第343話
「えー。葉月、酷い。あたしじゃ不満?」
朗らかな声のまま澪が言う。
澪に不満はないし、彼女はなにも悪くない。
悪いのは、宮城がここへまたやってくると期待した私だ。
私は澪が置いたチーズケーキと水出しアイスコーヒーに視線をやってから、彼女に向かって笑顔を作る。
「不満なんてないって。澪が持って来てくれて良かった」
「嘘っぽいなー」
「本当だって」
にこやかに告げると、澪が「もう少し褒めてくれたら信じられるかも」と満面の笑みで言う。
澪の子供じみた遊びにどうしても付き合わなければいけないというわけではないが、私の態度が良くなかったのは事実だし、澪には恩がある。彼女がいなければ、宮城がバイトをしている姿を見ることができなかった。
澪、可愛い。
今日も美人だね。
笑顔で言うと、「そろそろ許してあげようかな」と返ってくる。贖罪が済んだ私は「それで、澪。宮城は忙しいの?」と聞きたかったことを尋ねた。
「忙しくはない。キッチンに立てこもってるっていうか、食器洗い大好きっ子になってる」
「なるほどね」
たぶん、オーダーを取りに来たことが奇跡で、その奇跡を起こしたのは澪のはずだ。どう考えても彼女に感謝すべきだが、今の私は口を開くとろくなことを言いそうにない。
はあ、とため息がでそうになって手をぎゅっと握りしめる。
水出しアイスコーヒーを飲もうか迷ってグラスをじっと見ると、澪の明るい声が聞こえてきた。
「志緒理ちゃんさー、可愛いよね。葉月がママになるのわかる」
聞き捨てならない台詞が耳に飛び込んできて視線を上げる。
「なにそれ」
澪から何度も“志緒理ちゃん情報”を聞いているが、今のような台詞は聞いたことがない。
「あたしのことめちゃくちゃ警戒してるのに頼ってきたりして、可愛いんだよね。苦手なことも真面目にやるし。なんかこう、小動物的というか。ハムスター、いや、リス。んー、違うな。なんだろ、こう可愛い動物っぽい感じがする」
猫、と言いたくなるが我慢する。
宮城のことを猫だと思うのは私だけでいい。
それよりも澪の言葉の中に浮かび上がる宮城が気になる。
澪は、私の知らない宮城を見ている。私の前では絶対にしないことをする宮城を見ている。
これが宇都宮なら仕方がないと思える。宇都宮は私よりも前から宮城を知っているし、宮城の親友でもある。でも、澪は違う。宮城を知ったのは私よりも後だし、つい最近まで友人ですらなかった。
それなのに――。
「あたしの周りに今までいなかったタイプの子だから、ほんと面白い。可愛がりたくなる」
にこにこと澪が言う。
私の知っている限り、彼女の友人に宮城のようなタイプはいない。だから、面白いと感じたり、可愛いと感じるのだと思う。
私は水出しアイスコーヒーを一口飲む。
せっかく宮城が勧めてくれたのに、あまり美味しいとは思えない。
「葉月のおかげで面白い子と知り合えたし、感謝してる」
澪の声が耳に響く。
嬉しくない。
感謝されたくない。
宮城を可愛いと思うのも、可愛がるのも私だけでいい。宮城との出会いに感謝するのも私だけでいい。宮城は私にとって大事な人だが、ほかの人の大事な人になってはならない。
だから、これ以上、澪に宮城を知られたくない。
でも、そんなことを口に出すわけにはいかないから、私は水出しアイスコーヒーで口に出せない気持ちを黒く塗りつぶす。
「澪。仕事、戻らなくていいの?」
笑顔を貼り付けて澪を見ると、聞きたくない声が聞こえてくる。
「仙台ちゃん、こんにちは」
澪の後ろから能登先輩が顔を出して、わざとらしく笑う。
「こんにちは」
「宮城ちゃんとは楽しい時間を過ごせたかな?」
軽い口調で能登先輩が言い、テーブルの前へやってくる。
「とても」
にこりと笑って返すと、澪が「ちょっと先輩」とやけに真面目な声をだして言葉を続けた。
「志緒理ちゃん目当ては駄目だから」
「大丈夫。仙台ちゃん目当てだから」
能登先輩が目を細めて澪に笑いかける。
「じゃあ、大丈夫だ。葉月の話し相手もできたし、あたしはそろそろ仕事に戻ろうかな。あとは二人で仲良くしてて」
適当な言葉を置いて澪がキッチンへ戻っていき、能登先輩がにこやかに言う。
「仙台ちゃん。綺麗な顔が怖い顔になってるんだけど」
能登先輩にはバイトを紹介してもらった恩がある。
いろいろとお世話になっているし、悪い人だとは思っていない。けれど、素直にいい人だとも思えない。
「ここで宮城に声かけたりしてないですよね?」
意識したわけではないけれど、声が低くなる。
「いきなりそういう話?」
「教えてください」
「宮城ちゃんはなんて言ってる?」
座っていいかと聞かれていないし、座ってくださいと言ったわけでもないが、能登先輩が私の向かい側に座る。
「能登先輩とは喋ってないって言ってます」
「じゃあ、そういうことだ」
「本当ですか?」
「宮城ちゃんのこと、信じてないんだ?」
能登先輩がにやりと笑う。
先輩に言われるまでもなく、私は宮城を信じている。信じられないときもあるけれど、信じたいと思っている。でも、能登先輩は信じていない。
なにも言わずに能登先輩を見ると、先輩は「大丈夫」と言って言葉を続けた。
「本当に話しかけたりしてないから安心して。澪から新人に声かけるなって釘を刺されてるしね」
「私も先輩に、宮城には関わらないようにってお願いしたはずですけど」
「澪優先ってことだから」
「澪優先って――」
口にした言葉は最後まで言うことができない。私の言葉を奪うように能登先輩が「仙台ちゃん、あっち見て」と言い、キッチンのほうを指さした。
「……宮城」
私だけにしか猫に見えない人の名前が零れ出る。
さっき水出しアイスコーヒーとチーズケーキを持ってこなかった宮城が、なにかを持ってこちらに向かってきている。
ただ、やけに遅い。
足が止まってもおかしくない速度だと思う。
「仙台ちゃん怖いし、そろそろ席に戻るとするか」
そう言うと、能登先輩が立ち上がる。また大学で、と先輩が笑顔を作り、宮城と関わることなく元いた席へと歩いて行く。
どうやら先輩は、本当に宮城に声をかけないようにしてくれているらしい。
疑って悪かったと思う。
追いかけて謝ったほうがいいのかもしれないが、立ち上がろうとは思えない。それは視線の先に宮城がいるからだ。じっと彼女を見ていると、ゆっくりと私がいるテーブルへやってくる。
「澪さんが、お水持ってけって。……でも、仙台さんいらないみたいだけど」
ウォーターピッチャーを持った宮城がオーダーを取りに来たときと同じ位置に立ち、テーブルの上のグラスを見る。それは口を一切つけていないグラスで、水は一ミリも減っていない。
「今、飲む」
ごくりと飲んで、グラスの中身を少し減らす。
私が減らした分だけ水を宮城が注ぐ。
澪はお節介なところもあるが、知れば知るほど“良い人”だ。彼女がいなければ、宮城がまた私の元へ来たりはしなかった。
すぐ人を合コンに巻き込もうとするところはどうかと思うが、宮城に言われなくても親しくするべき相手だと思う。高校時代の友だちと同じカテゴリに分類すべきではない。
そう思ってはいるけれど、私に必要なのは宮城だけで、私の知らない宮城をどんどん知っていく澪を遠ざけたくなる瞬間がある。
「もういらないよね」
宮城の明るくも暗くもない声が聞こえてくる。
「いる」
三分の一ほど水を飲んでグラスを置く。
宮城が水を注いで、私を見る。
きっと私は宮城になにを言われても、今以上に澪と親しくなれない。適当な人付き合いが染みついた私は、澪の心に踏み込むことができない。
家族との関係が変わって、私は友人との距離を変えた。
線を引いて分ける。
そこから先へは行かないし、いれない。
自分が引いた線ですべてをわけた世界は殺風景ではあったけれど、慣れてしまえば過ごしやすかった。
自分のテリトリーを決めてそこを立ち入り禁止区域にしてしまえば、深く人と関わることはないし、心の平穏を保ち続けることができる。
心が触れあうような距離よりも、笑顔を貼り付け、名前を呼ばなければ気がつかないくらいの距離で付き合うほうが楽だし、学校の楽しいところだけを掬って過ごせる。友人としての付き合いがなくなっても、そんなものだと思える。
私は宮城がいれてくれた水を一口飲む。
「あんまり飲むとお腹壊すよ」
宮城が呆れたように言う。
「それ空になるまで飲もうかな」
ウォーターピッチャーを指さすと、「馬鹿じゃないの」と返ってくる。
特別は、私に馬鹿だという宮城だけだ。
立ち入り禁止区域と決めた場所に、彼女はそっと入り込み、そこにいることが当たり前になっている。殺風景だったそこは、宮城に浸食され、色づけられ、今は宮城がいなければ成り立たない。
宮城が水を注いでいるこのグラスのように、私にはいついかなるときも宮城が注がれ続けている。
私はもう一口水を飲む。
宮城がたいして中身が減っていないグラスに水を注ぐ。
「じゃあ、私、キッチンに戻るから」
素っ気なく言って、宮城が私に背を向けようとする。
「待って。宮城、バイトもうすぐ終わるでしょ。一緒に帰らない?」
「帰らない」
宮城が私を見て答える。
「外で待ってるから」
「……外でって、ずっと?」
「近くで時間潰して、終わる時間くらいに戻って来る」
「待ってなくていい」
そう言うと、宮城は私に背を向けた。
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