第178話

「アザラシとアシカの違い、わかった?」


 宮城の声が聞こえて、私はタブレットを見ながら答える。


「んー、泳ぎ方とか、耳介じかいがあるかないかとか。そういう感じみたいだけど」


 水族館から帰ってくる途中に買ったお弁当で夕飯を済ませたあと、宮城は当然のように私の部屋にやってきてずっと隣に座っている。


「じかいって?」


 疑問を口にした宮城をタブレットから顔を上げて見ると、水族館のパンフレットを見ていたはずの彼女と目が合った。


「こういう耳の外に張り出している部分のことみたいだけど」


 手を伸ばして宮城の耳の輪郭を辿るように撫でて、耳たぶを引っ張る。親指にピアスの硬さが明確に伝わってきて手を離す。代わりに耳たぶに唇を寄せようとすると、宮城が「仙台さん」と少し低い声で私を呼んだ。


「耳介って、アザラシとアシカのどっちにあるの?」

「アシカ。ここに耳たぶのようなものがあるって書いてある」


 私は宮城にタブレットを渡して、彼女の耳たぶにキスをする。


「今、私の耳たぶは関係ないじゃん」


 素っ気ない声とともに、宮城が私の肩を押してくる。


「そんなこと言っても、ここにアシカいないし」

「それ、アシカがいたらアシカの耳にキスするってこと?」

「アシカは可愛いと思うけど、キスするほどじゃないかな。そんなことよりアザラシとアシカの違い、見なくてもいい?」


 宮城に渡したタブレットを指差すと、彼女は不機嫌そうに「見る」と言ってから手元に視線を落とした。


「宮城、今度アザラシとアシカの違い確かめに行こうよ」

「動物園行くんじゃなかったの?」


 宮城がタブレットを見たまま言う。


「動物園も水族館も行けばいいでしょ。宮城はアシカの耳、見たくない?」

「見たいけど」

「じゃあ、いいじゃん。両方行けば」

「……仙台さんはいいの? 水族館何度も行きたくなるほど魚好きってわけじゃないよね?」


 そう言うと、宮城はアシカの耳介が表示されたタブレットから顔を上げて私を見た。

 一応、私の好き嫌いを考慮してくれているらしい彼女に、珍しいな、と思う。


 宮城は夏休みに入ってからずっと寛容だけれど、今日はそこに怖いくらいの素直さと優しさが付け加えられている。夏休みはまだ半分以上残っているのに、夏休みの良いところを全部今日に集めてしまったような気がしてなんだか少し勿体ないことをしたような気分になる。


 良いことをもう少し薄く伸ばして幸せを長続きさせたい。


 そんなことを考えたくなるが、それはあまりにもこれから先の毎日に期待をしなさすぎていると言えるのかもしれない。今日を夏休みのクライマックスにしてしまうと、残りの日々が味気なくなってしまいそうだから、まだもっと良いことがあると信じながら宮城に答えを返す。


「今日、水族館楽しかったし、また行きたいって思ってるよ。宮城も今日、楽しかったって言ってたじゃん」


 好きなものを魚に限定されると困るけれど、水族館は私にとって大切な場所になった。宮城が楽しそうにしてくれるし、彼女が気に入っているペンギンも可愛い。何度でも行きたいと思う。だから、宮城も私と同じように何度でも水族館に行きたいと考えていてくれたら嬉しい。


「……そうだけど」

「だったら、また水族館行こうよ。動物園の前でもあとでもいいからさ」

「じゃあ、それでいい」


 宮城は、はっきりと行くとは言わなかった。

 でも、私の言葉を受け入れたとわかる答えを口にすると、タブレットをテーブルの上に置いた。


「仙台さん」


 宮城が私を見ながら小さな声で言う。


「なに?」


 聞き返して、次の言葉を待つ。

 時間がゆっくりと流れる。

 彼女の声は聞こえてこない。


「宮城?」


 いつまでたってもなにも言わない彼女は私の声に反応して、迷ったように視線を落とす。


「どうしたの?」


 わけがわからず問いかけると、宮城が私の腕を掴んだ。そして、私の問いに答えることなく唇を重ねてくる。


 キスは嫌いじゃない。

 私からするキスも、宮城からされるキスも等しく好きだ。


 けれど、今ここで宮城がキスをしてくるとは思わなかったから、唇が触れ合ったままこのキスの意味を考えてしまう。


 水族館のお礼。

 そういう感じのキスなんだろうか。


 答えを導き出したところで、唇が離れる。

 宮城と目が合う。

 彼女がなにか言う前に目を閉じると、もう一度キスをされる。


 やっぱり夏休みの良いところを先取りしてしまった気がする。

 さすがに今日は出来過ぎている。


 こんなの、私と宮城が付き合っているみたいだ。


 二度目のキスはキスの意味を導き出す前に唇が離れて、宮城が私の腕を強く掴んでくる。

 彼女をよく見ると、頬が少し赤い。


「宮城」


 なにか言いたくて宮城を呼んでみたけれど、なにを言いたいのかよくわからない。

 腕を掴んでいた宮城の手がするりと滑って肩に触れた。軽く体重がかけられ、私は抵抗することなく彼女に押し倒される。

 冷たい床の上から宮城を見上げると目が合う。

 私は彼女のほんのり赤い頬を撫でる。


「目、閉じてよ」


 宮城が視線を合わせたまま静かに言う。


「閉じたくない」


 キスをしたいのだと思うけれど、目を閉じるのは勿体ない。

 私を押し倒して、頬を染めて、キスをしたがっている宮城なんてこの先もう見られないかもしれないから、ずっと彼女を見ていたい。


 でも、宮城は私のそんなささやかな願いも叶えてくれない。


 自分から人を押し倒したくせにすぐに体を起こそうとするから、私は彼女の腕を掴んだ。


「このままキスしなよ」


 できるなら、キスをするよりも彼女が今どういう気持ちでいるのか聞いてみたいけれど、聞いたときがこの時間が終わるときだとわかっているから聞くことはできない。

 だったら、この時間を終わらせずにすむキスを選ぶ。


「宮城」


 私は動こうとしない彼女の名前を呼んで、「目は閉じなくてもキスできるでしょ」と付け加える。


「閉じないとできない」


 宮城が断言する。


「じゃあ、キスじゃないことすれば」

「なにそれ」

「私はいいよ」

 腕を掴んでいた手で首筋を撫で、うなじに指を這わせる。そのまま宮城を少し引き寄せると、不満げな声が聞こえてきた。


「いいよってなにが」

「抵抗せずに押し倒されたってことは、もっと先のことをしてもいいってこと」

「私は良くない」

「だったら、あのときの約束を守ってもらおうかな」


 私は布越しに宮城の脇腹を撫で下ろしてTシャツの裾を掴み、ゆっくりとたくし上げる。


 服を脱がすつもりはない。


 宮城から着ているものを取り上げたらここから逃げ出してしまうだろうし、下手をすると一生触らせてくれなくなるかもしれない。

 肋骨の少し下あたりまでTシャツをめくったところで宮城の体が小さく動いて、私は手を止める。


「仙台さん、約束ってなに?」


 明らかに不機嫌な声が聞こえてくる。


「宮城からしてきたとき、私も触りたいって言ったら今は無理だって言ったじゃん」

「それ、今度していいって約束じゃないよね?」

「今は無理ってことは、今度はいいってことでしょ」

「じゃあ、今も無理。やめて」


 宮城がごちゃごちゃとうるさいことを言いながら私の手を掴もうとしてくるから、Tシャツの中に手を滑らせる。

 肋骨の感触を確かめながら滑らかな肌を撫で、胸の下で手を止める。私の体温を流し込むようにゆるゆると脇腹に指を這わせて、背中へ手を回す。


 前にも、こうして宮城の体に直接触れた。

 あのときは部屋が暗くて顔が見えなかったけれど、今は良く見える。


 頬がさっきよりも赤い。

 唇が少し開いていて、なにか言いそうだと思う。


 宮城を引き寄せてキスをしたくなるけれど、もっと見ていたくもある。

 腰の少し上、背骨をつつくと宮城の体がびくんと動いて眉間に皺が寄った。


「やだって言ってるじゃん」


 声は不機嫌だけれど、私の手を掴んできたりはしない。

 背骨を辿るようにゆっくりと背中を撫で上げていくと、宮城が「仙台さん」とさっきよりも強い声を出す。


「やだ」

「そんなこと言わないで、このまま許しなよ」


 手を滑らせて、ブラの上に置く。

 指先でホックを確かめて、どうしようか迷う。

 このまま外してしまいたいけれど、今日は宮城を怒らせるようなことはしたくない。


「外していい?」


 一応、尋ねると間を置かずに「絶対にやだ」と返ってくる。


 ――だよね。

 言うと思った。


 わかっていて聞いたことだし、無理強いをするつもりはない。それでも諦めきれず、緩やかに手を滑らせてブラの上から胸に触れると、宮城が私の手を掴んだ。


「するのもされるのも嫌な理由は?」


 今は嫌だと言うならいいと言うまで待つつもりではあるけれど、待たされる理由くらい教えてほしい。

 でも、宮城は答えない。


「理由くらい言いなよ」

「手、どけてくれたら答える」


 宮城が心の底から嫌そうな声を出す。


「じゃあ、先に宮城が手を離して。じゃないと手をどけられない」


 抗議をすると、宮城の手が離れる。

 だから、私も手を離す。


「これでいい?」


 尋ねると、宮城が私から視線を外した。

 そして、小さな声で喋りだす。


「……するのもされるのも、わけわかんなくなりそうだからやだ。なんか、今日、水族館行ったこととかもぐちゃぐちゃになりそうな気がするし」


 予想していなかったことが聞こえてきて、混乱する。


 するのも、されるのも、宮城にとっては気持ちがいいことだと言っているようにしか聞こえない。しかも、そんなことになって、今日のことがわけがわからなくなるようなことになってほしくないと思っているように聞こえる。


 宮城がそんなことを思うだろうか。

 いや、本人が言っているのだから間違いはない。

 でも、信じられない。


「結構すごいこと言ってるけど、大丈夫?」


 宮城から大事なネジが抜け落ちてしまったのではないかと不安になる。


「大丈夫じゃない。Tシャツ直してよ」


 宮城が無愛想に言って、私を睨む。

 やっぱり、私は今日死んでもおかしくない。

 そんなことを思いながらめくり上げたTシャツを引っ張って元に戻すと、宮城が体を起こした。

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