第83話

「貼ってよ。私、病人だしさ」


 当然の権利のように仙台さんが言う。


 いつもなら冷却シートが入った箱を投げ返して、自分でやればと突き放す。


 今日だってそうしたいけれど、目の前にいるのは本人が口にした通り病人だ。

 そう思うと、いつも通りにはできない。


 調子が狂う。


 せめて、もう少し元気そうなら、と思う。


 仙台さんの声は掠れていて、いかにも風邪をひいているという声に聞こえる。しかも、わざわざ熱があるか聞いてしまったせいで冷たくしにくい。


 私は箱を拾って、ベッドに近寄る。


「ここ、座っていいよ」


 ベッドの端に腰掛けている仙台さんが隣を叩く。


 風邪がうつるなんて言うつもりはないけれど、夏休みにこの部屋で起こったことが頭に浮かぶ。あの日、仙台さんは命令をしていないにも関わらず、ベッドに座った私の足を舐めた。


 今の彼女が同じことをするとは思わないが、ベッドに座ることを躊躇う理由にはなる。


「宮城、座りなよ」


 どうしようかと迷う私に、仙台さんの言葉が柔らかなものから強制力を含んだものに変わる。


 立ったまま冷却シートを貼ってもいいけれど、いうことをきかなかったらうるさそうだと思う。今日の彼女は、病人という立場を最大限利用しようとしている。


 私は仕方なく仙台さんの隣に少し離れて座って、箱を開ける。


「貼るから、こっち向いて」


 取り出した冷却シートを見せると、彼女は素直に私の方を向いた。けれど、おでこは出してくれない。邪魔でしかない前髪を上げるために手を伸ばすと、その手を掴まれた。


 熱い。


 手の甲に伝わってくる熱は風邪をひいているのだとわかるもので、一瞬怯む。手を強く引かれて、冷却シートがベッドの上に落ちる。


 仙台さんとの距離が縮んで、唇がぶつかるように触れた。


 手と同じように、唇もいつもより熱い。

 舌先が遠慮なく口の中に入り込んでくる。


 ぬるりとしたそれもやっぱり熱くて焼けるようで、受け入れるしかない。ただひたすら熱い舌が口内を探るように動いて、私の舌にからみつこうとしてくる。


 噛んで、押しのけて、文句を言うには仙台さんの体温が高い。掴まれた手も、触れている唇も、柔らかな舌も熱いから、逃げられない。


 離れてほしいと思う。

 でも、それほど嫌じゃない。


 伝わってくる熱のせいで、まともな判断ができなくなっている。


 動き回る舌に応えるつもりはないけれど、追い出したくもないと思う。重なり続ける唇が気持ちが良くて、どれくらいキスしているのかもわからない。


 時間の感覚が消え、頭の中が仙台さんのことばかりになっている。


 息が上手くできなくて、苦しい。


 重なっている手から逃げ出してパジャマを掴むと、仙台さんがゆっくりと離れる。思わず掴んだパジャマを引っ張りそうになって、誤魔化すように不満を口にした。


「……今、絶対にキスするタイミングじゃなかった」

「宮城が近寄ってきたから」

「近寄らせたんじゃん。シートも落とすし、仙台さんもうなにもしないで。それに、今みたいなキス気持ち悪い」


 病人だからと、いうことをきいた私が馬鹿だった。


 ちょっと優しくしたら、すぐこんなことをしてくる。


 文句を言うほど嫌ではなかったけれど、もうキスはさせたくない。


「もう少し柔らかい言い方しなよ。傷つく」

「しない。傷つくっていうなら、もう今みたいなことしなかったらいい」

「……本気で怒ってる?」


 きつい口調ではなかったと思う。けれど、普段は私が怒ろうが機嫌が悪くなろうが気にしない仙台さんの声に不安が滲んでいた。


 熱のせいで気弱になっているのかもしれない。


 本当に調子が狂う。


 こんなことを言われたら、私が悪いことをしたような気持ちになってくる。


 仙台さんには気持ちが悪いと言ったけれどそんなものは嘘で、ああいうキスにも慣れてはきた。病人相手に言い過ぎだったかなとは思う。だから、前言を撤回しないまでも仙台さんの言葉は否定しておく。


「怒ってはないけど、機嫌は悪い」

「じゃあ、交換条件。命令してもいいよ」

「なにが、じゃあ、なの。命令しないから」

「なんで?」

「病人に命令するほど最低な人間に見える?」


 命令したいことはあるけれど、熱がある人間に命令するほど人でなしじゃない。病人という立場を活用する仙台さんに比べればまともな人間で、今日は少しくらい仙台さんのいうことをきいてあげてもいいと思っている。


「私は宮城が最低でもいいよ」

「変なことばっかり言ってないで、そろそろ寝なよ」


 私は仙台さんの肩を押す。けれど、彼女は横にはならずコンッと咳をした。


「ほら、風邪悪くなってるじゃん。寝て」

「寝たくない」


 咳をしながら仙台さんが言う。


「普通、咳するくらい風邪ひいてたらキスしないと思うんだけど。風邪うつったら、仙台さんのせいだからね」

「うつしたくてキスしたんだから、宮城、風邪ひきなよ」


 仙台さんが耳を疑うようなことを言って、制服の袖を引っ張ってくる。


「それ、酷くない? 私、風邪ひいて一人で寝てるのやなんだけど」


 彼女は普段からなにを考えているかよくわからないけれど、熱があるせいか今日は一段とよくわからない。まともな人間なら人に風邪をうつしたいなんて言わないし、これまでそんなことを言われたこともなかった。


「私が看病しにいくから」

「しなくていい」

「なんなら、泊まり込みで看病してあげようか?」 

「絶対に泊まらせない。仙台さん、なにするかわかんないもん。もう寝なよ」


 今日の仙台さんは私の話を聞く気がない。


 看病の押し売りをされるのも困るし、家に泊まられるのも困る。実際に泊まりに来るなんてことはないだろうけれど、冗談でも間違いが起こりそうなことは避けておくべきだと思う。


「宮城、寝たら帰るでしょ」


 仙台さんが珍しく拗ねたような声を出す。

 私は、出そうになるため息を飲み込む。


 あまり冷たくはできないし、病人の相手は少し面倒だ。


「寝るまでいたら、優しい方だと思うけど」

「病人には、もっと優しくしなよ」

「これ以上?」

「そう」

「そんなに優しくしてほしいなら、余計なことしないでよ」

「余計なことしなくても優しくなんてしないでしょ」


 心外だ。


 今日の私は、余計なことをした仙台さんにも優しいと思う。でも、そんなことを言っても今の彼女には通じない。私は落とした冷却シートを拾い、コンビニの袋からヨーグルトを取り出して仙台さんに渡す。


「これでも食べて大人しくしてて」

「……ありがと」


 ヨーグルトは素直に受け取られ、ペリペリと蓋が剥がされる。そして、一口、二口と彼女の口に運ばれていく。


「宮城、もう少しここにいなよ。そしたら、早く風邪治りそうだし」

「私、風邪薬じゃないから」

「知ってる」

「馬鹿みたいなこと言ってないで、食べたら寝なよ」

「さっきも言ったけど、寝過ぎて眠れない」

「それでも寝て」

「じゃあ、宮城がキスしてくれたら寝る」


 ヨーグルトを食べていた手が止まる。

 スプーンが容器に置かれ、指先が私の唇を撫でる。


 仙台さんの体温は変わらない。

 相変わらず熱い。


 けれど、指先から伝わってくる彼女の熱は心地が良かった。もっと触れてほしくて、唇を撫でる指先を捕まえる。顔を近づけかけて、小さく息を吐く。


「仙台さん、調子乗りすぎ。寝なくてもいいから横になりなよ」


 食べかけのヨーグルトを取り上げて、テーブルに置く。


 当たり前のようにキスをねだられて勘違いしそうになるけれど、そういうことをするためにここに来たんじゃない。


 私は箱の中から冷却シートを取りだして、文句を言いたそうな顔をしている仙台さんの額に貼る。


「冷たい」

「温かかったら不良品だから」

「そりゃそうだけど」

「あと、寝ないなら帰る」


 冷却シートほどは冷たくない声で宣言すると、仙台さんが少し考えてから「じゃあ」と言った。


 あまり良い予感はしない。

 それでも「なに?」と問い返すと、静かな声が返ってくる。


「手、貸してくれたら寝る」

「手?」

「そう」

「それくらいならいいけど」


 キスに比べると穏やかな提案を受け入れると、私の返事に満足したらしい仙台さんがベッドに横になる。催促するように手を出されて、私は自分の手を重ねた。


「手なんて繋いで楽しい?」


 やっぱり熱い手を握って尋ねると、ぎゅっと手が握り返される。


「結構ね」


 そう言うと、仙台さんはゆっくりと目を閉じた。

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