第144話
「で、なにがあったの?」
部屋に一歩足を踏み入れた瞬間、舞香が言う。
いつもならなにか話す前に「なにか飲む?」と聞いてくれるけれど、今日は飲み物はどうでもいいらしい。
「話す前に、鞄置いてもいい?」
「いいけど、約束したんだからなにがあったのか教えてよね」
「うん」
私はテーブルの横に鞄を置いて、柔らかなラグの端に座る。舞香の部屋には大学生になってから何度も遊びに来ているけれど、これから答えなければならないことを考えると少し緊張する。
「じゃあ、理由を教えて。ほんとに喧嘩なの?」
舞香が向かい側に座って、私をじっと見る。
理由というのは私が大荷物を持って大学に行った理由で、もっと言えば舞香の部屋に泊めてもらう理由だ。講義室で「今日、泊めてほしい」と舞香に頼んだときに「ルームメイトと喧嘩したから」とその理由を説明したけれど、彼女はそれだけでは納得しなかった。
でも、昨日の出来事が原因で仙台さんから逃げてきたなんて言えるわけがない。舞香には親戚と一緒に住んでいると伝えているから、仙台さんの名前を出したら話がややこしくなる。
「ちょっといろいろあって。喧嘩っぽくなったっていうか」
自分でも驚くほど下手な嘘に心が痛む。
舞香に隠し事はしたくないと思うけれど、過去に仙台さんとあったことをすべて隠したままルームメイトになった経緯を上手く説明する自信がない。そして、すべてを話す勇気もない。
私はいつだってそうだ。
朝、仙台さんの顔を見る勇気。
夜、一緒にご飯を食べる勇気。
そういうものを持っていないから、仙台さんが起きてくる前に家を出た。彼女から逃げたところでなにも解決しないことはわかっているし、会いたくないわけではないけれど、私には仙台さんとどんな顔をして、どんな話をすればいいのかがわからなかった。
「だから、そのいろいろを教えてほしいんだって」
舞香がわざとらしい笑顔を作って、「この狭い部屋に志緒理を泊めるんだからさ」と催促してくる。
彼女の言葉通り舞香の部屋はそう広くないワンルームだけれど、綺麗に片付けられているせいか狭いと思ったことはない。私一人くらいなら増えても問題はなさそうだが、泊めてもらう立場の私には文句を言う権利がないし、理由くらいは告げるべきだと思う。でも、ルームメイトが仙台さんだというところから始まって、昨日あったことに繋がるところまで話す勇気はやっぱり出ない。
「ほんとに喧嘩なんだって」
私は、最初についた嘘を押し通すことにする。
「志緒理、喧嘩するタイプじゃないじゃん」
「親戚だし、ちょっと言い過ぎちゃって」
「それって志緒理が悪いの?」
「んー、どっちが悪いってこともないんだけど。ちょっと頭を冷やしたいっていうか」
納得したかわからないけれど、舞香が「ふうん」と言って私を見た。
「ちょっと頭を冷やすってどれくらい?」
「ちょっとはちょっと」
「頭が冷えるまでうちに泊まるつもりなら、ちゃんと教えて」
舞香が真面目な声で言う。
「……三週間とか、二週間とか」
「長くない?」
「じゃあ、一週間。三日でもいいし、泊めて」
「泊まるのは二週間でも三週間でもいいんだけど、喧嘩って長引くと仲直りしにくいよ? 早く家に戻ったほうがいいんじゃない」
柔らかだけれど芯のある声に、舞香が私を泊めたくないのではなく本気で心配してくれていることがわかって、針で刺されたようだった胸の痛みが杭でも打たれたくらいに大きくなる。
「……わかってるけど」
昨日あったことを考えたら、私が今日帰らなくても仙台さんはそんなものだと思ってくれるだろうけれど、早く家に帰った方がいいとは思う。日が経てば経つほど帰りにくくなる。
それに、私は今日も仙台さんのことを考えていた。
朝、私がいないことに気がついてどう思ったのか。
大学で私のことを考えているのか。
またああいうことをしたいと思っているのか。
いろいろなことが頭に浮かんで、気持ちも浮いたり沈んだりして結局家に帰らずに舞香の部屋にいる。
「まあ、少し考えた方がいいよ。とりあえずなにか持ってくるから座ってて」
そう言うと、舞香が立ち上がる。
私は冷蔵庫を開ける彼女にルームメイトと体の関係ができたときの対処法を尋ねてみたくなるけれど、聞けば対処法よりもルームメイトが誰でどうしてそうなったかを説明する時間の方が長くなりそうで、知り合いの話だなんていうたとえ話も封印してラグの上に倒れ込む。
せめて「少し考えた方がいい」という舞香の言葉に従って、どうすれば仙台さんと今まで通り過ごせるか考えたいが、彼女のことを考えると日曜日の記憶も一緒に引っ張り出されて頭が働かなくなる。
「梅とオレンジ、どっち飲む? ちなみに梅は新製品」
舞香が戻ってきて、ごろごろしている私に持ってきたグラスの中身を説明する。
「オレンジジュース」
トンッとテーブルの上にグラスが置かれる音が聞こえて、私は体を起こした。
「……志緒理」
「なに?」
「喧嘩の相手って言うか、一緒に住んでるのって実は彼氏だったりする?」
元いた場所に座った舞香がやけに真剣な目で私を見る。
「なんでそう思うの?」
「否定しないんだ」
「否定してる」
「今の否定じゃないじゃん。あやしい」
「あやしくない」
オレンジジュースを一口飲んでから「彼氏じゃないから」と付け加えると、へー、と平坦な声が返ってくる。どうやら私の言葉は信用されていないらしい。
「そのピアスも本当は彼氏のためじゃないの?」
ふざけたように言うと、舞香が手を伸ばして私の耳たぶをふにふにと触ってくる。くすぐったくて身を引きながら「違うって」と答えると、耳たぶから指が離れた。
私はくすくすと笑っている舞香の指先を見る。
仙台さんにも耳を触られたけれど、舞香が触れたときとはまったく違う感覚があった。
自分で自分の耳を触る。
当たり前のことだけれど、仙台さんが触れたときとは違う。彼女の手は、他の誰の手とも違った。
日曜日、仙台さんの手は確か――。
私は昨日のことを思い出しかけて、オレンジジュースを記憶と一緒に口の中に流し込む。ピアスよりも仙台さんは私の奥深くにまで入り込んでいて、油断するとすぐに顔を出そうとする。
「志緒理、これ美味しい。一口飲む?」
向かい側から舞香のグラスが私の前に置かれて、薄く色づいた透明な液体が揺れた。さっき梅と言われたせいか、爽やかな酸味を感じさせる香りが漂っているような気がする。
「いらない」
梅は嫌いではないけれど、グラスを舞香に返す。
「そっか」
舞香の声と重なるように私のスマホが鳴って、鞄の中から取り出す。画面を見ると、『朝どうしたの?』と仙台さんから何度目かのメッセージが届いていた。
仙台さんにずっと会いたくなくて、早く会いたい。
私は気持ちの整理ができなくて、メッセージには返信せずにスマホを鞄に突っ込む。
「喧嘩の相手?」
「うん、まあ」
「今日、ほんとに帰らなくていいの?」
「今日は泊めて」
「好きなだけいていいけど、早く仲直りしなよ」
私の言葉を信じたのかどうかわからないけれど、舞香が優しい声で言う。
「うん」
私は少し迷ってから、スマホを取り出す。
『ごめん。今日は帰らない』
仙台さんを心配させたいわけじゃない。
私は、最低限必要な情報を仙台さんに送ってスマホを鞄にしまった。
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