第316話

「先に行くね」


 エロいことは言うけれどエロいことはしなくなった仙台さんはそう言って、私よりも先に大学へ行った。だから、私はしっかりと戸締まりをしてから家を出た。


 いつもの道をいつものように歩いて駅へ向かう。


 仙台さんが好きな三毛猫はいない。

 午前中は姿を現さないというわけじゃない。

 いつだってそうだ。

 三毛猫は私の前には姿を現さない。


 でも、仙台さんはときどき三毛猫の話をするから元気に生きているはずで、私があまり見ることのない通学途中の仙台さんを見ているはずだ。


 本当にむかつくし、苛つく。


 三毛猫のほうが私よりもこの道を歩く仙台さんのことを知っているなんて、酷い話だと思う。


 私は歩道を歩きながら、右を見て左を見る。

 やっぱり三毛猫はいない。

 大きなため息を一つついて駅へ急ぎ、電車に乗って、大学へ行く。


 講義室へ入るとすぐに舞香の姿が見えて、私は「おはよう」と声をかけてから彼女の隣に座った。


「志緒理、おはよ。昨日、どうだった?」

「昨日?」

「そ、昨日。仙台さんと水族館行ったんでしょ?」


 舞香の口から私と仙台さんしか知らないはずの出来事が流れ出てきて、思わず「え?」と聞き返す。


「仙台さんから聞いた。二人で行ったって」


 電話かメッセージか。

 情報の入手経路は限られていて、そのどちらかしかない。問題は、どちらであっても私の気持ちをざわつかせるということだ。


「うん、行った」


 明るく抑揚を付けて言う。

 隠し事はしているけれど舞香は大事な友だちで、そんな彼女に八つ当たりに近い感情をぶつけるべきじゃない。


 面白くないという気持ちは、私の中に留めておくべきだ。


 けれど、私と仙台さんだけのものだった“水族館”の話を知っていることに不満を感じることは止められない。そして、そういう自分が嫌になる。


 もっと言えば、仙台さんと舞香が連絡を取り合っていることにずっと不満を持ち続けている自分も好きではないから、ブロッコリーよりも春菊よりもピーマンよりも今の自分が嫌いだと思っている。


「二人とも水族館好きだよね。夏休みにも行ってたじゃん」


 楽しそうな舞香の声が聞こえてきて、心の中に渦巻く不満が表にでないように表情を作る。


「暇つぶしに丁度いいから」

「暇つぶしに水族館とか、デートっぽくない?」


 デート、という私と仙台さんには似合わない言葉が聞こえてくるけれど、今はそれよりも昨日の想い出が零れ出ていることが気になる。


「それと似たようなこと去年も聞いた」


 去年の夏休み、仙台さんと水族館に行ったことを舞香に話した。

 あのときは私から舞香に水族館の話をした。


 今回は仙台さんがそれをしただけのことで、不満に思うことじゃない。誰とどこへ行ったなんてことは、したくなくても話の流れですることのあるものだ。


 納得して、ざわざわとする気持ちを落ち着け、快く思わない私は封印したほうがいい。


「確かに去年も言った。でも、水族館ってデートの定番だし」

「舞香、そういうのじゃないってわかってて言ってるでしょ」

「そうだけどさ。でも、あんまり友だちと水族館行かなくない?」

「水族館好きな人は行くでしょ」

「暇つぶしで行ったって言ってなかったっけ?」


 舞香が面白がっているとしか思えない口調で言う。それは私にとって面白くないことで、言葉に詰まる。

 昔から彼女は私をからかって楽しむところがある。


「……アシカとかアザラシとか可愛いし、見に行きたいじゃん」


 なんとかそれなりの理由を見つけて口にすると、舞香が楽しそうに「ほんと二人とも仲いいよね」と言った。


「普通だと思う」

「仲いいって」


 講義室のざわめきに舞香の声が消える。


 仲がいい。


 そういう言葉で私と仙台さんを測るのは間違っている。


 それは友だちの尺度で、私と仙台さんを表す言葉として適していない。

 それに、私は仙台さんと友だちにはなりたくない。


 彼女は友だちとの付き合い方が希薄で軽薄だ。


 今まで見た彼女の友だちは“かりそめの友だち”とでも言うべきもので、そういうものと同じカテゴリーに放り込まれたくない。


 でも、私はそういうものが仙台さんにいることも許せずにいる。

 そして、“かりそめの友だち”ではない“本当の友だち”ができたときのことを考えて怯えている。


「家に帰りたい」


 小さな声で言って、机に突っ伏す。

 気が乗らない。

 やる気が出ない。

 大学にいるよりも早く家に帰って、仙台さんが私だけのものか確かめたい。


「出た。ネガティブ志緒理」

「今日、朝からいいことなかったから」

「可愛いアシカとアザラシの写真でも見て元気出したら? 昨日、撮ったんでしょ」


 舞香に脇腹をつつかれて、顔を上げる。


「撮ったけど」

「だったら、二人で可愛い写真見て元気出そうよ」


 困る。

 見せられない。

 水族館の写真は整理できていない。


 私のスマホには水族館の仙台さんがいて、それを見せるわけにはいかない。


 スマホに友だちの写真があるなんてことは珍しいことではないから、隠すほどのことではないとわかっているが、仙台さんは私の友だちではないから、仙台さんの写真を見せて“友だちの写真”と思われるのは許せない。


「写真ちゃんとしてないから。整理してから見せる」

「整理って……。志緒理、整理しないと見せられないような写真撮ったの?」

「上手く撮れなかっただけ。綺麗に撮れたヤツあとから送るから、それでもいい?」

「いいよ。その代わり、可愛くない写真だったら罰ゲームね」

「自信ない」


 私の言葉に舞香が「自信作のみ受け付けるから」と笑う。


 そのまま二人でくだらない話をしていると、講義室に先生が入ってきてお喋りの声がやむ。それでも完全には静かにならないまま、先生が講義を始める。


 私は平坦な先生の声を聞きながら、舞香をちらりと見る。


 仙台さんは舞香にも渡せない。

 舞香を仙台さんに渡すこともできない。


 仙台さんは私だけのものだから舞香は親しくしすぎてはいけないし、舞香は私の友だちだから仙台さんは親しくしすぎてはいけない。友だちらしきものになってもいけない。


 なってしまったら、舞香は仙台さんの本当の友だちになってしまうかもしれないと思う。そして今、本当の友だちに一番近いのは、たぶん、澪さんだ。


 仙台さんにそういう人間ができないようにするなんてことは、間違っている。

 誰にだってそういう友だちは必要で、いるべきだと思う。


 でも、仙台さんにはできなければいいとも思っている。


 私の中に相反する私がずっといる。


 良くない私が持っている感情は間違っていて、叶えていいものじゃない。

 そう思っても消すことができない。


 この気持ちの根っこにあるものは嫉妬で、私はずっとくだらない嫉妬ばかりしている。


 こういう自分が本当に好きになれない。

 はあ、と心の中でため息をついて、前を見る。


 仙台さんとのこれまでと、仙台さんとのこれから。


 全部、誰かに話すことができたら――。

 考えかけて、考えようとした私を否定する。


 答えは決まっている

 話すなんてあり得ない。


 私たちの間で起こったことは私たちだけのものだ。

 仙台さんが私だけのものだと知ってほしくはあるけれど、私と仙台さんの間にあったことも、これから起こることも簡単には話せない。


 上手くいかないな。


 はあ、今度はため息が口から漏れ出て、私はまた息を小さく吐いた。

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