第317話

 一日が長い日は決まっている。

 今日はそういう一日が長い日で、仙台さんがいつまでたっても帰ってこない。


 理由はわかっている。

 仙台さんが家庭教師のバイトをしている日だからだ。


 顔を見たし、喋ったこともあるけれど、どんな人間かよくわからない生徒と一緒に仙台さんが過ごしている間、私の時計は進まない。


 スーパーで食材を買って帰ってきても、仙台さんが帰って来る時間が遠かった。おかげで私はブロッコリーなんてものを茹でることになっている。


 私しかいない共用スペースで鍋の中を見る。

 一口大に切った緑の塊は、熱湯の中でもがき、苦しんでいる。

 菜箸でブロッコリーをつつくと、緑の塊が慌てて逃げた。


 頭の中では、今日、大学で聞いた“仙台さんと舞香が話していたこと”が走り回っている。


「美味しそうに見えない」


 地獄の裁判官になった気分でもう一度ブロッコリーをつついてから、中華丼のレトルトを温める。


 冷蔵庫の中からレタスとトマトを出して洗う。


 お皿の上に綺麗になったレタスをちぎり、茹でたブロッコリーと切ったトマトをのせる。丼にご飯とレトルトの中華丼を盛り付けると、料理というには手抜きだけれどそれなりに彩りの良い夕飯ができあがる。


 テーブルに中華丼とドレッシングをかけたサラダを置き、箸と三毛猫の箸置きを用意する。自分の椅子に座り、ブロッコリーを睨む。


「……絶対に美味しくない」


 はあ、と息を吐き出して、一緒に「いただきます」も吐き出す。

 ブロッコリーを口に放り込んで咀嚼する。


「やっぱり美味しくないじゃん」


 テーブルの上に視線を落として、三毛猫の箸置きに文句を言う。


 嫌いなブロッコリーを美味しく食べられたら自分を好きになれるかも、なんて思った私が馬鹿だった。


 ときどき仙台さんが私の嫌いなものを料理に混ぜ込んで、テレビで見る親のように、好き嫌いをなくせ、なんてつまらないことを言うけれど、何度やっても無駄だ。嫌いなものを急に好きになるなんてことはない。


 仙台さんは意地悪だ。

 こっそりと私を変えようとしてくる。


 彼女がいなければ、私はブロッコリーを食べようなんて思わなかった。嫌いなものは嫌いなもののままで良かった。好きになりたいなんて思わずに済んだ。


 ブロッコリーをもう一つ食べる。

 どうしても美味しいとは思えない。


 程よく温められた中華丼を食べる。

 よくある味ではあるけれど、ブロッコリーに比べるとはるかに美味しい。


 トマトを食べて、レタスを食べる。

 中華丼を全部食べて、ブロッコリーを睨む。

 箸で一つつまんで、飲み込むように食べる。

 でも、まだ残っている。


 行儀が悪いと思いながら箸で緑の塊をつつくと、共用スペースのドアが開く音と「ただいま」という声が聞こえてきた。


「おかえり」


 ブロッコリーから視線を外さずに答える。


「宮城、なに食べてるの?」

「ブロッコリー。サラダにした」

「ブロッコリー好きになったんだ?」

「嫌い。美味しくない」

「だよね。でも、美味しくないのってサラダにするからじゃない? 嫌いなもの入れるなら、もっと美味しく食べられるような料理にしなよ」


 共用スペースの入り口辺りから聞こえていた声が段々と近くなり、視線を上げると仙台さんが私の隣にいる。


「それ、どんな料理?」

「お肉と一緒に炒めるとか」

「仙台さん、よくブロッコリーをお肉と一緒に炒めるけど、あれ、あんまり好きじゃない」

「どうしたら好きなるの?」

「どうやっても好きにならない。これ、仙台さんが食べて」


 私はブロッコリーだけが残されたお皿を彼女のほうへ押しやって、箸を渡そうとする。でも、仙台さんは受け取らない。


「宮城が食べさせてくれたら食べてもいいけど」


 仙台さんが面白さの欠片もないことを言って、にこりと笑う。


「……自分で全部食べる」


 お皿に残ったブロッコリーは三つ。

 私は飲み込むように食べて、「美味しくない」と告げる。


「そのうち美味しくなると思うよ」


 仙台さんが無責任なことを言って、向かい側の椅子に座る。


 どうやら彼女は自分の部屋へ戻るつもりがないらしい。

 なにが面白いのか私をじっと見ている。


 そして、私は彼女のその視線に安心している。おかげで聞きたかったことがすんなりと聞ける。


「仙台さん」

「なに?」

「舞香に水族館行ったこと話したよね?」

「話したけど」

「なんで?」

「昨日、宇都宮から連絡があったから。ライブに行く服の相談したいって言われて、その流れで」


 仙台さんの話におかしなところはない。

 舞香はお気に入りのゲームのライブに朝倉さんと一緒に行くと張り切っていたし、仙台さんに着ていく服の相談をしたいとも言っていた。


 それに、二人が連絡を取り合っていることに疑問もない。

 舞香が、私に相談しても仕方がないことを仙台さんに相談していることは知っている。


「流れって?」


 仙台さんと舞香は、私と舞香ほどではないけれど仲がいい。


 話の流れで水族館のこと言ったのだろうと思っていたけれど、話の流れができるほど二人で話をしていたと思うと心の奥を強く押されたみたいな痛みを感じる。


「今日なにしてたって話になったから話したんだけど。……それよりさ、なんで宮城は行かないの? そのライブ」

「それ、ゲームの曲やるライブなんだけど、私はそのゲームやってないから」

「そっか」


 仙台さんの明るい声が消え、会話も消える。


 私との間に起こったことは誰にも話さないで。


 そんなことを言いたくなるけれど、私という存在を抹殺する言葉に思えて口にできない。


 私との間に起こったことを誰かに話して。


 そんなことは言わないけれど、私という存在が仙台さんの中にいることを知ってほしいと思っている私がいる。その私は日に日に大きくなっているように思う。


 でも、仙台さんが私のことを話す相手が誰なのかと考えると気が重くなる。


 舞香か、澪さん。


 思い当たるのはそのどちらかで、どちらが相手でも好ましくない。そして、そのどちらでもない誰かは舞香と澪さん以上に許せない。


「仙台さん、仲がいい友だちいる?」


 食器を片付けなければいけないけれど、椅子に座ったまま向かい側に問いかける。


「なんか失礼なこと言われてる気がするんだけど」

「いるかどうか聞いただけじゃん」


 仙台さんの交友関係はきっと私が思っている以上に広いから、仲がいい友だちに限定しなければちょっとした顔見知りまで友だちにカウントしそうだと思う。


「まあ、いいけど。仲がいい子いるよ」


 そう言うと、尋ねていないのに彼女は澪さんと聞いたことのない名前をいくつか挙げたけれど、その中には能登さんの名前はなかった。それはきっと先輩と友だちは違うということなのだと思う。


「一番仲がいいのって?」


 仙台さんの“友だち”は私が思う“友だち”とは違う。


 彼女は、薄くてぺらぺらした友だちじゃなくてもいい友だちしか周りに置いていない。それが意図的なものかどうかは知らないけれど、仙台さんは友だちに関してまともじゃない。


「一番? それ決めなきゃ駄目なの?」

「決めて」

「んー、一番か」


 仙台さんが難しい顔をして、「わざわざ決める必要ってある?」と諦めの悪いことを言う。


「あるから、一番仲がいい人教えて」

「どうしても決めなきゃいけないなら、澪かな」


 仙台さんの口から思っていた通りの名前が出てくる。


 面白くない。


 できれば、彼女の交友関係をすべて断ち切って、この家に閉じ込めておきたい。けれど、それは現実的ではないし、現実にすべきものでもないと思っている。


 ただ、澪さんが大学で仙台さんに一番近い人間というのは受け入れたくない。彼女は私の苦手なタイプで、あまり親しくしたい人間じゃない。それでも澪さんは仙台さんの“本当の友だち”に一番近そうだから、私にはしなくてはいけないことがある。


「で、宮城。これ、なんの調査なの?」

「仙台さん。今度ここに澪さん呼んで」

「……え?」


 意味がわからないといった声で仙台さんが言って、私をじっと見た。


「え? じゃなくて、澪さん呼んでほしいんだけど」

「……なんで?」

「会いたいから」

「……会ってなにするの?」


 仙台さんが探るように言って、テーブルを指先でトンと叩く。


「別になにもしない」

「なにもしないなら呼ばなくてもいいんじゃない?」


 往生際が悪い。

 たった一言「呼ぶ」と言えばいいのに、仙台さんはその一言を言ってくれない。おかげで私は「呼ばなくていい」と言いたくなる。


 私の決意はそれくらい柔らかいもので、押せば崩れてなくなる程度のものだ。


「澪さん、仙台さんの一番仲がいい友だちなんでしょ?」

「そうだけど、それと澪をこの家に呼ぶのとどういう関係があるの?」

「……仙台さん、舞香と仲良くしてるし、私も澪さんと仲良くする」

「――できるの?」


 できるわけがない。

 澪さんに会いたいわけではないのに、気持ちの方向をぐるりと百八十度変えて会いたいと言っているだけだから、仲良くなれるはずがない。


 だから黙り込むしかなくて、共用スペースがまた沈黙に包まれる。


「……宮城、本当に澪呼んでほしいの?」


 仙台さんの声が静寂を破る。


「呼んで」


 澪さんが茨木さんのような人なら良かった。

 放っておいても仙台さんは変わらない。

 私だけを見てくれる。


 でも、澪さんはわからない。


 私は仙台さんに近い“友だち”というものを見たことがない。


 きっと私は、この家に来た澪さんをもっとしっかりと見ておくべきだった。


「澪さんの予定に合わせるから、来る日が決まったら教えて」


 仙台さんに静かに告げて、私は食器を洗うべく立ち上がった。

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