第201話
視線の先には仙台さんからもらったリップ。
テーブルの上にぽつんと立っているそれを見ながら考える。
家庭教師のバイトならもう家に帰ってきているような時間だけれど、仙台さんはいつもより遅くなると言っていたからまだ帰って来ないはずだ。
それでも自分の部屋に戻っていた方がいいと思う。
このまま共有スペースにいたら、仙台さんが帰ってきたときに彼女のことを待っていたと思われそうだ。
でも、今日は一人で部屋にいたくない。
夢を見たベッドの近くに一人でいたら、考えなくてもいいことを考え続けてしまいそうだ。
私はテーブルに立てたリップを指先で倒す。
べたりとテーブルに突っ伏して、仙台さん、と呼んでみる。
彼女が呼ばせたがっている『葉月』という名前。
私がこの名前で仙台さんのことを呼ぶようになれば、舞香も同じように呼ぶことになる。私の中でそれがずっと引っかかっている。
テーブルの上、指先でリップをコロコロと転がす。
別に舞香を排除したいわけじゃない。
舞香はいてくれなければ困る大切な友だちだ。
私の中に、些細なことにこだわり、仙台さんからなにもかもを排除しようとする私がいて、私はその私を納得させることができない。
面倒くさい。
はあ、と息を吐くと、玄関で音がしたような気がして耳を澄ませる。パタパタと足音が聞こえて、背筋がぴっと伸びる。指先にリップが当たってコロコロと転がり落ち、思わず立ち上がるとテーブルに体が当たった。
「いたっ」
リップには私の痛みは関係ない。円柱形のそれはよく転がり、コロコロコロコロと共有スペースと廊下を区切るドアに向かって移動していき、タイミング悪く帰ってきた仙台さんのスリッパの先にコツンと当たった。
「ただいま。はい、落としもの」
リップを拾った仙台さんの声は他にもなにか言いたそうなものだったけれど、なにも言わずに笑顔を作っている。
「……ありがと。なんでこんなに早く帰ってくるの」
リップは一番拾ってほしくない人物に拾われ、私の手に戻ってくる。
「遅いと罰ゲームなんでしょ?」
仙台さんが柔らかな声で言って、鞄をテーブルの上に置く。
「そうだけど」
「じゃあ、今日は罰ゲームなしでいいよね?」
「なんで?」
「なんでって、今、自分で早いって言ったじゃん」
確かに言ったけれど、私の予想より少し早かっただけだ。早いか遅いかで言えば遅い。でも、ここで無理に罰ゲームをさせたら、その代償としてリップが床に転がっていた理由を聞かれそうだ。
「今日は思ったより早かったから、罰ゲームなしでいい」
「良かった。で、宮城はなにやってたの? もしかして私のこと待っててくれた?」
ふわりと笑うと、仙台さんがリップを握っている私の手を見る。
「待ってない」
私は仙台さんの足を蹴る。
「痛い」
「痛くしてる」
素っ気なく言うと、リップを持っている手を仙台さんが握ろうとしてくるから、握られる前に半歩下がって誤魔化すように言葉を続けた。
「バイト、面白い?」
「まあね。店長に学祭終わっても続けないかって言われてる。社交辞令だと思うけど、嬉しいかな。冬休みにバイトしてもいいかも。人手が足りなかったらだけど」
「冬休みもそこでバイトしたいんだ?」
「宮城もする?」
「バイトしないって前にも言った」
「覚えてる。でも、気が変わったら言いなよ。宮城がするなら、他のバイト探したっていいし」
「しない」
仙台さんを睨む。
でも、彼女は気にならないのか私をじっと見てくる。
視線が交わり、解けない。
「仙台さん、なに?」
そらされない視線に問いかけると、微笑まれる。
「なにってなに?」
「仙台さんがこっち見てるから聞いただけ」
「宮城だって私のこと見てるじゃん」
「見てない。……聞きたいことがあるだけ」
「聞きたいことって?」
仙台さんの視線から逃げるようにさっきまで座っていた椅子に座って、問いかける。
「仙台さん、夢って見る?」
バイトの話もリップの話もしたくないけれど、仙台さんが部屋に戻ってしまうのが嫌で、なんとか話題を作り出す。
「夢? それって将来の、じゃなくて、夜見る夢の方だよね?」
「そう」
夢の話は聞きたかったことの一つで間違いないが、考えなしに話しだしてしまったから、本当に聞きたいことを聞けるとは思えない。そして、私に聞きだす覚悟もない。
「毎日じゃないけど見るよ。ペンギンと一緒にいくら丼食べる夢とか」
「え?」
可愛いと言っていいのか、シュールと言っていいのかわからない夢を語られて、仙台さんを見上げる。
「私と同じくらいの大きさのペンギンと、かまくらの中でいくら丼食べる夢」
私がほしかった答えを口にしてくれるとは思わなかったが、予想の斜め上を行く答えだったから驚く。仙台さんはもっと現実的な夢を見るタイプだと思っていた。
「……ペンギンっていくら食べるの?」
「さあ、どうだろ。でも、魚食べるんだし、いくら食べてもおかしくないんじゃない? いくらも魚の仲間でしょ」
こういう適当なところは、いつもの仙台さんだ。夢の中でも適当なことを言っていそうで彼女の夢に興味が湧くけれど、私が聞きたい夢はこういう夢じゃない。
彼女に聞きたいのは、私が今日見た夢と同じような夢を見たことがあるかだ。
でも、聞いたら同じことを聞き返される。
「――他には?」
「他?」
「ペンギン以外の夢」
はっきり聞くことができない。
考えなしに話すようなことではなかったと思う。
「んー、そうだなあ。猫をもふもふする夢とか」
「それ、どんな猫?」
「忘れちゃった。宮城はどんな夢見るの?」
話が悪い方へ流れていく。
それなら、と思う。
「……仙台さんでてきた」
「へ?」
間の抜けた声を仙台さんが出す。
「夢で、葉月って呼べって」
私は今日見た夢の一端を口にする。
さすがに全部を話すことはできなくても一部だったら話すことができるし、話したら仙台さんがどういう反応をするか知りたい。
「……呼んだの?」
「忘れた」
「今、呼びなよ。――志緒理」
仙台さんの静かな声が体の中に飛び込んできて、心の柔らかい場所を押す。
こういうときに志緒理と呼ぶのは卑怯だ。
ずるい。
「やだ」
短く答えて立ち上がると、仙台さんが私の腕を掴んで軽く引っ張った。体が仙台さんの方に傾いて、彼女が当たり前のように顔を寄せてくる。唇が触れかけて、私は反射的に彼女の肩を押す。
腕を掴んでいた仙台さんの手が離れる。
その手は私の首筋を撫で、追いかけるように唇がくっつく。
首を這う生温かいものに体がびくりと震える。
それに反応するように唇が私から離れ、仙台さんが指先で頬を撫で、唇を撫でてくる。柔らかな感触が心地良くて仙台さんの服を引っ張ると、頬にキスをされた。でも、それだけですぐに私から離れてしまう。
「お風呂入って、もう寝ようかな」
そう言って、仙台さんがにこりと笑う。
「寝るの?」
「うん。バイト忙しくて、疲れたしね」
いつもと違って清々しいほどに諦めのいい彼女の服を引っ張ると、仙台さんが笑顔を崩さずに言った。
「なに? もっとキスしてほしいってこと?」
「違う。そんなこと思ってない。お風呂、私が先に入るから」
キスをしてほしいけれど、私からしてほしいとは言いたくない。
でも、冷たくしたいわけでもない。
今日はなにもかもが上手くいかなくて嫌になる。
「いいよ。出たら教えて」
仙台さんが優しく言う。
「わかった」
私は掴んだ仙台さんの服をぎゅうっと強く握ってから、ゆっくりと離した。
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