃん」

「宮城だってエロいし、人のこと言えないでしょ」

「仙台さんにエロいとか言われたくない。あとこれ」


 宮城の隣に置いたワニが私の元へ戻って来る。


「私、ワニを返しにきたんだけど」

「ティッシュの箱につけて」

「宮城って人使い荒いよね」


 文句を言いながらも、手渡されたワニをティッシュの箱につける。そして、ベッドを椅子代わりにして座ると、宮城が慌てたように体を起こした。


「ペンギン返す」


 素っ気ない声とともに、ベッドで眠っていたぬいぐるみが私の太ももの上に置かれる。


「まだ持ってていいよ」


 ペンちゃんを宮城に返そうとするが、「もういい。返す」と不機嫌な声が飛んでくる。


「じゃあ、しばらくペンちゃん預かっておくね」


 ペンギンのぬいぐるみは私と宮城、二人のものだ。どちらの部屋にあってもいいものだから、素直に受け取っておく。これでワニは宮城の元、ペンギンは私の元に戻ったことになるが、私が話さなければならないことはぬいぐるみのことではない。

 ぬいぐるみはただのついでだ。


「宮城。あのさ……」


 続けなければいけない言葉が出てこない。

 ペンちゃんの頭を撫でて息を吐くと、宮城が私の隣に座った。


「仙台さん?」


 途切れた話を繋ぎ合わせるように、宮城が私を呼ぶ。

 今、彼女の機嫌はそれほど悪くない。

 でも、これから悪くなると思うと、こめかみの辺りが痛くなる。


「あー、うん。家庭教師のバイトなんだけど」


 視線を落として、ペンギンの頭をじっと見る。

 宮城はなにも言わない。

 だから、続く言葉を口にする。


「桔梗ちゃんのところ、四月からも行くことになった」

「……仙台さん、その子、高校合格したって言ったじゃん」


 宮城がぼそりと言う。


「したけど、これからも来てほしいって言われてる。あと、もう一人生徒を増やそうと思ってる」

「……へえ」


 平坦な声が聞こえてきて、こめかみだけではなく胃も痛くなる。息を吐き出すと、ペンギンの周りが灰色に染まったように見えて、私はゆっくりと顔を上げた。


「いい?」


 宮城を見て尋ねると、視線をそらされる。


「私に聞く必要ないじゃん。前にも言ったけど、いちいち私に聞かないでしたかったらすれば」


 宮城が嫌だと言ってもバイトはする。それは決まっているから、許可を得る必要がないという言葉は有難い。でも、面白くない。


 バイトは続けるし、辞めるつもりもないけれど、宮城にバイトをしないでと言われたいし、側にいてほしいと言われたい。


 矛盾しているけれど、宮城がもっと強い感情を私に向けてくれればいいのにと思ってしまう。


「バイトしてもいいんだ?」


 小さな声で尋ねる。


「……いいけど、むかつく」


 宮城が低い声で言って、私の足を蹴る。


「むかつくって?」

「バイトの話、勝手にしていいって言ってるのにわざわざしていいか聞きに来るのも、もう決まってる高校合格した子の家庭教師を続けるって話を後出しみたいに言ってくるのも、むかつく。――どうせ私の意見なんて関係ないのに」


 機嫌の悪さを隠さない声とともに、むぎゅりと足を踏まれる。


「そういうわけじゃないんだけど」

「どういうわけでもいいから、バイトくらい勝手にしたら。舞香も四月からバイトするし」

「宇都宮もバイトするんだ?」

「ハンバーガー売るんだって」


 宇都宮がハンバーガーを手作りして、大学かどこかで売り歩くような話に聞こえるが、おそらくファストフード店でバイトをするということなのだと思う。


「宇都宮って接客業に向いてそうだし、いいかもね」

「舞香は明るいし、元気だしね」


 宮城が私を見ずに言う。

 まだ声が低いから、機嫌は直っていない。


 仲の良い宇都宮がバイトをすることが気に入らないのかもしれないと思う。バイトは親友と過ごす時間を減らすものだから、楽しい気分になれなくても仕方がないとは思うけれど、そういう宮城を見る私も楽しい気分にはなれない。


「宇都宮、お客さんに告られたりして」


 ペンギンのぬいぐるみをお腹にぎゅっとくっつけて、心の奥から這い出てこようとする闇を押し戻す。


「そういうことってほんとにあるの?」

「あるよ。澪とか、されることあるし」


 なるべく明るい声で答えると、宮城が「あるんだ」と独り言のように言って、床をトンっと蹴る。そして、私ではなくペンギンに視線を合わせ、口を開いた。


「……仙台さんは?」

「ないよ」


 ほとんど、が頭に付くけれど。


 カフェでのバイトは期間が短かったし、お客というのはそれほど店員に話しかけてくるものではない。それでもそういうことがまったくなかったわけではない。だが、どれも本気の告白というものではなく、ナンパのような軽いものだったから、わざわざ伝える必要はないと思う。


「澪さんって、そういう人と付き合うの?」


 宮城がペンギンから視線を上げて、私を見る。


「今までいい返事してるところ、見たことないけど」

「なんで? 人を合コンに誘ってくるくらいだから彼氏ほしいんじゃないの?」

「彼氏がほしいって言っても、誰でもいいわけじゃないだろうし。それに澪は、合コンに彼氏を探しに行ってるって感じじゃないんだよね」

「どういうこと?」

「合コンの雰囲気が好きなんじゃない? みんなで集まってわいわいするの、好きだしね。いい人が見つかったらラッキーくらいのものでしょ、たぶん」

「ふうん」


 興味がなさそうに宮城が言って、「……バイト、私もしようかな」と唐突に予想していなかったことをつぶやく。


「え? バイト? どこで? 本当に?」


 本気ではないはずだ。

 ただなんとなく口にしただけだ。

 そう思うけれど、頭に浮かんだ言葉が喉でちぎれて、バラバラになって飛び出てくる。


「舞香もバイトするし、暇になるもん」


 宮城がぼそりと言う。


「本当にバイトするの?」

「仙台さん、じゃんけん」

「質問の答えじゃないじゃん。急になんの勝負?」

「仙台さんが勝ったらバイトする」


 本気かどうかわからない。

 でも、宮城がバイトをしたいと考えているとは思えない。

 だから、私は自分が絶対に負ける方法を提案する。


「……宮城、グーだして。私、チョキだすから」

「勝負になんないじゃん」


 そう言うと、宮城がペンちゃんをグーでぽすんと叩いた。

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