第92話

 宮城の部屋は、暖かいというよりは少し暑い。

 それでも寒さに震える体育よりはマシで、私はブラウスの二つ目のボタンを外す。


 指先に宮城の視線が纏わりつく。


 もう一つ外してと言われるかと思ったら、彼女はなにも言わずに麦茶とサイダーを持ってきた。そして、参考書や問題集を並べたテーブルの隙間にそれを置いて隣に座った。


 命令はしてこない。

 宮城は、静かに問題集へ視線を落とす。


 ペンダントはまだ確かめないらしく、少しほっとする。


 今日は、宮城から触られたくない。

 夢と感覚がリンクしそうで嫌だ。


 でも、今そう思っているのは私だけで、宮城はなにも思っていないはずだ。すべて私の問題で宮城には関係がない。


 私は頭の中から夢を追い払って、参考書を一ページめくる。


 なにかあってもなにもない顔をしているくらいなんでもない。


 麦茶を一口飲んで、ペンを持つ。

 参考書ではなく隣を見ると、宮城が小さな声で言った。


「仙台さん、もしも……」


 自分から話しかけたくせに言葉はそこで途切れて、待っても続きが聞こえてきたりはしない。会話の卵がかえることなく息絶えてしまうのは、あまりにも気持ちが悪い。だから、先を促すように「もしも?」と問いかけると、宮城が重い口を開いた。


「もしも、なんだけど」

「うん」

「……私が仙台さんと同じ大学を受けて合格して、同じ大学に通うようになったらなにするつもりだったの?」

「んー、そうだなあ」


 私は頬杖をついて考える。


 宮城の声は、さして興味のなさそうなものだった。


 参考書を見たままで顔を上げないから、頬に髪がかかっていて表情はよくわからない。手元のノートを見れば、落ち着かないのか意味のない線がいくつも引かれていた。


「一緒にご飯でも食べようかなって」


 明確なビジョンがあったわけではないから、思いついたことを口にする。


 同じ大学に行けたら。


 そう思っているのは事実だけれど、宮城としたいことを考えたことはなかった。


 私には、大学生になったら急に宮城が素直になって一緒に街を歩いたり、遊びに行ったりしてくれるなんて都合の良い想像はできない。私を遠ざけようとする想像の方がしっくりくる。


 なにか考えたところでそれは叶いそうにないし、遠ざけられる未来しか想像できないのなら、考えることを放棄した方がいい。


「近くの大学だったら?」


 どれくらいの確率かは知らないけれど、近くの大学を受けるかもしれない宮城が声色を変えずに言って顔を上げる。


「まあ、一緒にご飯食べる感じ?」

「同じじゃん。それしかないの?」

「それくらいしかすることないし。それ以外になにかしたっていいけど、宮城はどうせ友だちじゃないからしないって言うでしょ」


 宮城の言いそうなことは大体予想できる。そして、先回りして彼女の台詞を奪ったらなにも言わなくなってしまうことも予想できていて、その予想は当たっていた。


 案の定、宮城はなにも言わない。


 私は、テーブルの上に置かれている彼女の手を握る。


 ぎゅっと握ったわけではないが、宮城の手がぴくりと小さく反応する。けれど、それだけで怒ったりはしなかった。


 最近はいつもこうだ。


 相変わらずキスはされたくないようだけれど、触ることは許してくれる。拒まれるときもあるが、なにか言いたげな顔をしていても文句を言わずに受け入れてくれることが多い。どういう心境の変化なのかは聞いても答えてはくれないからわからない。


 指先を撫でて、指の間に自分の指を滑り込ませる。


 こうして宮城に触れていると、手だけではなくもっと宮城に触れたくなる。宮城も私と同じ夢を見たことがあるのか知りたくなる。


 私は、宮城の手を強く握る。

 手は握り返されない。

 それどころか、逃げ出そうとする。


「仙台さん、勉強できないんだけど」

「大丈夫。私もできないから」


 手を捕まえたまま答えると、宮城が不満そうな顔をした。


「大丈夫じゃないじゃん。……こんなことして面白い?」

「わりと」

「私の手なんか握ったって面白くないと思うけど」


 言いたいことはわからなくもない。

 私も、どうして手なんか握って楽しいのかわからない。それでも、宮城に触れたくなるのだから仕方がないと思う。


「面白いか面白くないかは私が決めることだし、ここで宮城以外の人の手握ってたら怖いでしょ。宮城、夜眠れなくなるよ」

「変なこと言わないでよ」


 宮城が眉間に皺を寄せて、私の手から逃げ出す。そして、露骨に嫌な顔をしたまま床に置いてあったティッシュの箱を掴んだ。


「これの手でも握ってれば」


 私はワニのカバーがついた箱を押しつけられて、手を繋ぎたいわけでもないワニと握手を交わすことになる。


 握るには物足りない短い手をしたワニは、宮城に比べると随分と柔らかい。体温はないが冷たいわけではないからそれほど触り心地は悪くないけれど、手を握っていても面白くはなかった。


 私よりもこの部屋に長くいるワニは、気に入られているのか汚れ一つない。随分と乱暴な扱いを受けているところも見ているが、綺麗なままだ。


 私も邪険にされるよりは、この程度には大事にされたいと思う。


「楽しい?」


 ワニを抱えている私を見て、宮城がそっけなく言う。


「それほどでもないかな」


 私は持ち主よりも素直そうな顔をしたワニの鼻先をひと撫でして、そこに唇をつける。


 体温のないワニは、宮城の唇とは違ってキスをしても面白くはない。これが宮城だったら良いのにと思う。それくらい私は夢に引きずられている。


「そういうことしないでよ」


 宮城はそう言うと、自分で私に押しつけたワニの尻尾を掴んで奪っていく。


「いいじゃん。ワニにキスするくらい」

「良くない」

「宮城、冷たいよね。呼び出しても来ないしさ」


 私は宮城に抱えられたワニの頭をぽんっと叩いて、麦茶を飲む。


 音楽準備室での一件の後、もう少し詳しく言えば今から一週間ほど前、私はもう一度学校で宮城を呼び出した。けれど、彼女は音楽準備室に来なかった。


 呼び出しに応じなかった理由は教えてくれなかったが、想像はできる。


 きっと、この前出した交換条件がまずかった。


 妙に用心深い宮城は、私が触る以上のなにかをするかもしれないと警戒して呼び出しに応じなかったに違いない。


「それ、この前も話したよね。大体、呼んでも行かないって言ったじゃん」


 宮城が面倒くさそうに言う。

 彼女とこの話をするのは初めてではないから、うんざりした顔をするのもわかる。


「そうだけど、来るつもりがないならもっと早く連絡してよ」


 音楽準備室に宮城が来なかった日、十分もしないうちに連絡が来たから遅いと文句を言うほどではなかったし、来ないだろうとも思っていた。それでも、文句はいくら言っても言い足りない。


「早めに連絡した。それに、交換条件出されるのもやだし」


 宮城は私が予想した通りの答えを口にする。


「私がしたことは、たいしたことじゃなかったと思うけど」

「今度はたいしたことあるかもしれないし」

「ないって」


 下心がないとは言わないけれど、宮城が本気で嫌がることなんてするわけがない。


 でも、そんなことを言っても信じてもらえないほどに信用がないことはわかっている。


 私は今も宮城にもっと触れたくて、信用を失うようなことをしたいと思っている。けれど、これ以上信用を無くしたら手に触れることすらできなくなりそうで、私は宮城の腕の中にいるワニの頭を撫でた。


「……じゃあ、呼び出してなにしようと思ったの?」


 宮城がぼそりと言う。


「決めてなかったけど。そうだなあ。名前で呼んでもらうとか」


 私は、返事がわかっていながらちょっとした希望を口にする。


「名前?」

「そう。葉月って」

「呼ばない」

「一回くらい呼びなよ」


 即答されることは想定の範囲内で、一回くらいと条件をつけても無駄なことも想定の範囲内だ。それでも口にすることくらいは許されるだろうから、私は期待をせずに宮城を見る。


 視線が合って、すぐに外される。

 宮城がうつむく。

 そして、ぼそりと言った。


「葉月、なんて呼ばない」


 まあ、一応。

 微妙なラインではあるけれど。

 名前を呼んだということにしてもいいのかもしれない。


 朝、最低に近かった気分も随分と和らいでいる。


 私は、宮城の手をワニから奪って握る。すると、今度は柔らかく握り返された。

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