第360話

 残念だと思う。

 でも、仕方がないとも思う。

 予定よりも早く帰ることになった原因を作ったのは私だ。


「足、大丈夫?」


 そう言ってベッドを背もたれにして隣に座っている宮城を見ると、「大丈夫」と返ってくる。でも、絆創膏を剥がした彼女の足は赤くなったままで痛々しい。


 私たちは焼きそばを買った後、タクシーでお祭りが続く神社を後にした。家へ帰ってきてすぐに着替えてバスルームで宮城の足を洗い、絆創膏を貼ろうとしたが嫌がられた。


 焼きそばを食べてから私の部屋でオレンジジュースを飲んでいるけれど、やっぱり彼女は絆創膏を嫌がり、貼らせてはくれなかった。


 本当に宮城は強情だ。


「絆創膏、貼ったほうがよくない?」


 帰ってきてから何度も口にした言葉をまた口にすると、彼女がこれ以上ないほど面倒くさそうな声をだした。


「平気。絆創膏貼ってあると気になるから、このままでいい」


 宮城が膝を抱えて、足の先をぴこぴこと動かす。


 靴下を履いていないから、指がよく見えるし、赤くなったところもよく見えて胸が痛い。


 でも、本人は鼻緒で足が擦れて赤くなっていることも痛みもまったく気にしていないようで、いつもの彼女と変わらない顔――ようするに少し不機嫌そうで、つまらなそうな顔をしている。


 けれど、浴衣を脱いでデニムパンツをはいた彼女は随分とリラックスしていて、早く帰ってきて良かったと思う。


「じゃあ、明日、病院行く?」


 私は彼女の赤くなった足を見つめる。


「仙台さん、大げさ過ぎ。明日は家でゴロゴロする。疲れたし」


 宮城から聞こえてきた“疲れた”という言葉が私の頭にコツンとぶつかり、床へコロリと落ちる。私はその言葉を拾い上げるように「ごめん」と告げた。


「こういうときに謝られるの、やだ」

「ごめん」


 また謝ってしまって、「やだって言ってるじゃん」と腕を押される。


「……痛かったら絶対に言ってよ」

「言うから、この話終わり」


 膝を抱えていた宮城が、赤くなった足を隠すように手で覆う。

 そして、この部屋から言葉が消え、静寂が訪れる。


 宮城の足を見ていると謝りたくなってしまって、喉を押さえる。


 テーブルの下でくつろいでいるカモノハシを見る。

 ティッシュを生やしたそれは脳天気な顔をしていて、ほんの少しだけ胸の痛みが和らぐ。


「ねえ、仙台さん」


 宮城が静かな声で私を呼ぶ。


「やっぱり足痛い?」

「そうじゃなくて。――世の中の人の足って、鋼鉄なの?」

「……え?」

「みんな下駄履いてても足痛くならないじゃん」

「あー、そういう意味か。慣れなんじゃない?」

「仙台さんは慣れてるの?」

「宮城よりは慣れてるかもね」


 場を和ませようとしてなのか。

 本気で聞いているのか。


 よくわからないが、宮城が“鋼鉄”なんて突拍子もないことを言いだしたせいで力が抜ける。カモノハシの脱力効果と相まって私の罪悪感が半分くらいになり、口元がほころぶ。


「宮城って、ときどき馬鹿みたいなこと言うよね」

「仙台さんほどじゃない」


 べしんと膝を叩かれる。

 いつものやり取りが心地いい。

 最近の私は宮城に助けられてばかりだ。


 私は彼女のデニムに覆われた膝の上に手をぺたりとくっつける。


「……変態」


 ぼそりと言われて、「まだなにもしてないんだけど」と返す。


「それ、これからするってことじゃん」

「嫌?」

「やだ」

「なんで?」

「今日はお祭りに一緒に行く日だったから、それ以外はなし」

「けち。同じ日にほかのことしたっていいでしょ」

「よくない」

「じゃあ、足舐めていい? 赤くなってるところ」

「仙台さんって馬鹿だよね」


 さっき私が言った台詞と似たような台詞が返ってくるが、心外だ。こういう馬鹿みたいなことを教えたのは宮城で、私はそれを覚えただけなのだから、責任を取るべきだと思う。


「仙台さん、またなんか変なこと考えてるでしょ」

「考えてる」


 小さく答えると、宮城が私から少し離れる。

 膝の上に置いた手をさらに強くくっつけて、宮城、と呼ぶ。すると、彼女は私のその手をばりばりと剥いで、さらに離れた。


「冗談だから」


 私はカモノハシが生やしているティッシュより軽く言って、にこりと笑う。


「仙台さんが言うと冗談に聞こえない」

「冗談じゃないほうが良かった?」


 静かに尋ねると、宮城が私から視線を外す。


「……仙台さんってどうしてこういう日に変なことしたがるの?」


 私を見ない宮城がまた膝を抱え、赤くなった足をぴこぴこと動かす。


「こういう日って?」

「わかんないならいい」

「言いなよ。気になるじゃん」

「……記憶に残りそうな日。クリスマスとか」


 ぼそぼそと小さな声が聞こえてくる。

 宮城は相変わらず私を見てくれないから、どんな顔をしているのかはっきりとわからないけれど、そんなことを言ってくれる彼女が嬉しい。


「私のこと、記憶に残してほしいから」


 もちろん、そういう日ばかりを選んでいるわけではない。記憶に残りそうではない日のことも、記憶に残してほしいと思っている。


「……私は、記憶をほかのことに使いたいんだけど」

「ほかのことって?」

「いちいち仙台さんに言う必要ない」

「けち。言いなよ。たとえば今日はなんに記憶を使うの?」


 宮城のTシャツを引っ張って尋ねると、力いっぱい肩を押される。


「痛い」

「痛くした」

「痛くしてもいいから、教えてよ。宮城」


 そう言うと、宮城が眉根を寄せて私を睨む。そして、カモノハシのティッシュカバーを引き寄せ、私との間に置いた。


「人に浴衣着せてお祭りまで行かせたのにそういうこと言うの、むかつく」


 これは、たぶん。

 遠回しだけれど。


 彼女が言う“記憶を使いたいほかのこと”は“お祭り”のことだ。


 それは私にとってとても嬉しいことだけれど、同時に胸がちくりと痛くなることでもあって、私は彼女の足に視線を落とした。


「……今日の記憶、そこまでいい記憶じゃないでしょ。上書きすれば」

「それは私が決めることで、仙台さんが決めることじゃない」


 隣から不満そうな声が聞こえてきて、心臓がどくんと鳴る。


 一緒に浴衣を着て、お揃いの下駄を履いて、お祭りに行って、美味しいものを食べた。


 それはいい思い出になったけれど、反省することがいっぱいあっていい一日にはできなかったと思っていた。


 でも。

 宮城はそうは思わなかった。


 私は床に置かれているカモノハシを宮城に渡す。そして、ティッシュカバーごと彼女を抱きしめる。


「仙台さん、暑苦しいんだけど」

「我慢しなよ」


 後悔しすぎだということはわかっている。


 私に気を遣わせないようにしている宮城のためにも、赤くなった足から気持ちを切り離さなければいけないと思っていた。けれど、それをできずに後悔の沼に沈んでいた私を宮城が引っ張り上げてくれた。


 最近優しい宮城が今日も優しくて、後悔で灰色になっていた心を真っ白に塗り替えてくれる。


「……なんでこんなことするの?」

「宮城が可愛いから」

「可愛くない」


 低い声が聞こえてきて体を離して宮城を見ると、むっとした顔をしている。けれど、気にせずに頬にキスをする。


「そういうことしなくていいから、離れてよ」

「あと五分したら離れる」

「長い」

「短いでしょ。そうだ。明日、病院行かなかったらなにするの?」

「ゲーム。仙台さん、ぼこぼこにする」

「……それ、ほかのものにならないの?」

「ならない」


 宮城がきっぱりと言って、私の腕の中から逃げ出す。そして、私にカモノハシを押しつけた。



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